第五話 ボーイミーツガール
いくらか室温が上昇したコクピットの中で、俯いていた理音がゆっくりと面を上げた。表情からは疲労感が滲み出ていた。その隣では、毛を目一杯逆立てて丸く膨張したキャスが転がっていた。
「……心臓に、悪すぎる」
<まったく、心身ともに疲れました>
「……言っとくけどおまえ、今日は晩飯抜きだから」
<つ、つとに反省しておりますのでそれだけはご勘弁を>
「超棒読みじゃねえか。感情がこもってねえ、やり直し」
<そんな殺生な、電子音声でどうやって……>
ティアラスが停止したのは切り立った崖の淵から5メートルの地点だった。
打ち抜いたティアラスの右脚膝関節部には電撃が迸っている。踵のスラスターが起動せぬよう、装甲の裏に隠れていたケーブルを撃ち抜いて断線させたのだ。その後は推進のベクトルがずれたせいで右回り気味に進み始めたのだが、出力が半分近くに落ち込んだお陰で燃料切れまでどうにか粘ることができた。
後で修理代を請求されなければいいが、などと思いつつも、理音はもう一度マイクで呼びかけてみた。
10秒ほど待ってみたものの反応はない。だからといって、ヤハヴェイで前の方に回り込むのはまずいだろう。足場が二機の重さを支えきれなくなったら50メートル下まで真っ逆さまだ。
理音は仕方なしに次策を取ることにした。ヤハヴェイの手を関節部が開かぬように縮め、ティアラスの肩に引っかけて固定。即席の橋を造った後で外に出た。
「おいキャス、コクピット開けたけど出ないのか?」
<その、この高さで出されても色々と問題が。あ、いい空気ですね>
さっきはそれでも逃げようとしていたくせに。AIといえども追い詰められると見境がなくなるのか。ピンク色の鼻をひくつかせるキャスを尻目に、理音は溜息を一つ残して外に出た。
汗が滲む背中に冷たい空気が張り付き、ぶるりと身震いした。普段の視点に慣れているからか、高さ的にはどうということもなかった。とはいえ、手すりなしの鉄橋を渡るのはそれなりに勇気がいる。丸みを帯びたフォルムがこのときばかりは恨めしく思えた。
極力下をみないようにしてヤハヴェイの肩に登り、二の腕に差しかかった。
目の前に広がるのは広大な谷。向こう岸の、地肌が剥き出しの断崖を鹿の親子が連れ立って登っていく。四足とはいえ、あのような急斜面を登れるのは実に不思議なものだ。
足を滑らせないよう、踏み外さないよう、理音がそろりそろりと足を踏み出していく。ティアラスの機体まであと二~三歩の地点に到達したところで、放熱口からの耐え難い熱気に襲われた。白い蒸気が顔に触れ、後ろに飛び退いた理音が顔を抑えた。
「あっつ! くそっ、長時間放熱しなかったせいでラジエーターがイカれてんのか。中のやつ、死んじまってねえだろうな?」
外ですらこの状態だ。中が蒸し焼きになっていても決しておかしくはない。
急ぎ理音がヤハヴェイの手甲からティアラスの肩に降り立った。崖の下がちらりと見えたが、眼下にある川のせせらぎが聞こえないほどの、目も眩むような高低差があった。さすがにこの高さから落ちたら一巻の終わりだろう。
コクピットの開閉蓋を外からノックしてみたものの、反応は返ってこなかった。機体の防音性を考えれば、そもそも音が届いているかも微妙だ。外から中の様子が分かればいいのだが、いまどきの機体のコクピットは操縦者のプライバシーを考え、マジックミラー式が大半を占めている。戦場での恨みつらみが個人とその周りに向かわないように。そんな配慮も含んでいるようだ。
やはりヤハヴェイを遣って引きずり倒し、無理やり抉じ開けるしかないだろうか。理音が踵を返そうとしたとき、目の前にあった蓋がぶるりと震えた。戸惑う間もなく持ち上がってきた蓋を避けようと、肩の方へ駆け上がる。
