細胞STAMP
「もう、なんで貴方はいつもグズなのよ!」
夜のマンションの一室に、怒りに満ちた声が響き渡っていた。声の主は、ここで長年夫と一緒に住んでいた妻だ。
結婚して間もない頃は、彼女も夫との生活を優雅に楽しんでいた。頑張って仕事に励む彼を応援するべく、彼女は得意の手料理や身支度などで奮闘を続けていた。だが、そんな日々が何年も続くにつれて、二人の間で小競り合いが起きるようになってしまった。互いの良いところばかりが見えていた薔薇色の日々は終わりを告げ、双方の欠点が目に付くたびに、それを改善するよう口論となる事ばかりが多くなってしまったのである。
そんなネガティブなやり取りを繰り返す中で、次第に妻の堪忍袋の緒は、僅かな刺激で切れてしまいそうなほどになっていた。そして、呑気に帰ってきてご飯を要求する夫に対して、とうとう怒りが爆発したのである。
「貴方はいつもそうよ!いくらご飯を作っても、私にありがとうも言わないで……!」
会社でも万年平社員、給料も少なめ、その癖いつも小遣いを無駄に使って、自分よりも趣味に充てている――妻の口から、次々に今までの鬱憤が夫に向けて発射され続けた。それを聞いた彼は、すぐにしょんぼりとした顔になり、次からは気をつけるから、と反省したような態度を見せた。だが、それもまた妻を苛立たせる原因になってしまった。
「次って何よ!またどうせ同じ事を繰り返すんでしょ!」
「そ、それは……く、繰り返すかもしれないけどな……」
「……もう、あんたなんて知らない!」
これ以上口論しても、反省を実践しない彼には暖簾に腕押しであると考えた妻は、捨て台詞を残して台所へ戻り、乱暴に冷えた夕ご飯を夫に差し出した。彼は一切の文句も言わずに無言で食べ続けた。
「はぁ……」
その夜、夫が眠りについた後のリビングで、妻はパソコンの画面を見ながら溜息をついていた。こんな筈ではなかったのに、と。自分が恋焦がれ、見事結婚を果たした彼は、もっと頼りあって何もかもを軽々とこなし、自分にとても優しいと言う理想の人だと信じていた。それなのに、今や彼は自分をいつも苛立たせる存在に成り果ててしまっている。一体どうすれば、自分の夫を元の理想の姿に戻すことが出来るのだろうか。
そんな事を思いながらネットショッピングを見ていた彼女の目に、ある商品が留まった。
「なになに……『細胞STAMP』?」
そこに映っていたのは、変わった名前のスタンプであった。しかし、世の中にありふれたごく普通のスタンプとは違うという事は、商品画像の隣に記されていた、全長数十センチと言う巨大さに表れていた。こんな巨大な物体をどうやって使うのだろうか、とそのページに目を通し始めた彼女の顔が、少しづつ驚きと嬉しい予感に満ち始めた。
このスタンプの用途は、インクをつけて紙に判子を押すためではない。細胞のような形の印を特定の人に押し付けて、そのまま一晩おけば、『細胞STAMP』の持つ不思議な力によって、その人はどんな物事でも軽々とこなす、万能の力を有する人物に生まれ変わるというのだ。これを使えば、名門大学で主席を取ることも、オリンピックで金メダルを総なめにする事も可能である、と説明文には書かれていた。勿論、会社で一気に業績を伸ばし、社長になることも夢ではない、とも。
「す、凄い……!」
傍から見ると完全に眉唾ものの内容だが、夫の不甲斐なさに苛立っていた彼女にとってはまさに渡りに船だった。こんな夢のような道具、何で今まで知らなかったのだろうとまで考えたのである。そして、凄まじい力をもつ割には値段もかなりお手軽だったため、彼女はすぐさまこのスタンプのような何かを購入することにした。
