明日の展示室には何もない
1
榧野千歳は絵を見る前に解説を読まないことにしていた。
花の絵ならまず花を見る。画家が貧しかったとか、妻と不仲だったとか、実はその花が死を意味するとか、そういうことは後で知ればいい。最初から答えを渡されると、自分が何を感じたのか分からなくなる。
だからその日も額の右下にある白い札は見なかった。
絵の中では女が窓辺に座っていた。膝に伏せた両手と窓の外へ向けた横顔。白い袖に淡い青が差し、耳の下にだけ暖かい色がある。遠くを見る目にも、目の前のものから顔を背けた目にも見えた。
千歳は少し離れ、もう一度近づいた。
「明日の午後もここにありますか」
隣の男が尋ねた。
細身の上着を着た三十歳になるかならないかの男だった。絵の前にいるのに顔は横の職員へ向けている。手には折った催しの案内があった。
「ええ。回顧展は明日の五時までですので」
「それは展覧会ですね。僕が聞いたのはこの絵です」
職員の笑顔が接客用の形を保ったまま止まった。
休日に仕事のことは考えたくなかった。刑事という職業は一度顔を出すと買い物中でも食事中でも帰りの電車でも簡単には引っ込まない。今日は静かな部屋で誰の言葉の裏も読まずにいたかった。
なのに隣にどう見ても面倒な質問をする男がいる。
「展示替えのご予定は、今のところ……担当に確認いたします」
「お願いします。午前中にはあるそうなので」
職員が奥へ向かった。男は案内を開き、鉛筆で何かに線を引いた。
「閉館時間を聞けば済む話ではなかったんですか」
千歳が言うと、男は初めてこちらを見た。
「済むと思っていたんですが、午後の予定から実物だけ消えているんです」
「予定が変わったからでしょう」
「そう。その理由を知りたい」
男の声には窓口への不満とは違う弾みがあった。
奥から名札をつけた男性が出てきた。真壁とある。片手に青い表紙の冊子を持ち、先ほどの職員に赤鉛筆を返していた。
「『外光』は『窓から入る光』に直してください。言葉を説明しているうちに、絵を見る時間がなくなるので」
「明日の鑑賞会の分ですね。先生の名前の読み方も入れますか」
「名前は僕が言います。子どもたちには先に好きなところを探してもらいたい」
千歳は少しだけその人に好感を持った。
真壁は男を認めると、足を止めた。
「久瀬さん。宗一さんはまだお見えになっていませんが」
「約束より早く来ました。それより明日の質疑応答は中止ですか」
「中止の案を出しています。この部屋に人が集中すると、ほかの作品をご覧になる方の妨げになりますから」
「撮影も?」
「一般のお客様の写り込みが問題になりますので」
「朝の鑑賞会は残すんですね」
「はい。予約を受けていますし、少人数です」
真壁の胸元で電話が震えた。画面を見て一瞬眉を寄せ、二人に頭を下げる。
「失礼します。……ええ、明日の受け渡しの件ですね。今は少し」
低い声を残して廊下へ出ていった。
男は紙に引いた線を見た。
「同じ部屋なのに、人が集まる朝は構わなくて午後は駄目になる」
「朝は予約の少人数だと言いましたよ。午後は人数が違うんでしょう」
千歳が指摘すると、男の視線が上がった。反論されて不愉快になった顔ではない。むしろ見つからなかった物が見つかったときの顔に近い。
「それはそうですね。じゃあ午後も人数を絞ればいい」
「私に聞かれても」
「いえ、聞くことが一つ減りました。ありがとう」
男は案内の端に何かを書き足した。千歳は言い返しかけてやめた。間違いを訂正しただけなのになぜか調査に協力したことになっている。
「久瀬未明です」
「名前まで聞いてません」
「まだ聞いていなかったですね」
男は不思議そうでもなくうなずいた。千歳は絵に戻った。女の表情がさっきより疲れて見えたのはたぶん自分のせいだった。
2
真壁が戻ってきたとき、入口から年配の男が入ってきた。