数秒の内に蓋が完全に開き、中に閉じ込められていた熱気が一気に吐き出された。室温が基準を大幅に超えたことにより、緊急避難装置が働いたようだ。動力炉をずっと稼働させていたことでオーバーヒートを起こしていたのだろう。
それならそうと状況を知らせてくれれば良かったのだ。そう思わないでもなかったが、こちらが信用に足る相手かもわからぬ状況で機体を放棄するのは自殺行為に近い。なにより、セントラルとイーストは今もって対立しているのだ。無防備な姿を晒すことに躊躇いがあったとして、責めるのは酷というものだろう。
熱気を避けるように胸部の取っ掛かりに立ち、コクピット内の様子を窺った。真夏の砂浜以上の熱気が乗り出した体に纏わりつき、反射的に顔を腕で庇った。あまり長い間ここにいたら、こちらも低温火傷を負いそうだ。今着ている服は普段着と変わりない。
内部はヤハヴェイよりもゆとりがあり、天井も少し高かった。そして、普段の理音であればまず目を奪われただろう、目新しい機器類が左右に設置されていた。
けれども耐熱スーツ姿の機士が操縦桿に体を預けるように痙攣しているのを見れば、誰だってそちらの方に気を取られるはずだった。
「お、おいあんたっ! 俺の声が聞こえるかっ、しっかりしろっ!」
「……う……ぐぅ」
バイザー付きのヘルメットを被った小柄な機士はこちらの声に反応した様子もなく、ひたすら苦しげに呻いていた。重篤な熱射病だ。手足の先にまで震えが及んでいる。
もたもたしている暇はない。揺さぶり起こそうかと肩に手を置き、すぐに考え直した。仮に今ここで意識を取り戻してしまったら、見知らぬ相手を直視したショックでパニックを起こしかねない。コクピット内の異常を最後まで伝えてこなかったのは警戒心の裏返し。手すりのない鉄橋を渡っていかねばならないことを考えると、あまり賢い判断とは言えないだろう。
左右の通気口から吹き付ける熱気に顔をしかめつつ、身を乗り出すようにして機士がつけているシートベルトを外す。脇に手を入れて引き寄せ、少し持ち上がったところで膝の下に手を入れた。
偶然、モニターに映し出されている戦闘記録が目の端に入った。何気なく戦闘時間の数値欄を流し読み、理音は我が目を疑った。
ふと、腕が引っ張られた気がして視線を下げた。モノトーンの手袋に覆われた小さな手が、服の袖をキュッと握り締めていた。
ひとまずはここを離れるのが先決だ。考えを保留し、手を軽く握り返した。それで少しは安心してくれたのか、機士の手の力が緩められるのがわかった。
腕と足に力を込めると、思いの外体が簡単に持ち上がった。軽くて助かったと思ったのも束の間、耐熱スーツの外膜から発せられる熱が異様に高く、危うく取り落としそうになった。
一旦下ろして何かしらの対策を講じたいところだったが、ヘルメット越しに聞こえる機士の早い呼吸音がそれを許さなかった。熱で血中たんぱく質が凝固し始める一歩手前だ。一刻も早く応急処置をしなければ多臓器不全を起こしかねなかった。
腕をじわじわと焼く熱と、機士の熱を帯びた吐息に心が逸る。多少の火傷を覚悟して、機士の体を胸元にしっかりと引き寄せた。胸板にまで伝わってきた熱に歯が軋んだ。
ヤハヴェイよりは登りやすい肩を、機士を抱えながら慎重に登る。視線の先には開きっ放しになったヤハヴェイのコクピットがあった。
たかだか5メートル強の距離。来たときはあっという間だったのに、人ひとりを抱えているだけでかなりの距離のように感じられた。
関節部の窪みを慎重にまたぎ、二の腕に至ったところで大きく息を継いだ。冷たい外気のせいで、先ほどよりは腕も幾分楽になってきた。
もう一息。そうと自分に言い聞かせたところで、崖の下から強風が吹き上がってきた。
頭で考えるよりも先に体が反応した。無意識に両足を肩幅程度に開き、押されて転落しないようバランスを取っていた。
長い前髪が視界の端でゆらめいた。普段は気にならないのにやたらと鬱陶しく感じられた。
