四、冬
――どうして、俺はこんなところに居るんだろうか。
周りには、喪服を来た知人がいた。
――なあ、なんでお前はずっと笑顔なんだ。
正面に掛けられたヤツの写真は、笑顔。年賀状で送られてきたあの写真から、ヤツだけを切り取ったモノだ。
――なんで、なにも言わないんだよ。
棺桶を見つめ、手元の数珠をやるせなさに握りしめた。
――なんで、そこにお前がいるんだよ。
そこに入っていたのは、何も喋らなくなった、岡原 健治の身体だった。
自分がそれを知ったのは、三月中旬。あの、名古屋駅の電光掲示板で、だった。
以前の時と同じように、駅前に立ち、水筒のお茶を飲もうとしていた。
どこぞのアイドルが誰それとスキャンダル、というある意味日常茶飯事な内容を言っていた電光掲示板が、突然切り替わり、ニュースキャスターの映像に切り替わった。
『番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします』
何故か、頭の隅の方がチリチリと痛んだ。見るな、見ない方が身のためだ、と忠告するように。
『先ほど、アーティスト名ガハラ。本名、岡原 健治さんが、何者かにナイフで刺され重体との発表が――』
頭の中が、真っ白になった。
持っていた水筒を地面に落とし、その中身がタイルの地面にぶちまけられる。そんなのどうでもいい。
周りでは、電光掲示板の内容に気付いた通行人が驚きの声を出し、盛んにケータイで電光掲示板を撮っている。
『――こちら、現場の加藤です。はい。ガハラさんが刺されたとされるこちらの楽器店では、現在警察による実況見分が行われています。犯人は、先ほど確保されたとの情報がありました。犯人は確保されました』
映されていたのは、どこかの小さな楽器店だった。入口に立ったリポーターの周りでは野次馬が店内を見つめ、そこから先はトラテープで入れなくなっている。
『先ほど、警察により店内の防犯カメラの映像が公開されました』
画面が切り替わり、荒い映像が映された。楽器店の定点カメラだ。
画面左端に居た男に、入口から入ってきた人影が背中から覆いかぶさる。二人は何度か暴れた後、ふっとした瞬間に最初にいた方の男が倒れた。すると、その人影は男に馬乗りになり、ドンドンと自分の手を打ちつける。何回かその打ち付けが終わると、男の方はぐったりとして動く気配がない。人影はそれで気が済んだように店内からのそのそと出て行った。その足元に、足跡のようについている血の跡が一つ二つ…。
映像が中断される。スタジオで、ニュースキャスターが手元の資料を大急ぎで読み上げる。
『繰り返します。先ほど、ガハラさん、本名岡原 健治さんが何者かに刺され、重症です。犯人はすでに確保されました。入りしだい次の情報を――』
俺を我に返したのは、スーツのズボンの中で鳴ったケータイだった。着信は、先輩から。
「お前今どこや!? まだ名古屋か!?」
自分でもちゃんと返事が出来ていたかは覚えていない。ただ、話が繋がっていたから、恐らくちゃんと伝えられたのだろう。
「今日はもう戻ってこやんでええ! 東京まで新幹線で行け! 旅費は経費か、俺が出す!」
俺と『ガハラ』が知り合いだと伝えてあった先輩に有無を言わさず命令される。
しかし、この後の仕事は…。
「アホかお前! ダチの生き死にに仕事もクソもあるか! どうせ書類書きはデータで終わっとんのやろ! 途中で送ってこい!」
あとは俺がなんとかするさかい!