品のいい灰色のジャケットに銀の縁の眼鏡。こちらを見つけると、真壁には短く、未明にははっきりとうなずいた。
「久瀬さん。お待たせしました」
「僕が早く来たんです。明日の講演は予定どおりですか」
「二時からです。何か?」
「その後この絵の前でする質疑応答と撮影がなくなるそうで」
男は真壁を見た。
「私は了承していませんよ」
「ですから、案です。展示室が混み合うことを考えて」
「講演を聞いた方に、最後に実物を見てもらう。それで一つの催しでしょう。兄の作品は画像だけでは伝わらない」
声が上がりかけ、真壁は周囲を確かめた。展示室には千歳たちのほかに二組の来館者がいた。
「宗一さん、その話は後ほど」
「人数を絞ってはどうですか」
未明が言った。
千歳は思わず彼を見た。もう使った。
「午前と同じくらいに分ければ、混雑は避けられます。撮影も希望者だけ順番に」
「その誘導に人手が要ります」
「私も立ちますよ」
宗一が言った。
「質疑応答の間は別の部屋にいたスタッフをこちらへ」
「直前に変えると混乱します」
「中止するほうが変更ではありませんか」
未明は責める調子をまるで使わなかった。そのため真壁の返事だけが次第に尖って聞こえた。
受付側から別の職員が顔を出した。
「真壁さん、午後の作品案内のことで。講演に参加しないお客様には私がこちらをご案内してもいいですか」
「ほかの作品を中心にお願いします」
「この絵を目当てに来る方も多いので、五分くらいなら」
「できればこの作品は午前中に」
「午後から来る方もいますが」
真壁は手元の冊子を閉じた。
「まだ決定ではありません。午後の案内は後でまとめて説明します」
職員は困った顔で引っ込んだ。
千歳は未明の紙をのぞいた。そこには催しの時刻が印刷され、十五時と十五時半に線が引かれていた。十時半の鑑賞会と十四時の講演には何も書かれていない。
「二時の講演は別室ですか」
千歳が尋ねると、宗一が答えた。
「はい。スライドを使います。三時にこちらへ移動する予定です」
「画像は使うんですね」
「もちろんです。兄の代表作ですから」
未明が千歳を見た。彼が口を開く前に、千歳は続けた。
「さっきの職員さんの案内には宗一さんは参加しないんですよね」
「私は講演がありますので」
未明が鉛筆を止めた。千歳は自分が彼の考えたかったことを先に聞いたのだと察した。少し気分がよかった。
「すると人でも話す内容でもなくなる」
未明が小さく言った。
「何の話ですか」
宗一の問いに、未明は絵を見上げた。
「この絵が明日の午後にはここにない可能性です」
真壁の指が冊子の背を強く押した。
宗一は絵と未明を交互に見た。
「返却は閉幕後です。私は今日、そんな話をしに来たのではありません」
「ええ。別の予定があるのかと」
「真壁さん。まさか勝手に運び出すつもりではないでしょうね」
「そんなことは言っていません」
「だがあなたは前から——」
千歳は二人の間に声を入れた。
「今は予定の話です。絵がなくなるというのも、この人の推測でしょう」
「あなたは?」
宗一の視線が鋭くなった。正当な質問だった。千歳はただ絵を見に来た客だ。
「榧野といいます。警察官です。今日は休みで、観覧に来ました」
真壁がこちらを見直した。千歳は必要な身分を示してから、言葉を継いだ。
「ここで誰かを決めつけるより館の責任者に予定を確かめませんか。ほかのお客様もいらっしゃいます」
宗一は入口のほうを見て、口を閉じた。
真壁が責任者は奥にいると答えた。事情を説明しに行く背中を見送り、千歳は未明へ顔を寄せる。
「何も盗まれていないうちから人を盗人みたいに扱わないでください」
「僕は絵の所在を聞いただけです」
「聞く順番というものがあります」
未明は少し考えた。
「あなたは順番を変えるのがうまそうですね」
褒められた気がしなかった。
責任者が来て、奥の打ち合わせ室を使うと言った。宗一が未明を促し、千歳にも「先ほどの話を聞いていたなら」と同席を求めた。真壁も異存はないと答える。
