第七話 情報屋
11月25日、6:30修正
地下駐車場から地上へ出ると、太陽はすでに姿を隠していた。台形の窓に目を移せば、たくさんのテールランプが、暗闇と照明で飾られた町の中を蠢いている。その中央を貫くように、西の方から青白い光を帯びたリニアトレインが疾走してくるのが見えた。
電気自動車の後部座席に座った理音は、やや疲れた様子でドアに肩を預けていた。その横には、白いスーツを身に纏った少女が眠っている。横たえるときには少し寒そうにしていたので、車に置かれていたタオルケットを腰の辺りまでかけてやった。タオルの端を口元に引き寄せる仕草が木の身を食むリスのようにも見え、笑みを誘われた。
シズ・シティの南区にある港湾と工業地帯は、町を囲うように作られた片側四車線の幹線道路で他の各区と繋がれている。中央区にはどこからでも行けるが、北区に向かうには三か所ある高架道路のいずこかに入らなければならない。
その内の一つは通行に一般のETCと別箇のチップを必要とし、山の手にある超高級住宅街に通じている。透過壁のチューブで作られた、混雑とは無縁のセレブ専用道路だ。ときおり見かける、空を飛んでいる高級車の中には、およそ一般人とかけ離れた人種が乗っている。
速い車を先に行かせた後で、譲が車線を変更するべくハンドルを切った。
譲と理音は中央区のやや西よりに住んでいた。到着は相当早かったものの、日没から間もない今は帰宅ラッシュの時間帯だ。側道の道路標識には渋滞の二文字が記されていた。周りにひしめく大量の電気自動車とともに、100キロ制限の道路を40キロ程度でのろのろと進む。
前が詰まって車が停車したところで、おもむろに譲がハンドルを握っていない方の手を座席越しに差し出した。
理音は軽くうなずくと財布から札を何枚か取り出し、大きな手の平に乗せた。
「毎度あり。ふふん、今日の成果はそのかわいこちゃん以外にもあったようだな」
楽しげに鼻を鳴らす譲に、理音は何とも言えぬ顔をした。警備機構の男への口利きで発生した必要経費と手間賃を払った。ただそれだけのことで何故そんなことまで看破されたのか。当たりを引いたことはまだ切り出してもいないはずだった。
「窪塚さんか矢木さんにでも聞いたのか? あぁ、それともキャス……はトランクの中か」
「他の解体屋と顔を合わせる機会はそうそうねえよ。せいぜいメールでのやり取りくらいだな。種明かしすると、いつものおまえさんならピン札は選り分けてるはずだぜ」
譲の手に握られている札束の先が左右に揺れた。近いうちにまとまった金が入るんじゃないかと目星をつけたのだ。意識したつもりはなかったのだが、と理音が頭を掻いた。
「ったく、相変わらず抜け目ねえな」
「観察力を磨くのは悪いことじゃないさ。もちろん知識を蓄えることもな。あぁ、そういえばおまえさん、そろそろ――」
「んなら、後学のために聞いておきたいんだけど、抜け道を使うに当たってはいくらくらい掴ませているんだ?」
嫌な話に入りそうな流れを、声を被せて押し留めた。譲は一瞬きょとんとしたが、すぐに察したのだろう。小さく肩をすくめた。
イーストの少女を町に入れるためにはチェックなしでヤハヴェイを収納する必要があった。そのために顔の広い譲に口利きしてもらい、業者用の搬入口を開いてもらっていた。曲がりなりにも違法行為をさせるには先立つ物が必要だ。もっと言えば、渡したうちのいくらくらいを譲がピン跳ねしてるのかにも興味があった。
「別に決まっちゃいないさ。こんなのは気持ち、荷物持ちに渡す景気付けみたいなもんだ。おまえさんだって外国にいたんだったら何となくわかるだろ?」
「そんなもんかね」
