第十話 気分はちょっぴりサマーソルト
玄関に入ると、室内の照明はすべて切られていた。部屋のレースカーテンもかかったままになっていたが、まだ昼間と言うこともあってそれなりに明るかった。そして、廊下の奥にキャスが言っていた通り、壁に身を隠している少女を見止めた。
黒髪の少女はドアを開けた理音をじっと窺っていた。互いの視線が重なると怯んだように身を引いたが、威圧感は失われていなかった。突然現れた家主に、どう対応すればよいのか迷っているのだと思い、その気がなかったにしても脅かしてしまったことに罪悪感を感じた。
「ああ、起きていたんだね。ええとまずは、初めまして、かな」
ハの字になっていた少女の眉が微かに上がった。掴みとしては上々だ。キャスが先んじて覗いたことをバラせば不信感を買うだけ。あたかも今彼女が目覚めたことを知ったように振る舞うべきだった。
理音は少女の不安な心境を鑑みて、極力それを増大させぬよう努めた。まずは手に持っていたキャスの網籠を玄関の靴箱の上に置いた。それからゆっくりと後ろを向き、ドアの衝立を立てて開け放った状態にしたところで、再び彼女の方に向き直った。あえて隙を見せることで、拘束する気はないのだと伝えたかった。
買い物袋を持ったまま理音が少女の方に歩み寄ると、その分だけ少女が後ずさった。未だ警戒感は薄れていないようだった。
うまくいかないな、と頬を掻きながらもダイニングまで進み出た。少女の背が後ろの壁にぺたりと張り付いた。銃を持った悪人に追い詰められたかのような表情だ。
二人の距離は当初の半分以下、4メートルほどに縮まっていた。近づいた分だけ詳細な様子が読み取れた。唇は少しぱさついているようだったが、昨日まで高かった熱はしっかり下がっているようだ。釣り目とも垂れ目とも言えない、爛々と力強く輝く瞳はちらちらとベランダの方に向けられていた。逃走経路を探っているのだ。
できれば、少女にそのまま逃げられて行方を眩ませられるという事態だけは避けたかった。理音は彼女にそれ以上近づこうとはせず、脇にあるテーブルの方にフランスパンと野菜類の入った紙袋を置き、丸椅子に座って足を組んだ。
「その、おそらく君はここがどこで、俺が何者で、自分がどういう状態になっていたかもわかっていないと思う。あらかじめ断っておくけど、俺は君に危害を加えるつもりはゼロだし、出来る範囲内での協力も惜しまないつもりだ。何か知りたいことがあれば答えるけど、どうだい?」
少女はそこで初めて、少し迷う素振りを見せた。理音の言葉を反芻しているのか、何やらぶつぶつと呟いていた。それから、開きっ放しになっている玄関とベランダを一瞥し、理音に視線を戻した。
「……ここは、どこなの?」
年相応の可愛らしい声が、小さな唇から発された。警戒と媚とがないまぜになったような感じだった。年季が入ったバリトンボイスでなかったことに理音は少しほっとした。
「セントラル・リージョンの第四セクト、シズ・シティの中央区。ついでにいうと、ここは俺の住んでいる家だ。借家だけどな」
理音の流暢な説明に、少女は半開きになった口に手を持っていった。それから、身にそぐわぬ太くて長い息を吐き出した。
「やっぱり、セントラル、なんだ。……キミは、どういう人間? 一体ボクをどうするつもりなの? そ、そうだっ、ボクが乗っていたティアラスは一体」
理音が両手を押し出すようにして捲し立てるのを制した。少女はきゅっと下唇を噛み、上目遣いとも睨みともつかぬ目つきになった。
「そんなに焦らなくたってちゃんと一つひとつ答えるつもりだ。それより、椅子に座る気はない?」
目線で向かい側にある丸椅子を奨めたが、少女は表情を変えずに小さく首を振った。
「ま、まぁ、どっちでもいいんだけど、病み上がりなんだからあんまり無理はするなよ。一つ目の質問だけど、俺は一応この家の家主で――」