千歳は一度、窓辺の女を振り返った。まだ札を読んでいなかった。
3
打ち合わせ室の机には催しの案内が三種類並んだ。
「こちらが配布中のものです。こちらは真壁から出ている変更案。午後のお客様向けの案内文も、まだ承認していません」
館の責任者は眼鏡をかけ直して説明した。
未明はすぐ手を伸ばしかけ、宗一に止められた。
「その前にお願いした件を」
「ああ。対象の資料はすべて所在を確認しました。貸し出した分も返却記録と一致しています」
「では、どうして真壁さんが知っているんです。兄夫婦が別れてすぐ、義姉が洋裁の仕事を再開したことまで」
宗一の声が隣の真壁へ向けられた。
「その手紙は公表していません。閲覧したのはあなたと汐里くらいのはずです」
「だから私は佳乃さんから直接伺ったと——」
扉が開いた。
「叔父さん。母の話をするなら、母が来てからにしてくれない?」
入ってきた女性は四十歳前後だった。宗一と同じ姓を名乗り、汐里と付け加える。画家の娘だと千歳にも分かった。
「母は二時の約束で来ます。私が先に書類を渡しておくと言ったから、今は駅の近くでお昼を食べています」
汐里は封筒から紙を出した。展示解説の写しには数か所に線が引かれている。
「真壁さんには母が仕事の話もしたんです。私もそのときいました。手紙を見なくても本人は自分の暮らしを知っているでしょう」
宗一は返事に詰まった。
「私は資料の管理の話をしている」
「対象の資料はそろっています」
未明が先ほどと同じ調子で言った。
「複写の有無をすべて証明できるわけではありません。ただその話を知った経路はご本人への聞き取りで説明できます。汐里さんが流出させたと考える必要はありません」
彼は薄い報告書を宗一へ渡した。
千歳は汐里が置いた紙を見た。貸してもらえるか尋ねると、彼女はうなずいた。作品名は《帰りを待つ人》。二十七年前に描かれたとある。
その下の説明に線が引かれていた。
『別離の後も、佳乃は夫の帰る日を待ち続けた。窓辺の姿には、朔郎を生涯支えた妻の献身が表れている』
余白には整った字で「別れた後の生活については事実と異なります。この二文の訂正をお願いします」と書かれていた。
「絵を描いたのは別れる前ですか」
千歳が聞くと、汐里は別れる二年前だと答えた。
「父は後から、この絵をそういうふうに話すようになったんです。母はそれを自分の人生の説明にしないでほしいと」
「兄には兄の思いがある」
宗一が言った。
「だから絵の題を変えてほしいとは書いていません」
責任者が咳払いをした。
「訂正のご要望は承知しています。真壁からも文案が出ています。ただ宗一さんからいただいた資料との照合を——」
「開幕してからずっとそれです」
真壁が言った。
携帯電話が机の上で震えた。彼は画面を伏せた。先ほどの受け渡しの相手なのか千歳には分からなかった。
未明は原稿を指して責任者に尋ねた。
「この案も見ていいですか」
許可を得ると、配布中の案内と並べる。千歳も横から目を走らせた。午後用の原稿には、展示室の混雑を避ける案内が書かれていた。ほかの作品への誘導は残っているのに、《帰りを待つ人》の場所を示す一行だけがない。
「それも中止する催しに合わせた修正ですか」
千歳が尋ねると、真壁は「案です」と答えた。
未明が紙を九十度回した。内容は変わらない。ただ時刻と催しの名前が千歳からも見やすくなる。
「理由の欄を隠してみましょう」
未明は別の紙を重ねた。
「残すものとなくすもの。それだけにするとずっと分かりやすい」
4
宗一が腕を組んだ。
「何が分かるというんです」
「午前十時半。この絵の実物を使う鑑賞会は残る。午後二時。画像を使う講演も残る。三時以降は実物の前ですることだけがなくなる」
未明は順番に鉛筆の先を置いた。