「そんなもんだ。ま、そんなことを頼めるのも今まで培った信頼の賜物だけどな。言っとくけど、俺以外の頼みはそう簡単に聞いてくれないと思うぜ」
「信頼、か。平たく言えば脱法行為のお得意様ってことだろ?」
理音がそう言ってにやりと笑った。ミラーに映る譲の顔がむっとした。
「聞き捨てならねえこと言うな、マジでやばいもんを取引したこたぁ誓って一度もねえぞ。ただまぁ、遵守しかねる決まりごとが腐るほどあるのは事実だがな。ちなみに、渡してる額は100エルから500エルってとこだ」
「スイッチを切り替えるだけでか。いい商売だなぁ」
「そうかぁ? もし俺だったら1000エルもらえたとしてもやらんがな。あそこだって暗視スコープは何箇所も取り付けられているはずだ。万一上の連中に見つかったら、確実にクビが飛ぶぜ」
「それにしたって、搬入口の開閉には2分とかからないのに。リスクがないとは言わないけれど、チップの一言で片づけるには少し高すぎやしないか」
「あんまり細かいことを気にしなさんな、肝心なのはもたらされる結果だ。警備員は豪勢な飯にありつける。俺はユカリンに新しい服を買ってやれる。おまえさんは身元不明の女の子を町ん中に連れ込める。誰も損しないでみんなが幸せになれた。これぞ持ちつ持たれつの理想形じゃねえか」
まったく大した口上だ、と理音が苦笑いした。こちらの出費に言及しない辺りが特にいやらしい。
「100から500って、なんでそんなに金額の幅があるんだ?」
譲はバックミラー越しに投げかけられた理音の視線を受け止めた。右目のモノグラスが通り過ぎていく町の光を映していた。
「鼻歌でも聞こえてきそうな雰囲気なら100エルでも十分。元々幸せなんだから金額の高低で機嫌を取る必要はねえ。だけど、不機嫌そうならもうちょい色をつけてやる。本人がネガティブになってるときにリスクを負わせようとすれば、せっかく培ってきた信頼を損ねちまうからな」
「なーんだ、ただ顔色を窺うだけか」
なんてこともなさそうな話に理音は落胆を隠せぬ様子だった。そんな心の内を見透かしたように、譲が口の端を釣り上げた。
「簡単に言うけど、これもなかなか奥が深いんだぜ? 大きい枠組みでいえば金の価値なんてそうそう変わるもんじゃねえが、日常の枠組みで言えばしょっちゅう乱高下する。感情によって色艶が違って見えるのさ。例えば、財布に札が一枚もないときに100エル札をもらうのと、十枚以上あるときにもらうのとじゃ嬉しさも違ってくるもんだろ?」
「それは、まぁ……何となくはわかるけど」
理音は曖昧にうなずいた。実際、大金が入った直後に下ろした金はあっという間になくなっていくし、逆に残っている数少ない札はなるべく崩さないように気を遣っている。
「それよりさっきから気になっているんだが、そのお嬢ちゃんの身元とか名前とかってえのは、確認したのか?」
「あー、聞いたような聞いていないような。イーストって言葉に意識がいっちゃってたからな」
理音が少女を見下ろしながら首を捻った。無線の聞こえが悪かったこともあり、他の言葉はほとんど印象に残っていなかった。後で改めて聞けるだろうと思い、身を入れて聞いていなかったことも一因だろう。
「そっか。って、その子はイーストの人間なのか?」
「多分ね、だから譲さんに連絡したんだよ、見つかったら色々面倒くさいだろ。とりあえずは手当と、この格好をなんとかしないとね」
概してシズ・シティの住人はイーストの人間を快く思っていない。街の東に赴けば内戦の爪痕がそこかしこで見受けられるし、家を焼け出された者たちの恨みの根が浅いはずもない。
手当は当然として、まずは普段着を着せることが肝要だ。女性の機士は大型免許保持者以上に少ない。ましてこんな年端もいかぬ少女が機士用スーツを身につけているとなれば、人目を引く外見も相まって噂の的になること請け合いだ。何かの拍子に身元がバレたら身の置き場がなくなってしまう。
