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戴冠式

戴冠の日。帝都の大聖堂は光で満ちた。蒼の外套に白の縁取り、胸には小さな白百合のバッジ。フロリアンは民衆と軍の代表に囲まれ、聖油を額に受けた。大主教が宣言する。


「――アスラン新皇、フロリアン・レーガー!」


大歓声が天を突く。鐘が鳴り、花弁が雪のように舞った。フロリアンは玉座に座らない。ひと呼吸置き、壇上の端へと歩み出る。


「最初の勅令を告げる。」

声はまっすぐだった。

「奴隷制を廃す。白百合旗のもと、すべての民は帝国の民だ。王国・ヴァルディアとの和平を承認、新たに三国往来の安全を約する“白百合条”を制定する。貴族連合の降将は帰農を許し、領民の保護を義務とする。」


ざわめきは、やがて拍手に変わる。壇上の端、カーヴェルが軽く片手を上げた。フロリアンが続ける。


「そして、客将カーヴェル・プリズマン――」

「おや。」カーヴェルが苦笑する。

「――帝国軍の“外部軍師”として、必要の折にだけ、智を貸してほしい。」

「喜んで。」あっさりと、そして他人事のように。会場に笑いが広がった。


その日のうちに、帝都の広場には大鍋がいくつも据えられ、降兵と市民が同じ列に並んだ。回復院は夜通し灯りを落とさず、各地の捕虜収容所からは帰還の行列が伸びた。白百合旗の下、刃を濡らさない勝利が、街の匂いを変えていく。



王国では、広場の魔導掲示に速報が現れた。

――「帝国、フロリアン新皇即位。白百合条、和平承認。」

重臣たちは胸を撫で下ろし、王ハインリヒは静かに天を仰いだ。「女神よ、導きに感謝する。」宰相アルビデールは扇を置き、「やはり“あの御方”は戦を終わらせるために遣わされた」と小さく漏らした。