「混雑が理由なら人数を減らす案が使えます。撮影が問題なら質疑応答までやめなくてもいい。宗一さんの催しが嫌なのかと思いましたが、別の職員による通常の案内までこの絵だけ午前に回そうとしていた」
「変更は決定していません」
「ええ。だから明日の午後には必ずなくなるとは言っていません。なくなった場合に困らないよう準備している」
真壁は返事をしなかった。
千歳は並んだ紙を見ていた。真壁の説明を一つずつ聞いていたときには、混雑、写り込み、人手の問題だった。それぞれ別の理由で消されていた予定が紙の上では一つの輪郭になっている。
絵がない。
それを当てはめると、ばらばらだった変更案が同じ方向を向いた。
「返却が早まる予定は?」
未明が宗一に尋ねた。
「ありません」
「作品の状態に問題があって展示を外すことは」
責任者が首を振った。
「その報告は受けていません。真壁、何かあるのか」
「作品に問題はありません」
未明はうなずいた。千歳は彼が次の質問をする前に口を開いた。
「展示への抗議で館内にしまうつもりだった可能性もありますよね」
「あります。そこはまだ分からない」
未明は真壁へ向き直った。
「外した後、どこに置くつもりですか」
真壁の視線が佳乃の訂正紙へ落ちた。
「誰にも迷惑はかけないつもりでした」
「それは難しいと思います。ここからなくなる時点で予定がこれだけ変わる」
「久瀬さん」
千歳が呼ぶと、彼は一度こちらを見て、言葉を止めた。
宗一が椅子を引いた。
「持ち出す気だったのか。私の絵を。売る算段でもつけたんですか」
「売る?」
真壁の顔に怒りが浮かんだ。
「あなたはそれしか考えられないんですか」
「では何のために」
「佳乃さんにお返しするためです!」
真壁は声の大きさに自分でも気づいたらしく、唇を結んだ。机の上の電話を取り、しばらく画面を操作した。
「本当に出すと決めたわけじゃありません。今日の話し合いでも拒まれたら明日実行する。そのための準備です。まだ取り消せます」
彼が自分から示した連絡の画面には翌日の受け渡しについてのやり取りがあった。対象の作品名と館外への移動についての相談。責任者が読み、これは館として依頼したものではないと確かめた。千歳は画面をのぞく前に真壁の了承を得た。読む間、真壁は携帯電話から手を離さなかった。
「佳乃さんへ渡すことは宗一さんには?」
「話していません」
「館の許可もないんですね」
「取れるわけがないでしょう」
そこで責任者が深く息を吐いた。
未明は携帯電話より、予定表を見ていた。
「なるほど。まだ決めていないから、変更も案のままなんですね」
「そう言っているでしょう」
「でも準備はしている。午後の案内まで。ずいぶん丁寧です」
真壁が未明を見た。その表情を見て、千歳は嫌な予感がした。
「丁寧?」
「持ち出した後の混乱を減らそうとしているんでしょう。撮影に来た人をがっかりさせたくない。職員を困らせたくない。けれど何も変えずに置いておけば目立たなかった予定が全部あなたの準備を説明してしまった」
「久瀬さん。その話は」
「特に朝の鑑賞会です。そこだけ残したのがいい」
未明は鉛筆で十時半を指した。
真壁は取り上げられた仕事の評価でも聞かされているような顔になった。
「いいって、何がですか」
「絵をなくしたいだけなら朝からなくてもいい。でもあなたは朝の会をちゃんと終わらせたい。そこがずっと気になっていました」
「子どもたちには関係ないからです」
「やっぱり」
未明が笑った。ほんの小さな笑みだった。嘲る顔ではない。予想していた答えが戻ってきたことを素直に喜んでいる。だからこそ千歳はまずいと思った。
「僕は最初、時間に別の制約があるのかと思ったんです。受け渡しが午後にしかできないとか。でもあなたが守りたかったのは——」
「何がおかしいんですか」
真壁の声が低くなった。
「何度も訂正してほしいと言ったんです。本人が違うと言っている。なのに資料を確認する、所有者と相談する、そればかりで。もう明日で終わるんですよ」