そして数日後の昼下がり、彼女の部屋に大きな箱が届いた。宅配会社の人にお金を払い、ワクワクしながら箱を開封すると、そこには両手で握る必要があるほど巨大なスタンプが入っていた。これこそ、あらゆるものを万能の存在に変えてしまう『細胞STAMP』である。
「これさえあれば……!」
妻の頭の中は皮算用でいっぱいだった。スタンプの効用で何でもこなし、あっという間に社長にまで上り詰めた夫と一緒に、様々な場所へ遊びに行き、美味しいご飯を作ってもらい、たっぷりと良い事をしてもらう、と言う薔薇色の未来予想図が、彼女を包み込んだのである。そして早速彼女は『今』の夫へ別れを告げる豪華な料理を作ろうと台所へ向かった。
箱の中にあった取扱説明書や、そこに書かれていた使用上の注意には、一切目もくれずに。
「ほ、本当にこんなにいいのか……?」
「いいのよ、今までいつもお世話になってきたでしょ?」
その夜、美味しそうにちらし寿司を食べる夫の姿を、妻は笑顔で見ていた。『今』の不甲斐ない夫が居なくなるのはほんの少し名残惜しいが、明日からはもっと格好いい彼と一緒に暮らせる事を考えると、希望の未来が待つ嬉しさで再び彼女の顔はほころんだ。
そして、夫が寝静まった丑三つ時、とうとう妻は作戦を実行に移した。口を大きく開いた夫が眠る寝室にこっそり潜入した彼女は、腕に抱えていた巨大な『細胞STAMP』を両手に持ち替え、慎重に彼の顔に近づけた。そして――。
「……!?」
大きなスタンプが彼の顔の皮膚と接した途端、顔全体を包むように、細胞のような形を示す青白い光の印が現れた。何もインクをつけていないはずなのに、と驚いた妻だが、薄っすらとしたこの光を見る限り、どうやら作戦は見事に成功したようだ、と確信した。明日になれば生まれ変わった夫がこの場所で眠っているはず、いやもしかしたら、逆に自分を優しく起こしてくれるかもしれない。朝になるのが待ち切れない心を抑えながら、妻はそっと部屋を後にして、自分の寝室へと戻っていった。
だが次の日、妙に静かな夫の部屋のドアを開いた妻の顔に満ちていたのは、希望でも幸福でもなかった。何がどうなっているのか、と言う愕然とした表情だったのである。
「あ、おはよー、おかーたん」
夫のベッドの上にいた者は、何をやっても不甲斐ない昨日までの『夫』とは全く違う人物であった。だが、妻が理想としていた、何でもこなす格好いい夫ではなく、ぶかぶかの寝巻きを着ながらこちらを眺める、年端もいかない一人の子供だったのである。舌足らずの声で自分を呼ぶその姿に、あっという間に彼女の顔は青ざめた。
ようやく彼女は箱の中に入っていたままの取扱説明書を取り出し、慌てて中身を読み出した。そして、注意事項の欄に目を通した途端、彼女は絶叫した。
「な、何よこれええええ!!」
この『細胞STAMP』が押された人は、何もかもをこなす万能の力を得る事が出来る。だが、あらゆる物事を何でもこなす可能性を秘めさせるためには、どの能力にも手を触れておらず、様々な未来を掴む力を持つだけの存在にさせる必要がある。すなわち、今までの人生を全て初期化し、最初からやり直さなければならないと言う訳だ。それは人間で言うと、子供に戻る事に等しい、と説明書には記されていた。
そう、妻によってスタンプが押された夫は、一晩のうちに子供に逆戻りしてしまったのである。今までの思い出も、会社で積み上げてきた業績や知識も、全て記憶から消え失せた、何も知らない純粋無垢な小さな子供に。
確かに、今の『夫』には無限の可能性が眠っているかもしれない。だが、それを得るためには一から教育をし直す必要がある。
万能というものが簡単に作れる、そんな上手い事なんてある訳が無いのだ。
「おかーたん、まんまー♪」
無邪気にはしゃぐ『夫』の姿を呆然と見続ける妻の頭には、今まで以上に地獄な未来が浮かんでいた……。




