第六話 シズ・シティ
黄昏時。空に一番星が赤く瞬き、紙にインクが染み込んでいくように、山河の風景がじわりと闇に溶けていく。
森を抜けてから一時間ほどが経過していた。膝の上の少女は深い眠りに入っているようで、今は寝言も聞こえてこない。少しばかり足に痺れを感じていたが、我慢できないほどでもなかった。
ガードレールで挟まれた道路を進んでいく途中で大きな山に突き当たった。さすがにヤハヴェイで足元のトンネルを潜り抜けられるはずもない。理音はいつも通りに操縦桿を横に切った。
そびえ立つ山を右回りに迂回し、流れ穏やかな小川を二つ跨ぐ。さらには飛ぶように走るリニアトレインの鉄橋を潜り抜け、すすきが群生するなだらかな丘を越えたところで、やっと見慣れた町が姿を現した。
南に海を臨むセントラル・リージョン第四セクト、シズ・シティ。この町はイーストとの戦いにおいて最前線の補給基地だったこともあり、未だに戦火の跡が多く残されている。
もっとも、壊された分再開発も進んでおり、近代都市と廃墟をごった煮にした町中のそこかしこには、MAGやクレーン車を始めとした重機がいくつも入り込んでいる。ここ数カ月ほどは高層建築作業用ヘリのホバリング音もひっきりなしだ。
手前側、山の手の北区は近代モデル都市と銘打たれた高級住宅街がある。立ち並ぶビルとビルの隙間を高架道路が縫うように張り巡らされているのがこの場所からでもわかる。
中央区は取り立てて特筆すべきことはない。中心部には行政の建物と雑居ビルが立ち並ぶ歓楽街があり、それを囲むように居住区が点在する。
南区の工業地帯は対津波を想定した大きなグリーンベルトに隔てられてほとんど見えない。辛うじて盛土の上に、櫛の歯のように並んだ背の高い煙突から、煙がいくつも立ち上っている様子が窺える。南東の港にいけば軍艦や水中作業用MAG、マリーニがいくつも停泊しているはずだ。
西側にはジャンボ機が悠々と走れそうな、町のおよそ四分の一の面積を占める黒塗りの舗装路がある。最近は大きな町であればどこでも、MAGや装甲車、航空機のための滑走路が設けられている。
そして、片側四車線の長大な環状道路が、滑走路を除いた町全体を囲いこんでいる。
丘を下り、再びヤハヴェイで道路に出た。警備機構のMAGが多く駐在している北区前を通り過ぎ、西側の滑走路へ向かう。
ふいに、前方に小さい黒いものが過ったのがわかった。MAGの所属先を確認するための無線ロボットだ。
もしMAG協会に登録されていない機体であれば即座に警報音と停機警告を発する。それでも止まらないようであれば周りにいる警備機構のMAGがすぐに駆けつけ、場合によってはハチの巣どころか木端微塵にする。
ロボットは規定速度通りに走っているヤハヴェイの左肩にカメラを向け――協会所属のタグを確認したのだろう――脇に退いて所定のエリアに戻っていった。
基本的に、建築作業などの目的で許可証を得ているか、もしくは緊急時以外には、町中にMAGを乗り入れることは禁じられている。MAGの図体だと二車線道路の両側を余さず使わねばすれ違うことすらできないし、歩道橋や電線があれば普通に引っかかってしまう。少し大袈裟に例えるなら、建設作業用のクレーン車がクレーンを掲げたまま町中を走行するようなものだ。進入制限は被害を食い止めるための当然の措置と言える。
そんなわけで、町に入るにはMAGを降りるしかないのだが、大きさが大きさだけにその辺に停め置くというわけにもいかない。必然的に巨大倉庫のような専用ドッグに駐機する必要がある。
理音がヤハヴェイを留め置いている駐機場は月額1500エル。収納に要する面積を考えれば妥当かも知れないが、決して安い料金ではない。