「その経緯はさっき聞きました」
「聞いて、それですか」
未明は鉛筆を止めた。
「僕が確認したいのは午前を残した理由です。あなたの計画には仕事を守りたい部分と——」
「もう結構です」
真壁は携帯電話を自分の前へ戻した。
「面白い話をしているつもりはありません。あなたにこれ以上説明することはない」
部屋が静かになった。
千歳は先ほど自分が予定表の偏りを見つけたときの気分を思い出した。未明より先に質問できた。ばらばらの情報がつながった。それは確かに面白かった。
だが机の向こうに座っているのは答え合わせを待つ問題ではない。
千歳は鉛筆の先を避けて未明の手元に手を添えた。
「今はその確認をやめてください」
「まだ一つ——」
「その一つは待てます」
未明は千歳を見た。納得した顔ではなかったが、鉛筆を置いた。
扉の外で職員の声がした。
「榛原佳乃様がお見えです」
時計は二時を指していた。汐里が立って扉を開ける。入ってきたのは小柄な女性だった。生成りの上着に、持ち手を自分で縫い直したらしい布の鞄。娘の顔を見て、それから机の上の紙に視線を落とした。
「何かあったの?」
真壁が椅子から腰を浮かせた。
「佳乃さん。僕はあなたのために——」
千歳は訂正紙を手に取った。今度は誰かが最後まで説明してしまう前に本人へ渡したかった。
5
佳乃は席を勧められても、すぐには座らなかった。机に並んだ予定表を見て、娘へ尋ねる。
「明日の催しも変えるの?」
「まだ決まってない。お母さん、こちらの方が」
千歳は名乗り、自分がたまたま来館していたことを短く説明した。真壁が作品を館外へ持ち出す準備をしていたこと、その目的として佳乃へ渡すつもりだと言っていることも伝える。
佳乃は真壁を見た。
「私に、絵を?」
「今のままここに置いておくべきではないと思ったんです。何度訂正を求めても、宗一さんは」
「だからといって、私の物にはならないでしょう」
真壁の口が止まった。
佳乃は娘の顔を確かめた。汐里も首を振る。
「私も今、知ったの。真壁さんが何とかしてくれるとは聞いていたけど」
「何とかしてくれるというのは?」
千歳が尋ねると、汐里は言葉を選んだ。
「母のためにできることを考えていると。訂正の話をしていたので、私はそのことだと」
佳乃がそう頼んだのを聞いたわけではない。汐里の説明は真壁の説明を信じたものだった。
千歳はそれを口にして解説せず、訂正紙を佳乃の前に置いた。
「こちらはあなたがお書きになったものですか」
「はい。字が小さくて読みにくかったかしら」
「読めます。今、館にしてほしいのも、この訂正でしょうか」
佳乃は椅子に座り、鞄から眼鏡を出した。線を引いた二文を読み直し、そのうちの一つを指で押さえる。
「この『別離の後も』からです。別れた後まで私があの人を待っていたことにしないでほしい。前にもそうお願いしました」
「それは僕も分かっています。でもあなたはこの絵の中で待たされるのは嫌だと」
「言いました」
佳乃は真壁を見た。
「だから説明を直してほしいとお願いしたんです。絵を私の家へ運んでもここに書いてあることは変わりません」
真壁は何か言いかけ、口を閉じた。
佳乃の目が打ち合わせ室の壁にかかった回顧展のポスターへ向いた。窓辺の女が、作品名とともに印刷されている。
「あの袖の色はきれいでしょう」
返事を求めたというより、確かめるような言い方だった。
「実際はもっとくたびれた服だったの。あの人はああいうところがうまかった」
宗一の肩が少し上がった。しかし佳乃は宗一に同意を求めなかった。
「絵は嫌いではありません。家に欲しいわけでもない。それではいけませんか」
誰も答えなかった。千歳はその沈黙を急いで埋めないようにした。佳乃が言葉を足さなければならない理由はない。
