第十一話 売り言葉に買い言葉
「まぁまぁ、嬢ちゃんもあまり気に病むなって。こいつが気を抜いていたのが悪いんだからよ。つうか、こんなか弱い女の子にノックアウトされるなんて、おまえさん、ちぃと弛んでるんじゃねえか?」
「か弱い女の子? そんなの、どこにいるんだ?」
「なっ……うぅ」
手をかざして見回した理音のあからさまな挑発に黒髪の少女が口を開きかけ、ぎゅっと唇を引き結んだ。一応は自分の非を認めているのか、反論したいのをなんとかこらえているようだ。
日が沈み、暖色照明が付けられたダイニング。赤いチェックの柄のテーブルクロスがかかった長方形の食卓には理音と譲がキッチン側、ティアラスの少女が奥の窓際の席に着いていた。
少女のきつい眼光に気後れすることなく、理音は正面を指差したまま言葉を続けた。
「譲さんは、こいつのバカみたいな強さを目の当たりにしてないからな」
「バ、バカ? 今、ボクのことバカって言った? 初対面の人に対して、よくもそんな失礼なことを!」
今まで一度もそのような無礼を受けたことはない。そう言わんばかりに少女が声を荒げた。
別に当人をバカ扱いしたわけではないのだが。理音が憎々しげな少女を冷めた目で見据えた。
Tシャツとハーフパンツに着替えた少女からは仄かに湯気が立ち上っている。夕飯前にどうしてもシャワーを浴びたいからと、理音の家の浴室を利用したのだ。かなり長い時間をかけて入っていたようだが、その甲斐あってかパサついていた唇と黒髪は艶を取り戻し、少女の魅力をより一層引き立てていた。
だが、今の理音の目にはそんな少女の姿もどこか霞んで見えた。
「いやぁ、初対面の人に襲いかかるやつほどじゃないっしょ」
「そ、そのことについては謝ったでしょ。……いつまでも根に持つなんて、女々しいなぁ」
理音の耳がぴくりと動き、頬が引きつった。後の方はごく小さい声だったが、それでも女々しいという言葉だけは聞き逃さなかった。
「謝ったって、まさかさっきの会釈みたいなやつのことか」
「ちゃ、ちゃんとごめんねって言ったよ! それに今だって、悪かったとは……思ってるもん」
目が覚めたら心当たりのない場所に連れ込まれており、ベッドに寝かせられていた。あまつさえ、それまで着用していたはずの機士用スーツが忽然と消え、代わりにゆったりとした病人用のものと思しきワンピースに着替えさせられていた。
混乱している頭をなんとか整理しようとしている最中に玄関の方から音がし、パニックになりかけたところで買い物袋を抱えた理音がのこのこと部屋に入ってきた。
それらの材料から導き出される結論として、目の前に現れた少年が自分の着ていたスーツを脱がして裸にし、今の服に着替えさせたのではと勘違いした。そして少年はそれを認めたに等しい言葉を口にした。ひいてはその間に、口にするのも憚られるようないかがわしいことをされたのではないかという疑念と恐怖。産まれたままの姿を見られた羞恥と怒りが同時に湧き上がった。その結果として、理性に感情が先走って制裁を加えようとした。
というのが彼女の言い分であったが、もちろん納得いくはずがない。少なからず危険を冒して助けてやったのに、お礼の言葉に先立って苛烈な連続攻撃を見舞われたのだから。
不幸中の幸い、上からの只ならぬ物音に気づいた縁が部屋まで様子を見に来てくれたおかげで、少女の理音に対する制裁は食い止められ、大事に発展することはなかった。玄関が開けっ放しになっていたことがたまたま功を奏したのだ。
理音にとっての救世主となった縁は、昨晩少女の服を着替えさせたのが自分であること。彼女が着ていた機士用のスーツはクリーニングに出しているということ。理音が寝込みの病人を襲うような人間ではないことを懇切丁寧に述べた。
その後で、立ち直った理音が襲う側にも狙う対象を選ぶ権利があるなどと口を滑らせ、まとまりかけた話が少しこじれた。誤解は解けたが互いに対する憤懣が完全に解消されることはなく、縁に夕飯に招かれた今もなお反目し合っていた。
一方で理音は、何より気に食わなかったのは攻撃されたことにあるのではなく、少女に圧倒されてしまった事実だということを自覚していた。それなりに場数を踏んできたと自負していただけに、それが筋肉隆々の軍人だったのならともかく、花でも生けていた方が似合いそうな少女に敗北を喫するなど容易に看過できることではない。図らずも今回の出来事が己のプライドをこっぴどく傷つけ、人生手帳の黒歴史欄に刻まれたことは間違いない。
そんな悔しさが顎の痛みと相俟って憎まれ口となり、後から後から湧いて出ていた。
「まったく、縁さんには感謝してもしきれないよなぁ。もしあの場に駆けつけてくれなかったら、俺は今頃狭くて暗ーい棺桶の中だったってわけだ。嗚呼、生きてるって素晴らし――」
「――人聞きの悪いこと言わないでっ! そこまでする気はなかったよ!」
少女が我慢しきれないといった風に食卓を叩いた。上に並んでいたスプーンやフォークがカラカラと甲高い音を立てた。
「どうだか、もしあの時無抵抗を貫いていたら目と喉と大事なところその他諸々が一生使い物にならなくなっていたところだ」
「ボ、ボクだって必死だったんだよ、単純な力比べに持ち込まれたら絶対に敵わないし。キミにはそんな乙女心、理解できないだろうけどね」
