貴族の打算
戦場の風は、昼過ぎにはぬるくなった。〈グラッセン〉の斜面には、まだところどころ重力の膠が残り、靴底がぺたりと鳴る。捕縛班は布縄で手首をゆるく束ね、衛生班は負傷者に次々と回復魔法を施していく。食糧班が湯気を上げる大鍋を運び込み、塩と香草の匂いが広がった。
やがて、白い外套を翻らせた男がふらつく足取りでカーヴェルの前に進み出た。敗軍の将――クロップ侯爵だ。甲冑の留め金は切れ、埃だらけの顔には、それでも礼節を忘れぬ光が残っている。
「……貴殿の名は、後世、我が家の系譜に刻むことになるでしょう。」
侯爵は膝をつき、地に片手をついた。「この二万、皆殺しにされても仕方がないところを救われた。敗将として、フロリアン殿下の旗のもと再起を図りたい。――加わることをお許し願いたい。」
カーヴェルは侯爵の肩に手を置いた。「命が残ったのは、あなた方が武器を投げたからです。守るべきものを守るために、次は違う戦い方をしましょう。殿下にお取り次ぎします。」
フロリアンが前に出、青い刃を胸前に寝かせて応じる。「白百合旗は、降る者を拒まない。クロップ侯、その勇気に感謝する。」
侯爵は深々と頭を垂れた。斜面のあちこちで、そのやりとりを見ていた兵たちが、安堵と誇りの入り混じった顔で静かに頷いた。
◇
同じ頃、ヴァルディア魔族国・黒曜宮の戦議室。黒水晶の卓を挟んで、魔王、十三師団長マファリー、妹のサリエス、古参の参謀たちが並ぶ。
「帝国内でクーデター。三皇子フロリアンが皇帝を討ち、貴族連合が挙兵。――そこへ、人間側の“神の使徒”だ。」
老参謀が嗄れ声で要点を並べると、マファリーは唇に指を当てた。
「最悪の展開は、王国と我らの和平が瓦解し、帝国が“敵を外”に求めること。だが、彼は逆をやっている。血を流さず、敵を減らし、恨みを育てない。……見事よ。」
サリエスは頬を染め、夢見るように呟く。「カーヴェル様、また会いたい……」
マファリーはじろりと妹を睨む。「やめなさい。外交の席では顔に出るわ。――陛下、提案があります。和平は堅持、国境軍の三割を首都防衛に転用、交易線は拡充。帝国の内乱には不介入。ただし、難民は受け入れの準備を。」
魔王は短く頷いた。「大使館には、王国・帝国のいずれにも“調停”の用意があると伝えよ。……そして、マファリー、決して彼と敵対するな。あれは“戦を終わらせる側”だ。」
◇
王都・魔族領事館。ミーシャは額に手を当てた。
「……カーヴェル様が、帝国へ。」
カーヴェルはミーシャとジェシカには知らせに来たが直ぐに転移する。
「ミーシャ、ジェシカまたな」カーヴェルが消える
ジェシカは無言で耳飾りに触れる。あの夜、彼から渡された、互いの居場所を示すイヤリング。小さな宝玉が、微かに温い。
「ご無事で。」
それだけ言って、彼女は胸の奥の焦燥を押し隠す。ミーシャは掌を見つめ、女神の祝福のキスの感触を思い出した。
「女神様……もう一度、どうか。」
廊下の向こうで、魔族の大使サリエスが軽い足音を響かせる。「カーヴェル様は? 転移の気配、感じましたのに。」
ジェシカは涼しい顔で一礼した。「先ほど出立されました。領事として、我々は和平の維持に努めます。」
言葉の奥に小さな棘を忍ばせる。サリエスは「まあ残念」と笑って肩をすくめたが、ミーシャの視線に気づき、咳払いして公務の顔に戻った。
◇
村。ロゼリアとフェリカは祈るように手を組み、アンジェロッテは震える唇で絵を描いていた。紙いっぱいの大きな“白百合”。セリーヌがそっと肩を抱く。アリエルとジーンは「村は守る」と拳を握り、空を見上げた。
「大丈夫。」ロゼリアが言う。「あの人は、死なない。」
「うん。」フェリカも頷いた。「――でも、心は折れることがある。帰ってきたら、一番に抱きしめる。」
◇
帝国各地で王国監視のために貼り付いていた部隊が、続々と白百合旗の下に再編されていった。理由は単純だ。枢機卿派の将軍、辺境伯の私兵、城塞守備隊――誰もが見たのだ。二万が刃を交えずに救われる光景を。戦わずとも勝てる道を示す旗に、人は集まる。
フロリアン陣営の兵力は、瞬く間に十万を超えた。雑多な装備、違う詠唱、異なる号令。だが、日毎に整っていく。司令所の隅、カーヴェルが描く統制線の図は、綾のように美しかった。
◇
そして、貴族連合の本陣に、一通の書状が届く。封蝋には白百合。差出人は、カーヴェル・プリズマン。
> 連合諸侯・将兵各位
白百合旗の名において伝える。
我らは、帝国の民を敵としない。汝らが守るべきは領地と家族であって、腐った座ではない。
武器を捨て降れば、我らは誰ひとり斬らぬ。傷病者はすべて治療し、郷里へ送り届ける。
戦えば、汝らの子らが飢える。降れば、明日がある。
三日後、〈ラウフェン橋〉にて降伏を受ける。旗を伏せ、槍先を下ろして来られたし。
客将 カーヴェル・プリズマン
最後に小さな追伸があった。
> 追伸:補給路は四つ。三つをこちらで見守っている。残る一つは――あなたが一番ご存じの道だ。
手紙を読み終えた侯たちは、蒼ざめた。参謀たちは地図を挟んで互いの目を見る。誰も、反論できない。
三日後。〈ラウフェン橋〉には、白布の旗が並んだ。槍先は下がり、馬の蹄は静かだった。白百合旗が風に揺れる。降伏の列は、夕暮れまで途切れなかった。