真壁は膝の上で手を組んだ。朝、子ども向けの冊子を持っていたときと同じ手だったが、今は指を解く場所が見つからないようだった。
「受け取ってもらえると思っていました」
「聞いてくれれば答えました」
佳乃の声は静かだった。静かなぶん、真壁はほかの物音に紛れさせることができなかった。
未明が机から鉛筆を取らずに言った。
「僕も、渡す相手がいることと、その相手が望んでいることを分けて確認しませんでした」
真壁は彼を見なかった。千歳にも未明の訂正が関係を元に戻すための言葉には聞こえなかった。誤った箇所をそのままにしておけないのだろう。それは彼のいいところなのかもしれないが、今すぐ誰かが礼を言うようなことでもなかった。
「ならば話は明らかですね」
宗一が背筋を伸ばした。
「義姉さんも求めていない。真壁さんが勝手に思い詰めて、私の絵を持ち出そうとした。それだけのことだ」
佳乃の指が訂正紙から離れた。
千歳はまた口を開きかけた。その前に、未明が宗一へ顔を向けた。
「それだけではありませんよ。依頼の報告をまだ最後まで聞いていないでしょう」
6
責任者が立ち上がった。
「先にこちらで確認を取ります。作品を動かす場合は必ず私を通すよう職員に伝えます。真壁、手配した相手と、やり取りの記録を確認させてほしい」
真壁は少し間を置いてうなずいた。千歳は責任者が廊下の職員へ指示を出すのを見届けた。感情の話がまとまるまで絵の扱いまで宙に浮かせておく必要はない。
宗一は未明が渡した報告書を開いた。
「資料はそろっていたのでしょう」
「ええ。誰がどの資料を見たか、何がどこに書かれているかを調べました」
「それと展示の説明にどんな関係があるんです」
「あなたがその説明は資料に基づいているとおっしゃったので」
宗一は眼鏡の位置を直した。未明は佳乃の訂正紙を指す。
「この『別離の後も、佳乃は夫の帰る日を待ち続けた』。何をもとにした文章ですか」
「兄がそう話していました」
「その話を聞いたのはあなたですね」
「何度も聞きました。兄はあの絵を見ながら、待つ妻の姿を描いたのだと」
「絵についてそう語っていた。それは分かります」
未明は宗一の言葉を遮らなかった。千歳は彼が真壁にしたような笑い方をしないことに気づいた。こちらは謎ではなく、整理すべき報告なのかもしれなかった。
「佳乃さんが別れた後、何を望んで暮らしていたかについて、ご本人に確認した記録はありますか」
「そんなものをいちいち記録にする人がいますか」
「なくても構いません。ただある資料のようには扱えない」
宗一が報告書を閉じた。
「久瀬さん。私はあなたに、兄の作品を批判するよう頼んだ覚えはない」
「作品は批判していません。袖の色は僕にもきれいに見えます」
「そういうことではなくて」
「ご依頼は資料の確認です。確認できたことと、できなかったことを報告しています」
千歳は未明の横顔を見た。声は先ほどと同じだった。真壁が何を守ろうとしていたかを聞いたときも、依頼人の不機嫌を受けている今も、調子を変えない。
相手によって言葉をやわらげないのは、困った性質だった。
相手によって結論を変えないのは、そう悪くなかった。
「本人が否定したら、画家の言葉まで消せというんですか」
宗一が尋ねた。
「消す必要はありません。画家がそう語ったと書けばいい」
「同じことだ」
「誰の言葉かが違います」
千歳はそこで初めて自分の声を挟んだ。
「ここには佳乃さんがどう生きたかとして書かれています。画家が絵について話したことだとは読んだ人には分かりません」
宗一は千歳を見たが、反論せず責任者へ向き直った。
「あなた方が作った説明ですよ」
「はい」
責任者は座り直した。
「宗一さんから伺ったお話を、こちらでこの文章にしました。佳乃さんから訂正を求められた後も、判断を延ばしました。それは館の問題です」
真壁の目が上がった。
「だったら、最初から」
「そうだ。もっと早く確認すべきだった」