「とんだ乙女心だな、不意打ち仕掛けてきたやつが使う台詞じゃねえだろ。玄関まで開け放って、害する意志はないって前もって告げたのにあれかよ」
「だけど、それが演技じゃないって確信が持てたわけじゃなかったし、キミだってボクになにかしたって認めるような台詞を口にしていたじゃないか」
「だったら、とっとと開いている玄関から尻尾巻いて出ていけば良かっただろうが。そもそも、曖昧な質問されたら返答だって曖昧になるに決まってる。その詳細を確認しようともせず、自分勝手に解釈して暴走したのは、おまえの方だ」
それは、と言いかけた優鴉を前にして、まぁまぁと譲が苦笑いを浮かべながら仲裁に入る。
「痴話喧嘩はその辺にしとけ、お二人さん。仲がいいのは十分わかったから」
「誰がこんなやつとっ!」
と、二人のお互いの指差すタイミングと声がぴったり重なった。続いてはその事実に恥入るように俯き、それから睨み合いを再開した。譲はそんな二人に交互に視線を送り、溜息をついた。
「……あー、まー、そのことは後で当事者同士で話し合ってもらうとして、だ。こちらとしても一応は嬢ちゃんの身元を確認しておかなきゃならん。この家に置いといても大丈夫かどうかの判断材料にさせてもらうためにもな」
「おいおい、冗談だろ譲さん。こんな凶暴なやつを近くに置いていたらいつ寝首を掻かれるかわからないぜ」
「か、掻かないよ! さっきから聞いていれば、人を猛獣みたいに!」
「そんな風に言ったつもりはない。自分を温厚な猛獣さんと同列に扱うなんて自惚れもいいところだ」
「バッ――」
バカにしてっ、と声を出しかけた少女は譲のじと目に気づき、吐き出されるはずだった怒りを唸り声に転化させた。
「どうやら、理音よりは嬢ちゃんの方が少しだけ大人のようだな」
譲の言葉に顔色を変えた理音が、少し得意げな表情に変わった少女を見て鼻白む。少女はぎゅっと目を瞑りながら「べー」と舌を尖らせた。そんな仕草を少し可愛いと思ってしまった自分にまた腹が立った。
「んじゃまぁ、手始めに名前を聞かせてくれるか」
譲の問いに少女は少しの間視線を落とし、そのまま小さくうなずいた。
「……わかった、助けられた以上は説明義務があるよね。ボクの名前はサイトウユア。サイは良くあるやつだよ。文の下に示すで、トウはお花の藤と一緒」
「……名字はともかく、ユアっていうのはちょっと珍しい名前だな。どう書くんだ」
頬杖をついた理音からの質問に、ユアと名乗った少女はあからさまに眉を潜めたが、すぐに気を取り直したようだった。
「優しい鴉って書いてユアって読むんだ」
「ふーん、優しい、ねぇ」
「な、なんだよ。その奥歯に物が挟まったような言い方は」
「別にぃ」
「おい理音、蒸し返すのはいい加減止めにしろ、嬢ちゃんだって自分の非はきちっと認めてるんだ。折角の団欒をギスギスした空気で過ごすつもりか」
譲が腕を組んでうんざりしたように言った。理音がはいはいと軽く返事しながら背もたれに寄りかかり、それから切れた下唇の辺りを撫でた。
「やれやれ、縁さんの手料理が食えるってのに口が沁みそうだな」
「……呆れた、まだ根に持ってるんだ」
「少なくとも痛みが引くまでは、その権利があるんじゃないか」
「だ、だからそのことについては――」
「はいはーい、二人共それぞれ言い分はあると思うけど、一旦休戦にしなさい」
台所の方から白いリボンで髪を束ねた縁が両手にトレイを乗せ、湯気立つ料理を運んできた。見慣れたはずの姿に、それでも見惚れてしまう。
やや垂れ目だが北欧の血が混じった日系人らしく、やや高い鼻と碧い瞳、艶めく銀髪が人目を引きつける。背中まで波打つ髪は白いリボンで束ねており、頭につけた三角巾が様になっている。頭の高さは理音より少し低いくらいだが、それでも170cmはあるのだから女性としてはかなり高めだ。抜群のプロポーションの上に温厚な性格となれば、譲が羨ましがられるのも当然だろう。
縁がテーブルの前で立ち止まると、理音と優鴉がほとんど同時に起立し、一瞬顔を見合わせた。続いては二人とも顔を反らし、黙りこくったまま料理が盛られた皿をトレイから食卓に移していく。
「ありがとう、二人とも気が利くわねー」
「い、いえ、これくらいは当然です」
「すみません、ご馳走になります」
ぺこりと頭を下げた優鴉に、縁が顔を綻ばせた。このくらい素直に謝ってくれるなら、こっちも許してやる気になれるのだが。とばかりに理音が嘆息しながら最後の皿を手に取った。
前触れもなく、ぐぅと大きな腹の音が鳴った。
「……あぅ」
カッと顔を火照らせた優鴉が死ぬほど恥ずかしそうに顔を押さえ、何か言われるんじゃないかという面持ちで理音をおずおずと見た。
理音は無言で宙に視線を向け、あぁ、と一言だけ呟いた。
「な、なにさ?」
「そういやおまえ丸二日、いや、それ以上か。何も食ってなかったんだよな」
「……だ、だから?」
「断食と熱射病が重なったから体の調子がどうかな、と。その、だるかったりしないか」
優鴉の目が見開かれた。一転して気遣う素振りを見せられたせいでかえってまごついたようだった。
「なんだぁ、その意外そうな顔。……ははーん、さては、食い意地が張ってんなぁ、とか言われるとでも思ってたか」
「……っ」
返事はなかったが、顔に出ていた。亀の如く身を縮めた優鴉に理音は笑いを誘われた。先ほどまで抱いていた怒りは、嘘のように静まっていた。