言い終える前に、びくりと少女の体が大きく震えた。突然誰かに後ろから驚かされたような感じだった。
「い、いきなりどうしたんだ? ああ、その格好だと少し寒いかな。ええと、何か羽織るものはと」
「……キミって、もしかして、一人暮らし?」
手頃なものがないかと部屋を見回していた理音に、少女がたどたどしく訊ねた。その質問の意味を図りかねた。敵地の只中で不安を抱いているはずの少女に取って、そんなことが優先して訊ねるべき事柄とは到底思えなかった。とはいえ、取っ掛かりになりそうなら利用しない手はないのも事実だった。
「まぁ、一般的に言うならそういう境遇、だね」
「じゃあ、……まさか、キミがボクを?」
これまた要領を得ない言葉だった。キミがボクを。彼女に対して理音がした行為というと、ヤハヴェイで援護したこと。この場所に連れてきたこと。あるいは応急手当したこと。大概が当て嵌るような気がした。もし自分がティアラスを襲った敵だとすれば、よくて拘束されていることくらい彼女もわかっているだろう。訝りながらも曖昧にうなずいた。
再び、細い肩を戦慄かせた少女が、何か声を発しようとしたのか、口を開けた。続いては、何か大事なことを思い出したように大きく目を見開き、それから彼女が着ている入院服のような白いワンピースの襟元を前に引っ張るようにして、その隙間から胸元を覗き込んだ。
少女の一見無防備な挙動に、理音が決まり悪そうに顔を反らした。はずだったが、なぜか少女の姿から目を離しきれていなかった。
俯き気味に、服の裾を両手で握り締めていた少女の顔が、みるみるうちに赤くなっていった。やり場のない感情をいつ爆発させようかというようにも、泣くのをこらえている幼女のようにも見えた。実際に、目が潤んできていた。
明らかな過剰反応に理音が焦った。なんとか少女を落ち着かせようと、躊躇いがちに口を開いた。
「ど、どうした? 気持ち悪いのか? あっ、もしかしてお風呂に入りたいとか? そうだよな、あれだけ汗びっしょりかいていたんだし」
「……せ、……せせ」
「せせ……?」
「……制圧するっ!」
制圧とは穏やかじゃないな。一体何をだろうか。などと思っている間に、壁に張り付いていたはずの少女が凄まじい速さで距離を詰めてきた。気づいたときには間合いに侵入されていた。
「ちょっ、ちょっちょまっ!」
制圧対象は自分だった。
足を組んでいたことが徒となり、立ち上がった弾みでテーブルの下に膝を打ちつけ、置いてあった紙袋が床に落下した。それでも首目掛けて飛んできた手刀を辛うじて手首で受け止める。
じん、と指の先にまで強烈な痺れが伝わった。喉元に当たれば容易に動きを封じられる力強さがあった。
遅れて、足元からトマトが潰れたような音がした。いや、絶対に潰れた。
応対に何かミスがあったのか。混乱している理音の右腕に、少女の細い腕が蛇のように絡みついた。慌てて外に振り払おうとしたが、がっちりと固定されていてまったく動かない。力をさほど使わずに相手の動きを制するための、軍隊御用達の関節技だ。
考える間も与えないというように、少女の体が瞬時に沈んだ。反射的に空いている方の手で顎を庇った瞬間、固定された腕のさらに下、死角から屈伸の勢いを利用した掌底が襲ってきた。受け止めた左手が上に弾かれ、自分の顎に当たって舌を噛む。
「いっひゃっ! ふぇめっ、あにすんだっ!」
「だ、黙りなさいっ! ぐすっ、誰にも……たことなかったのに、ひどいっ、ひどいよっ! 許、さない……絶対に許さないんだからっ!」
怒り心頭の、しかし仄かに涙目の少女が肩に届かぬくらいの髪を振り乱し、顔面に渾身の突きを繰り出してきた。空いている方の手がチョキの形に変わるのを見止め、体が勝手に動いた。