責任者は真壁へ答え、佳乃に頭を下げた。
「この二文は外します。画家ご本人の言葉をどう紹介するかは、出所が分かる形にしたうえで改めて確認します。明日は確認できる作品情報と展示上の説明にとどめます」
佳乃は訂正紙を見た。
「私がお願いしたのはそれです」
大きく息を吐くことも、泣くこともしなかった。眼鏡を外し、片方のつるを畳む。もう一方を畳む手が少し遅れ、汐里が鞄を近くへ寄せた。千歳はその動きを見ていた。
真壁は二人ではなく宗一を見ていた。
「今なら直すんですか」
責任者が答えようとしたが、真壁は首を振った。
「何度言っても動かなかったのに。こんな話になってからなら、直すんですね」
千歳は彼の怒りが佳乃の希望とは別に残っているのを感じた。訂正を決めれば、準備も自然に消える。そう簡単な話ではないのかもしれない。本人が条件として挙げたことと、その条件が満たされたときにどう感じるかは同じではない。
未明が真壁を見た。今度は鉛筆を取らなかった。
「訂正されたら、やめる予定だったんですね」
真壁は彼をにらんだ。
「また答え合わせですか」
未明の口がわずかに開いて止まった。
千歳は真壁に向き直った。
「今どうするかを聞きたいです。佳乃さんは、絵を受け取らないと言っています」
真壁は佳乃を見た。彼女はうなずかなかった。首も振らなかった。すでに答えたことをもう一度説得のために繰り返すつもりはないようだった。
真壁の指が携帯電話の縁をなぞった。
「……僕が腹を立てていたことまでなくなったわけじゃありません」
「はい」
千歳は答えた。
「宗一さんに分かってもらえたとも思いません」
宗一は何も言わなかった。
しばらくして、真壁は携帯電話を手に取った。
「取り消します」
声は低かったが、今度は誰に向けた言葉か分かった。
「絵は持ち出しません」
7
取り消しの連絡はすぐにつながった。真壁は事情を細かく語らず、翌日の依頼を取り消すことを伝えた。通話の後、責任者と一緒に確認を残した。その間、未明は口を挟まなかった。
千歳は廊下に出て勤務先へ連絡し、自分が見聞きした経緯を伝えた。部屋へ戻ってからは、館と当事者の連絡先、記録の所在を確認した。ここで何もかも済んだことにするつもりはなかったが、千歳一人で今後の扱いを決めることでもなかった。明日の展示担当は別の職員へ引き継がれることになった。
「朝の鑑賞会の冊子は受付の棚にあります」
真壁は責任者に言った。
「青い表紙のほうです。難しい言葉を直した版なので、印刷するならそちらを」
責任者はメモを取った。
千歳は机の端に置かれた青い冊子を見た。表紙の裏には、子どもが自分で好きな場所を丸で囲める小さな絵の図が載っていた。未明もそれを見ていたが、何も評さなかった。
宗一は報告書を鞄に入れた。佳乃に向かって一度口を開き、結局責任者へ明日の講演について話し始めた。
佳乃はそれを待たずに立った。
「汐里、展示を見て帰ってもいい?」
「うん。まだ時間があるから」
娘と出ていくとき、佳乃は真壁の前で足を止めた。
「訂正を取り次いでくださったことは助かりました」
真壁が顔を上げた。佳乃は彼を見て続けた。
「でも次は私に聞いてください」
佳乃は返事を待ち、真壁がうなずくのを確かめてから出ていった。
千歳が時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。休日はだいぶ違うものになってしまった。未明が書類をまとめる。
「明日、説明が変わったところを確認に来ます」
責任者はうなずいた。千歳にも変更後の説明と手配の確認経過を伝えると言う。
「私も、絵をちゃんと見ていないので」
千歳が答えると、未明が顔を上げた。
「最初に見ていたでしょう」
「隣で明日の午後に絵があるか尋ねる人がいなければ、もう少し見られました」
「それはすみません」
謝るところがそこなのか。