風が収まったのを見計らって、理音は再び腕と足に力を込め、一歩一歩踏みしめるように歩き出した。
<おかえりなさい、大丈夫でしたか>
「……なんとか」
キャスの電子音声に迎えられた途端、緊張感が抜けて肩の重みがどっと増した。髪の先から、顎から、汗が滴り落ちていくのがわかる。胸にわだかまった熱は鈍い痛みに変わっていた。
コクピットの開閉スイッチを押し、エアコンを最大にきかせてから、膝の上に乗せた機士の介抱に入る。穿いているスラックス越しにも白を基調にした耐熱スーツの熱が伝わってきていた。
まずは頭部を冷やすためにヘルメットを外すことにした。目覚めた途端に襲われないとも限らないので、もしものときの心構えだけはしておく。
蟻をつまむように指先を動かし、慎重に首元の固定バンドを外した。続いては、ヘルメットのふちが顎に引っ掛からぬよう留意して持ち上げていく。
外れた。安堵とともにヘルメットを脇に置いたところで、キャスが万歳のポーズをし、ふかふかの肉球を惜し気もなく披露した。
愛らしいその姿に何をしてるんだと吹き出しそうになったが、固定された視線の先、自分の膝の上を見て、理解した。
肩にかからぬくらいで黒髪を切り揃えた可憐な機士が、小さな口を半開きにしていた。薄桃色の唇が上下に動いている。
「……んん……ふぅ……ん」
切なげな寝息を耳にして、驚くよりも先に疑問が生じた。先ほどやり取りしていた渋みのあるバリトンボイスとは似ても似つかないものだ。まさか、戦闘中に機士が入れ替わったのだろうか。そんな馬鹿馬鹿しい考えが浮かんでは消えていった。
<女の子、ですね>
普段と変わらぬ響きの機械音声に、汗ばんだ美少女とかつてないほどに密着していた理音は、うなずき返すのがやっとだった。
プラスチックの救急ボックスから冷却用のシートを取り出し、たどたどしい手つきで少女の白い額と首筋に貼りつけていく。
よほど冷たかったのか、首筋に張ったときには体がびくんと大きく仰け反ったが、幸か不幸か意識は戻らなかった。目の毒とも保養ともつかぬ一挙一動を見せられるたびに、理音の手がいちいち止まった。
手当をしている途中にも、少女の呼吸が落ち着いてくるのがわかった。主要な血管の近くを重点的に冷やせば、冷えた血液が体を巡って体温の戻りも早くなる。知り合いの情報屋に教わった応急処置の知識だった。
「キャ、キャス、そこのドリンク取ってくれ」
<承知しました。関節キッスになりますがよろしいですか>
「……いちいち説明しないでいい。念入りに拭くから問題ないし、なんなら消毒してもいいし」
<言い訳くさ……いえ、なんでもありません>
睨みつけた理音を尻目にキャスが尻尾をふりふりしながら紐つきケースに入ったドリンクを咥え、近寄ってきた。心なしか、瞳が普段の二倍増しで輝いているように感じられた
「……おまえ、何でそんなに楽しそうなんだよ」
<まことに申し訳ありません。スペリオルのうろたえる姿を見るのは私のささやかな娯楽でして〉
なんつう人意地の悪い。いや、この場合は猫意地のが適正か。AIのくせしてなんでこんなに捻くれてしまったのだろう。
ぶつぶつと文句を垂れながらも手を伸ばし、ポリ容器を受け取った。未使用のタオルでストローの口を拭き取ってから、少女の口にストローを含ませた。
むせないように、容器を持っている指に少しずつ力を込める。ストローを通して透明な液体が少女の口元へゆっくりと向かうのが見える。
しばらくして、こくりと白い喉が鳴る音がした。無意識に体内調整水を嚥下したのだ。
一度飲み込むと、後はどんどん吸う速度が増していった。よほど喉が渇いていたのか、哺乳瓶にむしゃぶりつく赤子のように、懸命に唇と喉を動かしていた。
「んむっ……ちゅぱっ……んく……んくぅ……」