背を反らした直後、先ほどまで目のあった場所を少女の二本指が通過。その容赦のなさっぷりに思わず顔が引きつった。避けなかったら一生杖の世話になるところだった。
間断なくその手が手刀の形に戻り、真下にあった理音の顔に振り下ろされる。空いている左手で床を弾き、横に転がり込んで回避。極められていた手が解放されたが、勢い余って傘型の照明灯を引っかけて倒してしまう。
床に強化ガラスの傘が叩きつけられ、吃音が鳴り響く。割れなくてよかった、などと安心している余裕は皆無だ。
頬に放たれた左回し蹴りを一歩下がって回避、背面を見せた刹那、鳩尾狙いで振り抜かれた肘を両手で受け止める。
「ま、待てってっ! 落ち着……ちょっわっ!」
掴まれる前に身を引いた少女が理音の脇に突進、すれ違いざまに理音の足を外から刈った。体勢を崩しかけた理音が刈られた足を軸足の方に重ね、反転して床に手を突き、腕立て伏せのような格好になった。と、目の前にあった少女の足がぴくりと動くのを見止め、腕を思い切り伸ばして後ろへと跳躍した。少女はそれ以上踏み込んでこなかった。
「少しは使えるみたいだねっ! だけど、絶対に負けないっ! 受けた恥辱はここで雪いでみせるっ!」
「ちっ、恥辱だってっ!?」
一体全体何の話だ。彼女の言動から察するに、何かを致命的に誤解されていることだけは理解できた。が、説明する間を与えてくれそうにない。考えている今も攻撃を繰り出してきている。場馴れしていたと自負していた自分が、拳を捌き切るだけで精一杯だ。これだけ力が込められていると殴っている方もかなり痛いはずなのだが、顔色一つ変えない。相手も明らかに戦い慣れている。
この上はなんとか組伏せるしかなさそうだ。少々手荒になってしまうが、急所をばんばん狙ってくるような相手に悠長なことは言っていられない。
一つ大きく息を吸い、少女が低い姿勢で懐に潜り込んできた。両肩を押さえつけるべく、両側から挟みこむように腕を振るう。
パンと、小気味よい柏手がなり、重なりあった手首を更に下から伸びてきた白い手にあっさりと掴まれた。するりするりと動かれてどうにも戦いづらい。相手が女の子である以上に、自分より小さい相手とやり合う経験がほとんどなかったのが痛かった。
体の柔軟さを見せつけるように背を反らしていた少女が、一見不安定な姿勢から足を振り上げた。
金的。死。男なら誰もが一度は経験したことがあるだろう耐え難い痛みが脳裏を掠めた。咄嗟に内股にして膝で受ける。
少女の顔色が変わった瞬間、掴まれていた手首を腕ごと内側に、巻き込むように畳む。このまま手を放さねば相手の体が泳ぐ。外せばそれまで、素早く襟元を掴んで袈裟固めに入る。
そんな風に考えが甘かったのは、目の前にいる少女があまりにも華奢に見え、頭のどこかで油断していたせいだろう。
予想は敢え無く裏切られた。少女が巻き込まれる勢いを利用して理音の両腕に自分の体を引き寄せた。予想外の行動と、押し当てられた胸の柔らかさに理音の体と思考が凍りついた。
そして、少女がその隙を見逃すことはなかった。
「たあああぁぁっ!」
白い両足が立ち尽くす理音の脚、腰、胸板を軽やかに駆け上り、最後に顎を横から爪先で刈った。
薄手のスカートが捲れ、なめまかしい大腿が露わになった一瞬の光景が、三半規管を揺さぶられた理音の網膜に焼きついた。
反してその一撃で、体の自由を奪われていた。上を向いているのか下を向いているのかもわからなかった。霞む視界の中、両足を揃えて着地した少女の、翻っていたスカートの長い裾がゆっくりと元にもどったところで、今度は逆から顎に平手打ちを受け、意識が更にあやふやになった。
遅れて、遠くで誰かが自分の名前を呼んだ気がした。目の前の少女とは違う、のほほんとした感じのある女の声だった。