千歳は名刺を受け取り、自分で連絡できるようにした。未明の名の下には、探偵事務所の所在地が控えめに記されている。
「久瀬未明って本名ですか」
「ええ」
「探偵としてつけた名前かと思いました」
「そう言われるので、母に聞いたことがあります」
「由来を?」
「命名の時点で探偵にする予定があったのか」
千歳は少し待った。未明が続けた。
「なかったそうです」
それはそうだろうと思ったが、口には出さなかった。
8
翌日の《帰りを待つ人》は昨日と同じ場所にあった。
窓から入る光を描いた白い袖も、膝に伏せた手も変わらない。変わったのは額の右下にある札だった。作品名、制作年、技法と寸法。それに室内の光と色についての短い説明が添えられている。
千歳は絵を見てから、札を読んだ。女が何を思っているかはやはり分からなかった。昨日は疲れて見えたが、今日は窓の外に誰か知っている人を見つけたようにも見える。分からないまま、もう少し見ていられた。
隣の部屋から子どもの声がした。青い冊子を持った職員が、何が描かれているかを教える前に、どこが好きか尋ねている。展示室の向こう側で、佳乃と汐里が別の作品を見ていた。佳乃は千歳に気づき、会釈した。少しして、二人がこちらへ来る。
「昨日はありがとうございました」
「説明はご確認になりましたか」
「ええ。見せてもらいました」
佳乃は絵を見上げた。
「今日はもう帰ります」
その言葉に誰も理由を尋ねなかった。汐里が昼食をどうするか聞き、佳乃は駅の反対側に気になる店があると答えた。昨日通りかかったのだという。二人は次に見る絵の相談ではなく、何を食べるかを話しながら出口へ向かった。
「昨日より長く見ていますね」
背後から声がした。
千歳は振り向かずに答えた。
「今のところ邪魔する人がいなかったので」
未明が隣に立った。手には案内も鉛筆もなかった。彼は絵を眺め、しばらく黙っていた。
「聞いてもいいですか」
「内容によります」
「昨日、職員の案内には宗一さんが参加しないのかと聞いたでしょう。どうしてあれを先に?」
千歳は彼を見た。昨日の続きだった。この男にとって、まだ答えが出ていない箇所が残っている。
「真壁さんが、宗一さんの催しだけをやめたいのかと思ったからです。あの二人、最初から険悪だったでしょう」
「でも通常の案内まで変えようとしていた」
「だからそこを確かめたかった。あなたも聞くつもりだったんじゃないですか」
「聞くつもりでした。先に聞かれたので、面白かった」
千歳は口元が緩みそうになり、絵に目を戻した。
「少しは悔しがってください」
「答えが早く分かったのに?」
この人と張り合うのは相当に無駄が多そうだった。それでも昨日の予定表が一つの形にまとまった瞬間を思い出すと、もう一度くらい一緒に考えてみたい気もする。そこは認める。ただし、条件がある。
「真壁さんにした話し方は私は嫌いです」
未明は千歳を見た。千歳は続けた。
「計画を解くのが好きなのは分かりました。でも相手は講評を頼んでいません」
「そうですね」
「分かっています?」
「頼まれていないことは」
千歳は額を押さえた。未明は悪びれる代わりに、少し考え込んだ。その顔を見ていると、反省しているのか、新しい疑問を見つけたのか区別がつかなかった。
「ただまだ聞けていないことがあるんです」
「真壁さんにですか」
「朝の鑑賞会のために、あそこまで——」
「聞きません」
千歳は先に言った。未明が黙る。
「今日は絵を見ます」
彼は窓辺の女へ視線を戻した。千歳も絵を見る。白い袖に差した青が、昨日より少し明るく見えた。隣では未明が今度こそ黙っている。
十秒ほどして、息を吸う音がした。
「絵の感想なら聞きます」
千歳が言うと、未明は一度口を閉じた。
それから珍しく、答えを探すように絵を見上げた。
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