プロローグ2
「ティトル輸送管理担当、応答願います」
その言葉が言い切られる前には、ティトルの手が弾かれたように操縦桿の真横に伸び、マイクスイッチを切り替えていた。あまりの素早さと彼女らしからぬ剣幕に、女副機長が人二人分ほど体をずらした弾みでひっくり返りそうになった。
「ユアッ、いつの間に貨物室に! それにその声……、あなたまさか、ティアラスに乗っているの!? 搭乗許可を出した覚えはないわ、すぐに降りてブリッジまで戻ってきなさい」
怒りと戸惑いを含む声が響いた。躊躇したような間が空いて、再びスピーカーが低い声を発した。
「いえ、こちらもティアラスで追手を迎え撃ちます」
「……なん、ですって? あなた、自分で何を言っているのかわかってる!? そんなこと絶対に――げほっ、ごほっ」
通気口から漂ってきた煙を吸い込み、ティトルが会話の途中で咳き込んだ。副機長が彼女を案じる言葉を口にしつつ、脇にあったアタッシュボードから予備の酸素マスクを2つ引っ張り出した。それに並行して、機長が機内放送のスイッチを入れ、乗組員たちにもマスクを付けるよう促した。
ティトルは副機長に差し出されたマスクを受け取り、礼を述べてから両耳にバンドを引っかけた。
その間にも、貨物室からの声は室内に届けられていた。
「ティトルさんはみなさんと一緒に着陸が終わり次第、速やかに門を目指してください。その間、ボクが追手の注意を引きつけます。MAG分の重量が軽くなれば、滞空時間をより長く維持できるはずですし、着陸時の衝撃も少しは和らぐでしょう」
「笑えない冗談はやめなさいっ、これは模擬戦じゃないの! 実戦で単機特攻なんて正気の沙汰じゃない! あなたの身にもしものことがあったらお母様やおじい様に合わせる顔がないわっ!」
鋭いはずの口調は、酸素マスクで口元を覆われていたためか、若干こもりがちになっていた。ティトルは自分の吐息で曇った眼鏡を鬱陶しそうに外し、胸ポケットに差し入れた。
被弾したエンジンからのものか、既に機内の方にまで煙が立ち込め始めている。マスクなしでいれば、墜落する前に一酸化炭素中毒で死にかねなかった。
「むざむざやられるつもりはありません。あなただってボクの操縦の腕前は知っているでしょう? むしろ、悪天候下での不時着を控えているそちらの方が心配なくらいです」
平静な声が室内に響いた。反して、乗組員の顔は青ざめていた。MAGに乗っている人物の素性を思えば――命の価値云々とは切り離して――ここにいる誰より生き残らなければならないはずだった。
「勝手な真似をしないでちょうだい。今のあなたはあくまで学生扱いなのよ。もしその必要があると判断すれば、囮は私たち――いえ、私がやるわ」
恥じらうように逡巡を呑みこんだティトルに、先ほどよりも優しげな声が返された。
「お気持ちはありがたく受け取っておきます。けれど、今ここにいる中で一番MAGに乗り慣れているのはボクのはずです。こういっては少し失礼かも知れませんが、操縦に慣れていない方が搭乗したところでさほど時間を稼げるとも思えません」
「そ、それは……って、そういう問題じゃ」
「どの道」鳴り止まぬ警報音にも負けぬ声が聞こえた。二の句を継がせまいというはっきりとした意思が感じられた。
「救援が望めない以上、このまま手をこまねいていては追手を振り切れる保証はどこにもない。ならば、一時的にでもここで足止めしておくのが上策でしょう。しつこいようですが心配はいりません。ボクだってれっきとした機士なんですから」
流暢にして筋の通った説明に、誰も返す言葉を持たず、近くにいる者たち同士で顔を見合わせるばかりだった。命が惜しいからではない。いや、誰だって命は惜しいものだが、それ以上にユアの言い分が正しいことをよく理解していたからだ。
不時着する場所の目星を敵につけられるか否か。それは生存確率に直結する。仮に不時着を前倒ししなければならない事態に陥れば、敵に拿捕される確率は多分に上昇する。逆にMAG分の、何十トンもの重量がなくなれば飛行時間が伸び、ほぼ確実に予定地点まで到達できるだろう。それは、他ならぬティトル自身が考えていたことでもあった。
何より、ユアの言動は過信から来るものではない。機士。MAGの操縦士としての腕前は一流に準じ、今の年齢を考えれば将来を嘱望されるに足る生え抜きだ。
だが、そう簡単に踏ん切りはつかなかった。いくら窮地を脱するためとはいえ、最年少の乗組員を囮に使うことなど誰が肯定できるだろうか。
