第1章 意志の哲学史的転回
――垂直の超克から水平の持続へ
1. 垂直の意志の系譜
西洋哲学において「意志」は、長らく個の内部に宿る力として理解されてきた。
ショーペンハウアーにおいて、意志は世界の根源であり、個を苦へと引きずり込む盲目的な衝動であった。
ニーチェにおいては、それは「力への意志」として、個を高みへと押し上げる上昇運動となる。
ハイデガーにおいて、意志は存在の開示へと向かう「決断性」として、個の深みへ沈降する契機となった。
これらはいずれも、
深淵へ沈む
頂点へ登る
内奥へ向かう
という垂直的運動を特徴としている。
意志とは、個が自らを超えるための力であり、その運動は常に「上」か「下」へと向けられていた。
しかし、この垂直性は、現代において決定的な限界に直面している。
2. 現代の危機は「個」ではなく「関係」として現れる
技術は個の能力を拡張し、
SNSは個の声を増幅し、
新自由主義は個を競争へと駆り立てた。
それにもかかわらず、私たちが直面している危機は、「個の弱さ」としては現れていない。
それはむしろ、関係の断絶として現れる。
家族の崩壊
コミュニティの消失
SNSの分断
教育現場の孤立
職場におけるメンタルヘルス危機
これらはいずれも、「個の意志が弱い」から起きているのではない。
関係を支える構造が脆弱であることによって生じている。
垂直の意志は、関係の崩壊を扱うことができない。
3. 意志の再定義
――個の超克から、関係の持続へ
本論が提唱するのは、意志の転回である。
意志を「個の上昇」ではなく、
「関係の持続」へと向け直すこと。
意志とは、
壊れた関係を編み直し
沈黙する者を包摂し
違いを抱えたまま立ち続け
揺れを吸収し
倒れない構造をつくる
ための、文明の技術である。
垂直の意志が英雄を生むなら、
水平の意志が生むのは、建築家である。
4. 垂直の意志がもたらした三つの破綻
垂直の意志は、近代を支えた強力な理念であった。
しかし現代において、それは三つの形で破綻している。
① 個の英雄化による孤立の増幅
「自分を超えよ」という命令は、
失敗を個人の責任に還元し
弱さを恥とし
援助を求めることを敗北とみなす
結果として、個を強くするどころか、孤立へと追い込む。
② 同一化の圧力による関係の硬直
垂直の意志は、「上に向かう者」と「下に留まる者」を分断する。
教育、家族、職場、SNS――
あらゆる場で「正しい方向」が設定され、違いは逸脱とみなされる。
③ 揺れを否認する制度の崩壊
垂直の制度は、揺れを想定しない。
だからこそ、揺れが起きた瞬間に壊れる。
経済危機
パンデミック
家族の崩壊
SNSの炎上
これらはすべて、揺れを前提にしない構造の脆弱性を示している。
5. 水平の意志は「弱さの哲学」ではない
水平の意志は、垂直の意志の対極にある。
しかしそれは、「弱さの肯定」ではない。
それは、揺れに耐える強度を、構造として獲得する哲学である。
個の強さではなく、関係の強さ
超克ではなく、持続
完成ではなく、修復
同一化ではなく、偏りの吸収
水平の意志は、
垂直の意志が扱えなかった「関係の危機」を引き受けるための
文明の耐震工学である。
6. 水平の意志が開く新しい倫理
水平の意志は、倫理の位置そのものを変える。
「正しさ」よりも、持続可能性
「責任」よりも、偏りの調整
「誠実さ」よりも、修復可能性
「共感」よりも、アクセス権
倫理はもはや、個の内面に属するものではない。
関係の構造に属するものとなる。
事例：垂直の意志が限界を迎える瞬間
――職場の「自己責任」文化が生む崩壊
ある企業で、若手社員Aがプロジェクトの遅延を引き起こした。
上司はこう言う。
「もっと努力しろ。自分を超えろ。責任はお前にある。」
Aは深夜まで働き、限界まで自分を追い込む。
しかし遅延の原因は、Aの能力ではなく、
- 不明瞭な指示
- 過剰な業務量
- チーム内の情報断絶
という構造的な問題だった。
Aは燃え尽き、退職する。
プロジェクトはさらに遅延する。
垂直の意志（個の超克）では、関係の断絶は修復できない。