「へぇ、おまえさんが着替えさせてやんのか?」
楽しげな譲の口調に、理音の顔が赤らんだ。
「ばっ、んなわけあるかよ。縁さんに頼むに決まってんだろ」
「かぁ、もったいねえ。人命救助なんだから胸張って脱がすチャンスじゃねえか」
「……俺さぁ、あんたが本当に元軍医なのか、ときどき疑いたくなるんだけど」
「おぅ、俺は女の裸をたくさん見たいがために医師免許取ったんだ。欲望丸出しで頑張ったら本当に試験受かっちまってよ。周りの連中も目を丸くしてたなぁ」
「譲さん、頭はいいからなぁ」
「その言い方だと、頭以外は悪いみたいじゃねえか」
「譲さん、頭もいいからなぁ」
「……いや、わざわざ言い直されてもあれだけどよ。まぁなんだ、女の裸も仕事で見せられるとなると、気が滅入るもんでな」
「ありがたみが減るってわけか」
理音がぽつりと呟いた。我が意を得たりとばかりに譲が二度うなずいた。
「まさにそれだ。ま、ユカリンだけは別格だけどな。あいつは着痩せするタイプだから、脱ぐと結構凄いんだぜ。ちょっと前まで一生洗濯板のままだと思ってたのに、人間って侮れねぇよなあ」
譲が、どうしても解けなかった問題の解説を聞いているような表情でそう言った。
「……ふーん、ちょっと意外だな」
「んー、想像の中でのこととはいえ、自分の嫁さんをネタにされるのはちっと複雑だな」
「してねえ」
譲の言い回しに理音が鼻白んだ。まだ全身像を思い浮かべただけで脱がしてはいなかった。
「ところで、その子が着ている機士スーツだが、どこ製って書いてある?」
譲がハンドルを左に切りながら興味深げに訊ねた。ここまで本格的な機士用スーツには滅多にお目にかかれない。自分もさほど詳しいわけではなかったが、1万エル程度で買えないことくらいは知っている。
なんとなしに少女の二の腕を指でつついてみると、相当な弾力で押し返された。耐熱性だけでなく、防弾性にも優れているようだ。
「どこ製とかって、そんなのどこに書いてあるんだ?」
「正規品であれば、まず間違いなく首元にロゴがついてるはずだ」
理音の指が少女の首の裏に回り、襟の部分についた商標らしきものを手繰り寄せた。が、番号はどこにも見当たらない。書かれているのはアルファベットの二文字だけだ。
「TCって書いてある」
「……それだけか? 他には」
何も、と理音が首を振った。
「イーストで真っ先に思い浮かぶ企業っていうと、<タテミネ社>かな。彼女が乗っていたMAGもあそこのティアラスだったし、機士用スーツのメーカーなんてそういくつもあるわけじゃないし。番号とかが一切書いてないから非売品って線も考えられるけど」
「非売品か、やっぱり気になるな。話を戻すけど、その嬢ちゃんはどの辺りにいたんだ?」
「北東の採掘場の近くだ。座標でいうと、ここと門との丁度中間点くらいかな」
「ほー、どういった経緯でそんな場所に?」
「あんまり詳しくは聞けなかったけど、貨物機で飛んでいたところをいきなり何者かに狙撃されたらしい。それでやむなく下りたんだと」
「かぁー、この界隈も物騒になったもんだな」
「大方、金目当てに境界線張ってる例の賊連中だろ。そのまま見捨てるのもなんだし、逃げる手助けくらいはしてやろうかと茶々入れてみたってわけさ」
「おいおい、戦いに介入したのかよ。特定されるような痕跡は残してないだろうな」
「そんなへまはしない。ちゃんと平和的に解決した」
とまでは言い切れないが、なるべく被害を与えぬようには気を遣ったつもりだった。少女の方はともかく、自分はただの一人も殺していないはずだ。多分、おそらく。