そこで通話が一方的に切られた。
放心状態で切符を買い、なんとか新幹線には乗れた。車内でノートパソコンを開き、書類を先輩に送る。もうあとはまかせるしかない。
行く途中、ケータイからニュースサイトへアクセスし、情報を拾った。
犯人は男。店のすぐ近くで取り押さえられた。ヤツが運び込まれた病院の場所。容体は不明。重傷。
ヤツにも電話したが、何回掛けても誰も出ない。もしもの時と教えられていた、奥方のケータイに掛けると、三コール目で出た。
今からそっち行っても大丈夫ですか。
「来てください! 早く! あなたは来ないとダメなんです! 来るべきなんです!」
電車に揺られるうちに、落ち着き、そして冷静になった。次に来たのは、何物にも言い換えがたい、不安。
――ヤツはどうなった。これからどうなる。どうしてこうなった。
緊張と悪寒が胃の底から昇り、何回もトイレで吐いた。
間に合え、と思い、そもそも「何に」間に合うのかを想像してまた吐いた。全ての心配が杞憂になれと、そう願った。
結果だけ言えば、俺は間に合わなかった。
都内の総合病院に、伝えられた手術室へと野次馬を押しのけて走った。
だが、それと一緒に聞こえたきたのは、ビーという心拍数ゼロを示す音。あれはドラマだけの話ではなかったのだと思った。
手術室のすぐ前で、奥方が泣き崩れ、医師達が下を向いていた。
ヤツは、どうなったんですか。
まるで、答えがまだ二択であるかのように問いかけた。「是」の選択肢を肯定したいがために。
「手を尽くしましたが…」
その沈黙には、あるゆる「否」が隠されていた。
刺された時点で、骨が様々な臓器に食い込んでおり、ほぼ死亡が確定の状態だったらしい。それを何とか俺の到着の数秒前まで生きながらえらせたそうだ。
どうしてあいつが楽器店にいたのかと言えば、もうすぐそこに迫った結婚記念日に、記念のモノを買おうと一人で行ったからだそうだ。刺された時も、店員が頼んだ商品を包装するのを待っていたらしい。
あの楽器店は、奥方とヤツが初めてあった楽器店で、二人の思い出の品を、と店員に話していたらしい。
奥方へは、二人が会った時からあり、奥方が欲しがっていた楽器と、彼女のためだけに作った歌を送るつもりだったそうだ。
そして、もう一つ。これは俺宛のプレゼントだった。添えられたカードには、いつもの礼だと書かれていた。これも、俺だけのために作られた歌。タイトルは「親友のアリへ」。
ふざけるな、とそのCDを渡されたときに呟いた。こんな、こんなことで俺が納得すると思っているのか。
犯人は、二年前のあのストーカーだった。
ストーカーは、罰金刑で済んだ後、ヤツのことを依然追いかけていた。
徐々に評価されていくヤツを見て、やはり自分が正しかったと思うと同時に、ヤツが結婚したことを有り得ないと拒絶した。そして、思い至ったそうだ。殺してしまえば、これ以上自分の理想からは乖離しないと。
紅白に出たことが犯行を決意させる決め手となったらしい。
それまでも何度か尾行していたが、多忙だったヤツが一人になる時間はほとんどなかった。あったとしても、家の中や、すぐに奥方とのやり取りができる場所だった。
そして、お忍びで小さな楽器店に訪れたのを好機と見て、犯行に及んだらしい。
本人も犯行を全面的に認めており、実刑は確定だった。
あとで、ストーカーには、病名の長い精神障害の名前が幾つか与えられた。
ワイドショーは、人気絶頂であったアーティストの突然の死を悲しい出来事として報じた。一部では、かつての対処を誤ったツケではないかという論もあったが、概ねは、頭のイカれたストーカーに幸せの最中殺された、という論調だった。妻と親友のためのプレゼントを作っている途中に殺された、というのもお茶の間の涙を誘ったらしい。
葬儀は、事件のあった四日後。場所を極力秘密にし、身内と知人の何人かだけで行われた。ファンのための献花台が都内のどこかに置かれているそうだ。
葬儀の最中、喪服に身を包んだ奥方は、用意されていた椅子に座っていた。妊娠二か月目。結婚記念日に打ち明けようとしていたらしい。
葬儀自体は滞りなく進んだ。ファンの何人かが葬儀場の外で待ち構えていたそうだが、大きな騒ぎは起きていなかった。
会社の方は、後輩と先輩にそれぞれ頑張ってもらえ、業務上は何の問題もなかった。作った書類もほぼ一発合格で上に通った。旅費も経費で落としてもらえた。ホワイト過ぎて少し怖くなる自分の会社だった。
自分のアパートに戻れたのは、事件が終わって一週間後。その頃にはワイドショーも幾らか沈静化し、いつもの業務に戻れるようになっていた。
仕事は、以前と変わりなく進められた。業務も少しずつ拡大されており、休もうという気持ちは起こらなかった。