魔族の都でも、マファリーが報を受けて肩の力を抜く。「ふう……。さて、商人たちが忙しくなるわね。」サリエスは一人、窓辺で白百合の方向に口づけを飛ばした。


領事館では、ミーシャが拳を固く握った。「よかった……!」ジェシカは耳飾りに触れ、そっと目を閉じる。「戻ってきてください。あなたの場所に。」


村では、アンジェロッテが走り回り、白百合の紙吹雪を自作していた。ロゼリアとフェリカは笑い泣きでそれを浴び、セリーヌは空を見上げて囁いた。「ご主人様、早く。」



その夜、帝都の薄闇の一角。バルコニーに立つカーヴェルの横に、フロリアンが並ぶ。街は祭りの灯で揺れていた。


「あなたは“不敗の名将”と呼ばれるでしょう。」

フロリアンが笑い交じりに言うと、カーヴェルは肩を竦めた。


「刃を抜かないで済むなら、それが一番。――勝ったのは、あなたですよ、陛下。」

「いや、勝ったのは民だ。」フロリアンは広場を指した。湯気、笑い声、抱き合う影。

「この光景を、忘れない。」


「なら、帝国はきっと良くなる。」

カーヴェルはそう言って、空に視線を投げる。星は淡く、遠い。


「……さて。俺は一度、帰るとしよう。」

「王国へ?」

「うちの“総司令”がうるさくてね。」

「総司令?」

「うちの娘アンジェロッテだよ。釣りの約束を守らないと、厳しいから。」


二人は声を立てて笑った。次の瞬間、空気がきらりと揺らぎ、カーヴェルの姿は夜気に溶けた。


帝都の鐘が、ゆっくりと、平和の時を刻み始める。

刃を濡らさぬ勝利――その名は、もう民の間で囁かれ始めていた。



帝都告示の日、正午の鐘が三度鳴る。広場の掲示板に新しい詔が貼られ、書吏が澄んだ声で読み上げた。


――「本日をもって、アスラン帝国は“レーガー帝国”と改称する。」


ざわめきが層になって渦を巻く。最初に反応したのは商人たちだ。

「名が変わるってことは印章も変わる。契約様式もだ。だが……戦が止まるなら歓迎だ」

秤を提げた老商人が頷くと、行商の娘が目を輝かせる。「白百合条で通行税が緩むって本当? だったら明日には南の市へ!」


貴族街の回廊では、古い金獅子の旗が下ろされ、白地に蒼の縁取り、中央に白百合があしらわれた新旗へと掛け替えられていく。老侯が苦い顔で呟いた。

「先祖伝来の“アスラン”の名よ……」

若い当主が静かに答える。

「名よりも、民と領地です。陛下は降伏者に恩赦を与えた。恥じるべきは頑迷で、名ではありません。」


兵舎では別の空気があった。戦塵の抜けない若い兵が、槍の石突きを床に打ち、ほっと息を吐く。

「もう突撃の号令はないのか」

「白百合の下では“降れば斬らぬ”だ。生きて故郷に帰れる」

歴戦の下士官が苦笑いで締める。

「戦は終わらん。だが“死なずに勝つ”のが新しいやり方だと、覚えとけ」


大聖堂では司教が説教壇に立ち、白百合の意匠を指さして語る。

「白は慈悲、百合は復活。新帝は赦しにより帝都を清めんと望まれる。剣を誇らず、剣を納める者に祝福を。」


学舎では歴史家が黒板を叩く。

「改名とは断絶ではなく継承の新章だ。“レーガー”の名は新帝の理念――青き剣(蒼剣)と白百合――を象徴する。“力の誇示”から“統べて護る”への転回である。」

(誰も口にしないが、内心では“前皇の悪名と決別する知恵”でもあった)


造幣局には新しい型が届いた。片面には白百合、もう片面には蒼剣。職人は指で撫でて唸る。

「いい面構えだ。……子どもが握っても痛くない縁取りにしてやれ」

彼らなりの平和の仕事だった。


地方の反応も早い。国境砦では将校が布告を読み上げると、村長が深々と頭を下げた。

「税が軽くなれば冬越えの麦が買える。兵の通りも減れば畑が荒れずに済む」

誰かが小声で付け加える。

「“アスラン”から“レーガー”へ。――呼び名が変われば、悪夢も朝になる」



カーヴェルの“無血の平定”は、瞬く間に世界を駆け巡った。


冒険者ギルドの伝令板では、噂が噂を呼ぶ。

「二万の敵軍を鳥黐みたいに止めたって?」「しかも治療して飯まで食わせて帰したらしいぞ」「え、誰も死んでないの?」

“刃を濡らさぬ軍師ブレード・ドライ”“白百合の客将”“不敗の参謀”――呼び名は瞬時に増えた。


王国では、広場の演説で彼が王の功績を強調した余波もあって、街角の会話はこんな具合だ。

「名君の時代だな」「いや、あの客将が化け物じみている」「化け物は言いすぎ、女神の使徒様だ」

子どもたちは木の枝を杖に見立て、即席の“無血ごっこ”を始める。

「はい降伏! 降ったから斬らない!」

笑い声が路地に弾けた。


ヴァルディア魔族国では、宰相府の報告書が渋い結論を記す。

――「脅威度:極。敵意:低。共存可能性:高。」

マファリーは扇を畳み、参謀たちに言い切った。

「恐れるべきは“力”より“意志”。彼は戦を終わらせる意志を持っている。――こちらも、それに値する国家であれ」

サリエスは窓外に白百合の方角を見やり、ぽつり。

「……好きになってしまう理由、世界中が持つようになるわね」


中立諸国の商人同盟は会合を開き、机を叩いた。

「三国の交易路が安全化する。投資を前倒しだ! 塩と布、紙、香辛料、全部だ」

船主たちは新航路の地図に赤線を引き、学術院は“カーヴェル戦術論”の講義案を回覧する。

――「第1週:戦わずして勝つ/第2週:士気の数学/第3週:降伏交渉の言語学」


もちろん反発もある。古い剣の勲章を胸にした一部の古参は酒場で愚痴る。

「武の誉れはどこへ行った」

カウンターの女将が肩をすくめる。

「誉れは死体じゃ買えないよ。――生きて飲むから、うちも儲かるのさ」


聖職者の中には“赦し過ぎ”を危ぶむ声もあったが、大半は孤児院で子らの笑顔を見て、ため息に変わった。

吟遊詩人は新しい歌を連れて各地を回る。

♪白百合は血を吸わず 蒼き剣は鞘のまま

 旗の下 敵は友となり 母は灯を消さず待つ♪


そして、各国の軍人たち。地図の前で静かに学ぶ。

――敵の糧道に刃を当てず、心に刃を当てるやり方。

――降伏と恩赦を“制度”にして反乱の再燃を防ぐやり方。

――“勝利の物語”を敵味方双方に配るやり方。

彼のやり口は、恐怖と同時に、プロの尊敬をも生んだ。



帝都の広場。新しい看板に釘が打たれていく。

〈レーガー帝国・白百合条〉

一、降伏者の赦免

一、奴隷制の廃止

一、三国往来の安全保障

一、捕虜の即時送還


読み上げが終わると、拍手の中にすすり泣きが混じった。首に鉄輪を嵌められていた者が、輪を外して空に掲げたのだ。周りの手が輪に触れ、次々と上がる。白百合の紙吹雪が舞う。誰かが言った。


「名が変わったんじゃない。生き方が変わるんだ。」



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