「まぁ、本当のことを言うと連れてくるつもりはさらさらなかったんだ。逃走途中で気絶しちゃったりしなければ、っと」
視界が縦に揺れ、理音がウィンドウの上についた取っ手に掴まった。じゃりじゃりと、敷き詰められた石を踏む感触がタイヤから伝わってきた。
道路を外れた譲の車が、白塗りのアパートの階段近くにゆっくりと停車した。
嘘か真か五つ前の年号、平成の時代から使われているという三階建ての冴えない雑居ビル。そこが理音と家主の譲が住まう建物だった。外観はともかくとして、中身は今風にリフォームされている。2LDKにもかかわらず家賃は格安で、見た目から漂うレトロ感が宗教勧誘やセールスマンを寄せ付けないのも密かな長所だ。
エンジンを切った譲が外に出て、後部座席のドアを開いた。理音は目で礼を言い、それから頭を縮めるようにして、両腕に少女を抱いたまま外に出た。温感センサーが働き、住宅の外付け外灯が点灯。その下で譲がちらりと振り返り、ほくそ笑んだ。
「なるほどな、明るいところで見るとえらい別嬪さんだ。なんだか昔のユカリンを思い出すな。助ける対象がそんな可憐なお嬢ちゃんとなりゃあ、男としては放っておけなくなっちまうなぁ」
「べ、別にそういうんじゃねえよ。大体、ヤハヴェイのコクピットに招き入れるまではてっきり男だと思っていたんだぜ?」
「はっはー、そんなわかりやすい嘘をつかんでもいいだろ、んん? かわゆい女の子に心を揺さぶられるのはそんな恥ずかしいことじゃないぜ。男なら至って健常な反応だ」
「ほ、ほんとだってっ! 救出の段取りを付けるときは、ティアラスから明らかに男の音声が返ってきたんだ。その、ボイスチェンジャー機能でもつけてたんじゃないかと思うんだけど」
「ボイ……、ちょっと待て理音」
「ん、なんだよ」
譲は考え込むように俯き、ややあって顔を上げた。珍しく真剣な表情だったことに、理音は驚きを隠せなかった。
「やっぱり記憶にねえな。市販のティアラスにそんなけったいな機能はついていないはずだぞ。その嬢ちゃん、もしかして軍人じゃねえのか?」
理音がぽかんとし、胸に抱えている少女を見下ろした。それで、ヤハヴェイに乗っていたときに考えていたことが頭に蘇った。
「そう、だよな。やっぱりそう考えるのが自然か。でも、この年齢ってあり得なくね? イーストの徴兵制って何歳からか、譲さんは知ってる?」
「あー、うる覚えだが二年前のデータでは……、18歳だったかな」
「なんだ、情報屋を名乗ってんのにそんな昔のデータしかわからないのか。意外と頼りないんだな」
この野郎、とばかりに譲が苦い顔をした。
「しょーがねえだろ。あそこは今や、世界で最も電子的侵入が難しい場所のひとつなんだからよ。いくら俺が天才でも、専用の設備なしじゃやれることは限られてんの」
「お隣が一番遠い国っていうのも、なんだか妙な話だよな。それで、ぶっちゃけこの子って何歳くらいに見える?」
「んー、そらぁおまえと同い年か、ちぃと年下くらいかね」
少女の顔を覗き込みながら、あまり自信がなさそうにそう言った。理音が再び少女に目を落とした。苦しげだった吐息は嘘のように収まり、すやすやと寝息を立てている。
冷え切った風が吹き、少女の頬をそっと撫でていった。寒かったのか、小さな顔が胸板にすり寄せられた。
対応に窮した理音を見て、譲がくっくと笑いを噛み殺した。
「懐かれてるじゃねえか。まぁ、どう見ても悪い人間には見えねえな」
「寝てる人間に懐くもくそもねえっつうの」
憎まれ口を返しながらも、本心では悪い気はしていなかった。今は疲れ切っているようだが明日になれば目覚めるだろう。目覚めたら何と声をかけ、何から聞くべきだろう。
不安と期待を抱きながらも、理音は少女をしっかり抱きかかえ、外付けの階段を昇っていった。