だが、ふとした瞬間に、脳裏にいろんなものがフラッシュバックした。
白黒の防犯カメラの映像。馬乗りになる男。ビーという音。喪服。葬儀での奥方。CD。葬儀の写真。
その度に、トイレに駆け込んでは吐いていた。
職場の人間には心配されたが、何でもないと言い張って仕事に戻った。
仕事に、何も考えずに没頭していれば、何もかもを忘れられると思えて。
とうとう誤魔化しが効かなくなったのは、世間では夏休み少し前となる頃だった。
倒れた。
吐き出した所為で碌な栄養が取れず、そこに夏の暑さが重なり、昼休み中に気を失った。最初に見つけてくれたのは後輩で、泣きながら救急車を呼んだそうだ。
運ばれた先では栄養失調と判断され、栄養剤を幾らか貰う。だが、もう限界だった。
「…なんや、これ」
居酒屋のカウンター席。倒れた日の二日後の日曜日に、先輩を呼び出していた。先輩は、すでに自分の直属の上司となっており、自分の査定や人事はこの人が担っていた。
渡したのは、茶封筒に入れた、退職願。
「…ふざけとんのか」
もう、自分は責任を持って働けるような状態ではなくなった。精神科に行けば、PTSDあたりの病名が貰えるだろう。こんな状態で、何度も倒れて会社に迷惑を掛けるぐらいなら、いっそやめた方がいろんなところに利益がある。
理由を説明すると、先輩は溜息をつく。
「俺、前からゆうてるやろが。お前は頑張りすぎやっちゅうて」
とりあえず、これは預かっとく。そういって先輩は封筒を懐にしまった。
「有給、全然使ってないやろ? 一週間でもいい。休んで、落ち着け。その間考えや」
結局やめるなら、それは給料泥棒になる。
「…俺は休めゆうとんのや。わかるか、あ?」
関西弁の、ドスの利いた低い声が耳元で囁かれた。
「第一、他のことはどうするつもりや。引き継ぎ、今やってる業務、それに、後輩んこと」
黙ることしかできなかった。安酒を喉に流し込んだ。
有給の届けは、先輩が全部やってくれていた。
しかし、できるのは家の中であてもなく寝る事だけだ。
そして、呼び起こされる、記憶。
何度も、あの光景が巡って、眠りから突き放される。寝間着は脂汗でぐっしょり。
考えて考えて、どうしてこうなったのかと堂々巡りした。
あれが起こったのは、全ての因果関係がガチガチと固まった結果だった。一番最初のドミノが倒れたところから、真っ直ぐに今へと向かっていた。
ヤツは、音楽で身を成したかったから上京した。才能があったから、ストーカーに付きまとわれる結果となり、その対処はあの奥方にしか出来なかった。そこから二人の仲が深まるのは当然と言えるし、結ばれるのは最高の結末だ。評価が高まるのはヤツの努力の成果で、幸せの恩を返そうとするのは人間として上等としか言いようがない。
――それら全てを合わせた結果が、最悪の最後を生み出したとしても。
何もできなかった、いやできたはずだ。「働きアリ」の本能のように、最善を見つけようとする思考の反復を行った。そして、たどり着く答え――何もできることはなかった。
部屋にいるだけで、何回も吐いた。トイレがすっかり酸性臭くなる。
「今から、そっち行きますね」
三日目の昼に、後輩から電話が掛ってきて、一方的に切られた。
慌てて部屋を片付けた。脱いだ服が散らばっていたのを適当にたたみ、洗濯籠に入れる。トイレは念を押して流しておいた。シンクは、まともなものを食べていないので掃除の必要はない。着替える気力も余裕もなかった。
電話から三十分後。チャイムが鳴った。
「一週間ぶり、ですね。久しぶりです」
私服なのはどうしてか。
「私も早退させてもらえました。大先輩さんに頼んだら、二つ返事でオッケー貰えて」
お茶を入れ、二人でテーブルに向かい合って座った。
仕事の方はどうなってる。
「まあ、なんとか、ですね。他部からの手伝いも来てもらっています。少し勢いが落ちていますけど、現状維持はできています。…もっとも、あなたが一人で仕事抱え過ぎてた所為でこっちはてんてこ舞いなんですけどね」
それはすまなかった。取引先から何か言われたか。あと、俺の持ってた案件で、同僚コンビに頼んだのが…。
「…どうして、あなたはそこまで自分以外のことに気がかけられるんですか…?」
…。
「ガハラ…岡原さんのことはわかります。つらい出来事であったのは事実です。だけど、どうしてそれであなたが、こんなになるまで! 悩んで! 死にかけて! 何もかもを投げ出す必要性が…すいません。取り乱しました」
ふ、と息継ぎの溜息を後輩した後、お茶を少し口に含んだ。喉を鳴らす音がした。
「…今日は、お見舞いに来たんじゃないですし、仕事の報告に来たのでもありません」
じゃあ、何をしに?