実際、スピーカー越しの声からであっても感じ取れる歳不相応の思いやりや決意といったものが、罪悪感や無力感となって乗組員たちの、特に男たちの胃に重くのしかかっていた。俺がやるからそんなことをする必要はない。そう言ってやれない自分の不甲斐なさを嘆く声が、口惜しげな呟きとなって表れてもいた。
そして、そんな彼らの葛藤を断ち切る強い言葉が、今一度ブリッジに届けられた。
「無事に門まで辿り着いたら、しかるべき機関に通報してください。ボクの方は時間を稼いだ後に戦線を離脱して合流を図ります。場合によっては最寄りの町か山岳地帯などに身を隠すことになるかもしれませんので、以後の連絡は生体内チップに。よろしくお願いします」
間を置かずして、誰かが息を呑む音がした。モニターの中で、透過壁の奥にあったMAGの顔が横を向き始めていた。既に<脱出殻>が射出準備に入っているのだ。
〈減圧完了しました。後部ハッチ、開閉準備に入ります。強い揺れが予想されますので、乗員のみなさまは速やかに着席し、シートベルトを締めてください。カウントダウン開始します。5……4……〉
プツッと通話が途切れたのと同じタイミングで、女性の平坦な機械音声がティトルの鼓膜を震わせた。
「ちょっ、ダメよユアッ! 早まらないでっ!」
強い制止の声が言い切られる前に、MAGの狭いコクピットの中で、黒い手袋に覆われた細い指先が、射出ボタンを押していた。
操縦士の唇が微かに動いた。
ごめんなさい。
その囁きはあまりに小さすぎて、口元にあるマイクにも届かなかった。
危機管理用のコンピューターが作動し、操縦席の手前にあるパネルの上から五列目が全点灯。重々しい駆動音と共にカーゴ内の床部ローラーがかったるそうに回り始めた。
照明に照らされたカプセルが横にスライドし、並行して後部隔壁が貝の口のように上下に開いていく。
カーゴ内に複数設置されている高感度マイクが、吹き込む乱気流の音を拾い、耳障りなノイズをもたらした。乗組員たちがたまらず両耳を抑える。
シミュレーターがもっとも負荷のかからない地形を迅速に分析、七桁の数値が画面の下端で絶えず変動する。ナビモニターに簡略化された地形図が映し出され、無数の点線矢印が現れては消えていく。
数秒が経過したところで、矢印の点線が太い線に変化。画面にコンプリートの文字が明滅。適切な軌道が選び抜かれた。
完全開放されたハッチから、MAG入りの巨大な卵が産み落とされた。
風を吸い込む音と、卵を生み出す音が重なる。機体が排卵の衝撃に大きく揺れ、未だ立っていた数人が揃ってバランスを崩した。
エンジン点火時のそれにも似た音が鼓膜に轟く。機長席の背もたれにしがみ付いて転倒を避けたティトルが、急いで後方の窓辺に駆け寄り、強化ガラスに手を張り付かせた。
「ユア様ッ! ――機長、大至急回頭して! なんとかあの子を拾わないと」
「む、無茶ですよ! ただでさえ姿勢を保つだけで精一杯なんです。それに、着陸箇所を限定できないまま方向転換しても回収どころの話では……」
「そ……、そんな、そんなことは」
口にする前からわかっていたはずだった。それが聞けない願いだということは。目の前の、丸い窓に映っている自分の面持ちが、すべてを物語っていた。
窓に張り付いている手が、薄桃色のマニキュアに彩られた爪を立てた。仮に貨物機が健常であり、回収に向かうことができたとしても出る結論は決まっている。立場上、ユア一人を助けるためだけに、ここにいる乗組員全員を危険に巻き込むわけにはいかないのだ。
それでも口にしてしまったのは、自分に対しての言い訳だろうか。みるみるうちに遠ざかっていくカプセルを目にし、ティトルは顔を両の手で覆い、下唇をきつく噛み締めた。一度産み出した物を元の胎に収めることなど出来るはずもなかった。
皮肉なことに、ユアが取った行動はティトルが真っ先に思いつき、そしてすぐに振り捨てた最善策だった。個人への情は別にして、一人だけを危険な目に遭わせることについて、躊躇いを感じずにはいられなかった。
ティトルは、ユアの決断力に舌を巻くのと同時に己の迂闊さを呪っていた。先んじて釘を刺しておくべきだった。ユアの正義感と使命感が人一倍強いのは、幼いころから身近にいた自分が、誰よりわかっていたはずなのに。今思えば、なんでこのような展開が思い浮かばなかったのか不思議なくらいだった。
細い指と指の隙間で小さくなっていく卵が、眼下で一際強く煌めいたのがわかった。
お願い、どうか無事でいて。
ティトルの艶めく唇から、そっと祈りの言葉が紡がれた。
言い終えられる前に、卵は姿を消していた。