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カーヴェル帝国へ

アスガルド王国、王都セリア王宮内。会議室の空気は重く、熱かった。


「帝国の内紛に肩入れなど、火中の栗だ!」

「いや、フロリアン殿は剣聖の血を引く。あの腐敗を断った手腕、見過ごせぬ!」

貴族たちの声が交錯する。宰相アルビデールは扇で口元を隠し、王ハインリヒは黙して瞳だけを細くしていた。




そこへ、客将カーヴェルが戻る。王が短く事情を述べると、カーヴェルは肩をすくめて笑った。


「行きましょう。」


「即答か。」宰相が目を見開く。

「帝国が泥沼なら、平和条約が揺らぎます。女神様も退屈される。」

軽口に、王が思わず笑った。だが、すぐに真顔に戻る。


「条件は?」

「侵略不関与。人命最優先。――そして“白百合旗”が帝国の民を守る旗であること、です。」


王は頷き、宰相と視線を交わす。「よかろう。余が許す。行け、カーヴェル。」


「御意」



帝都、臨時司令所。白百合旗の前で、二人は対面した。


フロリアンは剣を抜いて胸の前に傾けた。「帝国第三皇子フロリアン・レーガー、智を乞う。――カーヴェル殿。」


「カーヴェル・プリズマン。女神の使徒の役、時々。今日はただの軍師で。」

握手。フロリアンは、相手の掌の温度に驚く。不思議な安堵が伝わってきた。


カーヴェルは地図の前に立ち、木炭で三本の線を引く。「籠城です。城は攻めの要塞にもなる。場所は――ここ。」


指が止まったのは帝都東方一里、丘陵地の小城砦〈グラッセン〉。古いが、土台が強い。


「補給線を二本用意。井戸を掘り、食糧と水を倍。城外に“畑”を作る時間はないので、干肉と乾パン。それから――」

カーヴェルはさらさらと書き足す。「背後の農村に避難路。矢倉は倍。武具の整備班を作る。ガレス殿、守備隊の骨格はあなたに。セイラ殿は通信魔法の網――人間の伝令より早い“声の道”を。」


フロリアンが口を開く。「籠城は士気が落ちる。どう支える?」

「勝ち筋を見せることです。」カーヴェルは笑った。「最初の波を“無血で”止める。見せ場は一度でいい。あとは彼らが勝つ。」



三日後。東の平野に貴族連合の先鋒二万が現れた。槍が黒い波のように揺れ、太鼓の地鳴りが丘を震わせる。〈グラッセン〉の城壁上、兵たちの喉が乾く音が聞こえた。


「――ここに集まる。」

カーヴェルは遠眼鏡を下ろし、指で描いた斜面の一点を叩く。自然にできた“襞”、兵が集中しやすい地形。そこへ向けて、彼は数日前から黙々と土を動かし、見えない“陣”を敷いていた。


「合図は重力光。」

フロリアンが頷く。ガレスは剣の柄を握り直し、セイラは魔法書の頁を風に抑えた。


貴族連合の角笛が鳴った。先頭が駆け上がる。二列目、三列目が押し重なる。

その瞬間、カーヴェルが掌を返す。空に薄紫の半環が浮かび、地表に淡い紋が一斉に灯った。


「――“鳥黐陣”。」


目に見えぬものが、兵たちの脛から腰、胸へ、糸のように絡みついた。足が沈む。鎖でも罠でもない。重力の微細な糸と粘性の術式を編みこんだ、巨大な“見えない膠”。兵たちは踏み込むほど絡め取られ、互いの甲冑が絡まり、動けなくなる。怒号が悲鳴に変わり、槍が地面でもがいた。最後尾が異変に気づいて止まろうとするが、押し寄せる自軍に押され、結局、斜面の“くぼみ”に折り重なっていく。


城壁上、兵がどよめいた。「と、止まった……!」

フロリアンはごくりと唾を飲む。信じ難い光景――二万の軍勢が、まるで巨大な鳥黐にかかった野鳥の群れのように、ばたばたと身動きを失っている。


「射るな。」カーヴェルが低く言う。「矢は一本もいらない。」


拡声の術が風に乗る。

「聞け、貴族連合の将兵。武器を捨てれば、命は助かる。――白百合旗は、降る者を殺さない!」


最初に槍を投げたのは、まだ若い従士だった。鎖帷子が泥に沈む音。次々に剣が落ち、盾が滑り、甲冑の音が斜面を転がった。悲鳴はすすり泣きに変わり、やがて沈黙の波が広がる。


カーヴェルは指を弾いた。鳥黐陣の粘性がふっと緩む。捕縛班が整然と駆け降り、縄ではなく布で両手を前に束ね、負傷者にはすぐ回復魔法がかけられた。敵兵の目に、信じられない色が浮かぶ。助けられている――。


城壁上、フロリアンの胸が熱くなった。

「……これが、“勝ち筋を見せる”ということか。」


カーヴェルは肩を竦める。「初手は派手に。二手目からは、静かに。」


ガレスが豪快に笑った。「殿下、あとは我らの番だ。」

セイラは冷ややかな視線のまま、しかし口元にわずかな弧を描いた。「通信網、全軍に“無血降伏”を伝達しました。士気、上がっています。」


白百合旗が風をはらみ、城の上で光った。

二万の膨大な足音は、いま、ひとつのため息に変わっている。城内の兵たちは歓声を上げ、誰かが泣いた。誰も死なずに勝てるのだ――と、初めて知った顔の涙だった。


フロリアンは隣の男を見た。

「カーヴェル殿。……帝国は、まだ救えるか。」

「救えますよ。」あっさりと、いつもの調子で。

「ただし条件がある。殿下が“守るために抜く剣”であること。白百合旗が、飢えた民と疲れた兵のために翻ること。」


フロリアンはレーヴァテインの柄を握り直した。蒼い刃が、朝の陽の中で静かに応えた気がした。


その日の戦後会議で、参謀たちは口々に叫んだ。「無双の魔術」「戦わずして勝つ策」「史に残る籠城初戦」。皆、椅子から半身を乗り出し、手を打った。

だがカーヴェルはただ机の角を指で叩き、次の地図を広げる。


「第一波は止まった。第二波は“賢い”。こっちはもっと賢く行きましょう。」


白百合の城に、静かな熱が満ちていく。

帝国の嵐は、いま新しい形を取ろうとしていた。

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