「…襲いに?」
思わず身を引いた。
「出来れば、ですけど…」
本気なのかどうかはっきりしてほしい。
「今言うのも何ですけど、もう一度、私との関係、考えて貰えませんか」
どうして今、なんだ。
「だって、多分、このままだったら、一生会えなくなりますよね、絶対。着信も拒否して、いなくなって、最悪自殺しますよね、あなた」
半分図星だ。死ぬことまで考えていない。
「だから、今、答えを出してください」
前にも言っただろ、信頼はしている。だけど、恋愛じゃない。
「はぐらかさないでください。イエスか、ノーか」
ジ、と目があった。
…怖いんだ。
「何がですか」
大事な人がいなくなるのが。
「…そんなこと、」
そんなことじゃない。
「…」
俺は、二度とあんな気持ちを味わいたくない。同性の、親友であれだった。もしもあれが、自分が恋愛感情を向ける先なんかだったら、俺はどうなっていたんだ。あれより弱いつらさであることを願えというのか。もっと俺が考えていれば、俺はヤツを助けられていたのか。どうやれば助けられたんだ。
「…平均寿命は女性の方が上です」
そういう問題じゃない。
「…そんなに、失うのが怖いんですか」
ああ、怖い。
「…」
俺は、働きアリなんだよ。集めること、働くことに意義を感じてる。だから、失うこととズルをするのが大嫌いだ。
「…そんなの、得ることがあるんだから、失うことが成立するんですよ? 生きていくには、それが必要で、」
そんな、一般普遍な答えで俺が何か思うと思っているのか。道理じゃない。歪んだ主義主張の話だ。
「…なら、私が、あなたの後ろに立って、あなたが失ったモノを拾います。パートナーとして、部下として!」
答えになってない。何をする気だ。
「私が、どんな時でも、あなたを支えて、慰められる場所にいて、絶対に失われません! だから、だから!」
答えになってない! 俺は、そういうことが欲しいんじゃない!
口論。論理の欠片もない口論だった。売り言葉に買い言葉。ああいえばこういう。子供の喧嘩のようだった。
だから!
「でも!」
後輩が立ち上がり、こちらに詰め寄った。
「煩いんです! なんで、うちはあんたのこと好きって何度も言うてるのに! 男ならそれを受け止めてくださいよ!」
後輩の言葉に、方言が混じり出す。
恋愛感情とか、そういう話じゃなねぇんだよ! そうだよ、俺はお前が好きだよ! 頼りにしてる! だから! だから一緒になれない! なりたくない! じゃないと俺は――!
そこで、強引に押し倒され、口が唇で塞がれた。
数秒間の沈黙。怒号で力んでいたこちらの体からゆっくりと力が抜け、緊張が弱まっていく――なんだこの少女漫画のヒロインは。
は、と唇が離された。マウントポジションを取った後輩は、泣きそうな顔でこちらを見下ろしていた。
「誰も、あなたを恨んでいません…!」
充血した目から、涙が一筋。
「健治さんも、奥さんも、私も、大先輩さんも! あなたは最良を選択して、そして遂行できた! 健治さんは、あなたの手が届かないところで死んでしまった! あなたには何の責任もない! 皆、あなたを責めません! 許してくれます!」
見る間に後輩の顔が歪んでいき、言葉の端々から嗚咽が漏れだす。
「健治さんは、最後まであなたをどう思ってたんですか!? あなたはあの人から何を貰ったんですか!? そこに、あなたのことが最低だと、書いてあったんですか!?」
後輩は、こちらの胸に顔をうずめ、しゃくりあげて泣き出す。
また、記憶がフラッシュバックした。だけど今度は、いつもとは違う。
『俺をキリギリスとするなら、お前はアリだな』
『おめでとう。がんばれよ?』
『働きアリが適材適所を望むようになったか』
『見くびるな。善意でやってくれてる人間を裏切るほど落ちぶれちゃいない』
『ありがとう。照れるな』
何度も交わした、会話。いつかの記憶。
涙が、自分の頬を伝った。
『うるさい。…ありがとう』
『お前は絶対に幸せになる。俺が保証する』
そんな、無責任なことを…!!
「幸せになっていいんです…! あなたは、幸せにならないといけないんです…!」
『幸せを望めよ、働きアリ』
泣いた。
ヤツが死んでから、やっと、初めて、泣くことができた。
歯を食いしばっても嗚咽が止められずに流れ、いくら目をこすってもとめどなく涙がこぼれる。
両手で目を覆い、顔を涙でグショグショにして、泣いた。
「泣いてください。泣いて、全部忘れましょう? 幸せになりましょう?」
後輩を胸の上に乗せたまま、夜まで泣き続けた。
口の端からヤツの名を何度も呟き、悲しい、寂しいと、子供の様に喚いた。怒って、泣いた。
次でラスト、明後日。