とはいえ、無断でその辺に駐機しようものなら、すぐに点数目当ての警備機構が寄ってくる。なにしろ大きさが大きさなので、車の用に人気のない路地にこっそりというわけにもいかない。しかも、反則金は1万エルを超える法外な値段だ。機体そのものが高価なこともあり、盗難対策のためにはどうしても借りるしかない。
ひとまずは膝の上にいる身元不明の少女をどこかに匿い、あわよくば手当しなければならなかったわけだが、町に入る前に一つ大きな関門があった。
通常、MAGが町に入る際にはエアポート並みの厳しい検査を受ける必要がある。以前に大量の武器や麻薬の持ち込みが頻発したためだ。
倉庫に納入する前には円形型の金属プレートに乗せられて重量を計られ、更には高さ10メートルのツインタワー型金属探知機やX線検査機器でコクピット内までチェックされる。
理音のヤハヴェイにはステルスコーティングがなされているため、中の様子まで看破される可能性は極めて低い。とはいえ、たまに警備機構の係員が抜き打ちで監査に入ることもあるので、万全というわけではない。
こうした事情から、出来れば安全なルートから町に入りたいところだったのだが、生憎とそういった伝手はなかった。となると、人の手を借りるしかないのだが、相談する相手を間違えるわけにはいかない。
町にきてから二年弱という事情もあり、もちろん生来的な気質もあり、交遊関係はさほど広くない。ましてや、このような重大な秘密を打ち明けられる人間など極々限られている。
悩んだ末に、理音がアクセルを少し緩め、タッチパネルを操作して専用回線を繋いだ。十数秒待ってようやく、無精ひげを生やした白衣の男が映し出され
<おぅ、誰かと思ったらおまえさんか。そっちから連絡してくるなんて珍しいじゃねえか。一体どういう風の吹き回しだ>などと、いささか失礼な挨拶を投げかけられた。
毎度お馴染みの無礼を気にすることもなく、理音は黙ってカメラの角度を調整し、膝の上にいる少女の顔を映し出した。途端、男の顔に動揺が広がり、続いてはあごを指の腹で揉み始めた。
<…………>
「まぁ、こういうわけなんだ。悪いけどちょっと手を貸してくれないかな」
<……あれほど>
「あれほど?」
<人さらいだけは止めておけ、と>
「ふっざけんなてめえ! 邪推もはなはだしいぞ!」
爆発したように声を荒げた理音に、右目に電子片眼鏡をつけた男が歯を見せて笑った。
岸谷譲、32歳。シズ・シティではかなり名の知られた情報屋であり、幅広い人脈で路地裏に迷い込んだ飼い猫の居場所から各国大統領の朝食メニューまで調べ出すと言われている。
元軍医で現情報屋という経歴。スペックを並べ立てるだけならいかにも胡散臭そうな印象を与えるのだが、周りの男たちが「信じられん」と天を仰ぐくらいに出来た妻、縁がいる。その「信じられん」が、10歳も年が離れている縁のハートを射止めた譲に対してのものなのか、史上稀に見る良妻っぷりを発揮している縁の存在そのものに対してなのかは解釈の分かれるところだ。
確かに二人の年齢差を考えると、それこそどこかでさらってきたのではないかと疑いたくなるが、縁から馴れ初めを聞かされていた理音は、むしろ彼女の方から積極的なアプローチがあったことを知っている。そして二人の関係が、9年来という長い付き合いだということも。
自分を幸せ者だと称してはばからぬ譲だが、身嗜みにはあまり気を使わない性質のようだ。よれよれの白衣を部屋着にしていることもそうだし、波打った濃い茶髪は首の辺りで適当に結えられ、肩甲骨の辺りまで垂れ下がっている。
黒珈琲をこよなく愛し――実際によく飲んでいる場面にも出くわすのだが――その割にはいつも気だるそうな、眠そうな顔をしている。本人いわく、それは二重まぶたのせいらしい。
人を食った性格だが悪い人間ではない、とも言い切れない。知り合って2年経った今も評価は保留中だ。