急激に、顔に熱が溜まっていくのを感じ、半ば反射的に顔を背けた。さすがにこの生々しい音は、年頃の男子には刺激が強すぎるように感じられた。
しかし、膝枕をしてやっている状態で欲情などしてしまっては、倫理的なものも含めて支障が生じてしまう。何とか意識を逸らそうと、先ほど見たティアラスのコクピットの計器類がどんなだったか思い浮かべようとしたが、なかなかうまくいかない。
<スペリオルの体温、血圧、脈拍が絶賛上昇中>
「そ、そんなことはねえっ! ……って、てめえいつからそんな便利機能がついたんだよ!」
<しー、静かに。大声を出したらその子が起きてしまいますよ>
肉球つきの前足で口を塞いでみせたしたり顔のキャスを見て、理音の顔が煮え湯を飲まされたようになった。
ほどなく容器が空になり、啄ばむような形になった唇から、そっとストローを遠ざけた。
<この分でしたらベビーシッターのアルバイトなどもやれそうですね、スペリ――>
空になったポリ容器を投げる素振りを見せた途端、キャスが寝床となっている網籠の中にするりと逃げ込んだ。忌々しげに舌打ちしつつ持ち上げたままの容器を脇に置き、レーダーを再起動させる。
追手と思しき光点は、未だ離れたところにあった。ティアラスにやられた仲間たちを救出しているのか、それとも被害状況を確認しているのか、光点は特定の座標に密集していた。
「ここでやれることはもうなさそうだな、今のうちに町に戻ろう」
<かしこまりました。では、私は昼寝の続きと洒落込みますので、どうぞごゆっくりお楽しみください>
何をだ。キャスの皮肉にこめかみをひくつかせつつ、理音は再度ヤハヴェイを静音モードで起動させた。
帰還途中で、ふと、デコイとスプレーガンの噴射が一回いくらくらいだったかと思いを馳せた。金勘定をすることで、普段の現実に戻れそうな気がした。
が、少女から発せられる甘酸っぱい匂いに鼻を撫でられ、あっさりと気を取られた。汗に濡れほそった華奢な体が、ぐったりと弛緩している。控えめに膨らんだ胸が呼吸に連動して上下し、弾力のある臀部が自分の膝の上でもぞもぞと動く。ここに運んでくる前になぜ性別に気づかなかったのか不思議なくらいに、少女からは色々な女らしさを感じた。それだけこちらも必死だったということだろうが。
やむを得ないとはいえ、体の一部に触れてしまっていることについては抑えがたい興奮と罪悪感を感じた。反して、いかにも辛そうな彼女の表情が、邪な考えを遠ざけてくれていた。
額の汗をそっとタオルで拭ってやると、微かに表情が和らいだ気がした。何となしに、何年か前にもこんなことがあったのを思い出し、含み笑いが漏れた。
ほどなく理音が視線を下げ、自分の膝枕で眠る少女を見つめた。どちらかといえば活発な印象だが、眉毛は細筆で描かれたように形よく、閉じられた大きめの瞳は長い睫毛も相俟って気品を感じさせる。鼻筋もすっと通っており、化粧がほどこされた様子のない頬は――仮にしていたとしても大量の汗で落ちてしまっているだろうが――熱で紅潮していることを除いて一点の曇りもない。
稀に見る美形だった。これだけの逸材なら回りの男子どもが放っておかないだろうと思わせた。誰が見たところで、暴力沙汰に縁のある人間だとはとても思えないだろう。
しかしながら、この少女がベテラン機士顔負けの操縦技術で賊のMAGを葬ったのも確かなのだ。あれほどに洗練された動きと咄嗟の判断力は、一朝一夕で身に付くものではない。そして独学だけで得られるものでもない。十中八九イーストの軍ないし、それに準ずる組織の構成員だろう。
何はともあれ、今は少女を助けられただけで満足だった。まずは意識を取り戻してから、話を決めてから身の振り方を決めればいい。
太腿に少女の重みを感じながら、理音はアクセルを踏む爪先を気持ち奥に押し込んだ。
速度を増した黒い機影が、西日に照らされた森の奥へと消えていった。