などと考えていると、いつの間にか譲の顔が横を向き、誰かに手招きをしていた。縁だ、と理音が瞬時に理解した。
<いいところにきたな、ユカリン。聞いてくれよ、ついに理音のやつが大人への階段をSD――うがっ!>
手の甲でマイクを乱暴に叩いてやった途端、モニターの中の譲が両耳を押さえた。いい気味だとばかりに理音が鼻息を荒げた。
<お、お茶目なジョークじゃねえか。さすがに今のはちとひどいんでないかい?>
<妙な風評を広める阿呆に対する当然の制裁だろうが>
<あー、一応確認しとくが、どこかでかどわかしたとかって、そういうんじゃないんだな?>
「あんた、俺を一体なんだと思って……もういい、会話が一向に進まん。縁さんがそばにいるなら替わってくれ。こちとら急いでるんだ」
<いやいや、そうつっけんどんにしなさんなって。まぁ、ユカリンはめんこいから顔を拝みたくなる気持ちはわからんでもないけどな?>
「のろけを聞いてる暇もねえっ」
<まぁまぁ、少し落ち着けよ。なんつうか、二人ともそんなに汗まみれで密着してっからよ。てっきり一戦交えちまったんじゃねえかって勘ぐられたって仕方ねえだろ>
一戦は一戦でも命がけの方だったのだが。理音は額を抱えながら深く息を吐き出した。「なんだ、頭痛か?」という譲からの指摘は、あながち的外れでもない。そして、その原因は紛れもなく、目の前にいる白衣の男だ。
「この子は熱射病で俺のはただの冷や汗、大至急手当が必要なんだよ」
自分の汗に関してはあながち冷や汗だけとも言えなかったが、説明する義理もその気もないので省略する。
<なんだ、病人かよ。そいつを先に言えってぇの>
こちらに非があるかのような言い回しに閉口する。言わせなかったのはどこのどいつだろうか。
理音の不快を察するかのように、キャスが籠の中からナゥとわざとらしい鳴き声を上げた。
ますます不快度が増した気がした。
<今家を出た。そんで、応急手当はしたのか?>
えっ、と顔の位置を戻すと、いつの間にか画面が消えて音声だけになっていた。どうやら駐車場に移動中らしい。即断即決。これも軍隊経験の賜物なのか、行動に移る速さは称賛に値する。
「あー、えと、気を失ってから10分やそこらはかかったと思うけど、やるだけやっといた。以前に言われた通り、額と首の裏を冷やしてる。脇の下はスーツのせいで効果が薄そうだったからやめといた」
<おー、感心感心、ちゃんと覚えていたんだな。呼吸は落ち着いてるか? 指を軽く頸動脈に当ててみろ>
「さっきまでは間隔が短くて浅かったけれど――ん、今は脈も安定してるみたいだ。水も一応飲んでくれたし」
少女の喉元に指を当てながら、理音が現状を報告した。
<そんなら上出来だ、首の方はちっと冷え過ぎるから、状態が落ち着いてるようなら外してやれ。十五分でそっちにいくからすぐ出られるよう準備整えて待ってな>
「おい、待ってくれ譲さん。実はこの子」
<みなまで言うな、わあってるって。搬入口から入れるよう係員になし付けとくから、駐機場の近くで待機してろ。手はずが整い次第もう一回連絡入れる、じゃな>
訳ありなことを察していたのか、頼もしい返事が返ってきた。おかげでこちらも少し気持ちが落ち着いた。この難関をあっさり突破できるとは、さすがに顔が広いと豪語するだけある。
スピーカーから電動エンジンの起動音が聞こえたところで接続が途切れた。後は向こうからの連絡を待つばかりだ。
西側の専用舗装路に入ると、後ろから滑走してきた飛行機がこちらを追い越し、南西の方へ離陸してゆくのが見えた。飛び立った先の空は筋雲まで赤紫に染まっていた。
理音は眩しさに目を細めながら、ヤハヴェイを搬入ゲートにほど近い待機場、黄色い塗料で描かれた円の中に停止させた。