デニス・レーガー
その日は、めずらしく戦も会議もなかった。
レーガー城のテラスには、穏やかな陽光と、ほのかに甘い花の香りが漂っていた。
「母上、今日は、顔色がよろしいですね。」
フロリアンは湯気の立つ紅茶を盆ごと持って現れ、微笑んだ。
マリアーナは椅子から振り返り、息子の顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「ええ……久しぶりに、静かな“休日”をもらえたもの。」
「それは何よりです。……いつも、俺ばかりが仕事を押しつけてしまって。」
「いいえ。あなたはもう、この国の“顔”なんですもの。」
マリアーナはカップを受け取り、一口だけ口をつけた。
だが、すぐにその手が止まる。紅茶の表面が、かすかに揺れた。
「フロリアン。」
「はい?」
「……今日はね。あなたに、ずっと話しておかなければならないことがあって。」
フロリアンは、母の声の色がいつもと違うことに気づいた。
柔らかいのに、どこか覚悟を決めたような、そんな響き。
「……父上のこと、ですか?」
マリアーナの肩が、かすかに震える。
「ええ。アラリック四世ではない、本当の“あなたの父”の話よ。」
風が、一瞬だけ止まったように感じた。
「座りなさい、フロリアン。これは……あなたの人生と、この国の罪に関わる話だから。」
フロリアンは黙って椅子を引き、母の向かいに腰を下ろした。
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■ 若き日のデニス・レーガー
「私がまだ、マリアーナ・フォン・エーベルハルト公爵令嬢と呼ばれていた頃――」
マリアーナは遠くを見つめるような目になり、ゆっくりと語り始めた。
「帝都にはね、“帝国最強”と謳われた若い剣士がいたの。
名前は、デニス・レーガー。名門レーガー伯爵家の跡継ぎで、剣も頭も、何もかもが飛び抜けていた。」
彼女の声には、懐かしさと痛みが、同時に滲んでいた。
「初めて彼を見たのは、宮廷の訓練場だったわ。
陽の光を受けて銀の刃が走り……彼の剣だけ、まるで音が違ったの。」
──キィン、と澄んだ金属音が空に溶けていく記憶が、彼女の胸に蘇る。
デニスは、細身だが無駄のない体つきで、金茶色の髪を後ろで束ね、灰青色の瞳はいつも静かに笑っていた。
戦場に出れば常勝無敗、宮廷に戻れば貴婦人たちの視線を一身に集める。
けれど彼は、どれだけ褒められても少し照れたように笑うだけで、決して驕らなかった。
「“マリアーナ様、剣を振るう私などより、あなたの一言の方が、宮廷を動かす力がある。”
……そんなことを、真顔で言う人だったのよ。」
マリアーナの唇に、自然と微笑が浮かぶ。
「やがて、私たちは婚約した。
彼はレーガー伯爵家の跡継ぎ、私は公爵家の娘。
周囲も“理想の政略婚”だって騒いでいたけれど、私にとっては――ただ、一人の男性への恋だったわ。」
フロリアンは、ただ黙って聞いていた。
母が、こんな柔らかい表情で誰かを思い出している姿を、彼は初めて見た。
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■ 運命を狂わせた夜会
「すべてが狂ったのは、ある夜会の日だった。」
マリアーナの声が、少し低くなる。
「アラリック四世が主催した、盛大なパーティー。
私はあの日、デニスと踊るはずだったのに……」
豪奢なシャンデリア、香水と酒と、人の熱気が入り混じる大広間。
マリアーナは淡い青のドレスを身にまとい、扇子を手に、壁際でデニスが来るのを待っていた。
「マリアーナ。」
聞きたくもない声が背後から降ってきた。
振り返ると、丸々と太った男――アラリック四世が、油ぎった笑みを浮かべて立っていた。
「……陛下。」
「そのドレス、よく似合っておるぞ。実に、実に美しい。」
肥え太った指が、彼女の頬に触れようと伸びてくる。
マリアーナは、わずかに身を引いた。
「恐れ多いお言葉にございます。」
「そなたの婚約者……あの剣バカのレーガーとか言ったな。
あれよりも、余の方がふさわしいとは思わんか?」
大広間の喧騒が、遠くなる。
マリアーナは扇子を強く握りしめ、かろうじて笑みを保った。
「陛下、デニスは勇敢で、忠義深い方です。私は――」
「質問に答えておらんぞ?」
アラリックの声が低くなる。
その目の奥には、皇帝としての絶対的な権力の色が宿っていた。
「予の誘いを断るということが、どういう意味を持つか――わかっておろうな?」
背筋を氷の指でなぞられたような感覚。
拒めば、デニスは反逆者として処刑される。
受け入れれば、自分が裏切ることになる。
「まあ、ゆっくり考えるがよい。」
「今夜の答えは求めん。……明日までには、心を決めておくがよいぞ。」
アラリックはそう言って、笑いながら別の貴婦人へと歩いて行った。
残されたマリアーナの指先は、血が滲むほど扇子を握り締めていた。
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■ 逃避行の約束
「……その夜は、ほとんど眠れなかったわ。」
マリアーナは小さく息を吐いた。
「翌日。宮中の回廊で、デニスと会ったの。」
静かな石畳の廊下。
デニスは彼女の顔を見るなり、眉をひそめた。
「マリアーナ、顔色が悪い。何があった?」
マリアーナは周囲を確認し、彼を人目につかない柱の陰へと引き寄せた。
「……陛下に、求婚されました。」
デニスの瞳の色が、音もなく変わる。
「……なんだって?」
「陛下は仰いました。“予の誘いを断ればどうなるか、分かっているな”と。」
デニスは一度、目を閉じた。
そして、静かに言った。
「……あいつなら、言うだろうな。」
「デニス……私……どうしたら……」
彼女の声は震えていた。
デニスは一瞬だけ何かを考え、それから決意したように彼女の肩を掴む。
「――逃げよう。」
「え?」
「こんな国、もう見限ってもいい。
俺は最強の剣士かもしれないが……皇帝の気まぐれ一つで、お前を奪われるぐらいなら、全部捨てた方がマシだ。」
マリアーナの目から、涙がこぼれる。
「でも……そんなことをしたら、あなたは反逆者として……」
「構わない。元よりこの国の剣は、この国の民を守るために振るってきた。
皇帝の気まぐれのためじゃない。」
デニスは、そっと彼女の手を取った。
「マリアーナ。
俺と一緒に、他国に行ってくれ。
貴族の身分も、地位も、全部捨てる。
ただの男として、ただの女として……一緒に生きよう。」
言葉は真っ直ぐで、不器用で、だからこそ嘘が一つもなかった。
「……はい。」
マリアーナは、泣き笑いの顔で頷いた。
「私も……どこまでもついていきます。
あなたと一緒なら、どこでも構わない。」
二人は人目もはばからず、強く抱き合った。
――その抱擁を、遠くの廊下の陰から見ていた影があったことに、気づかないまま。
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■ 逮捕と冤罪
「それを、皇帝の側近が見ていたの。」
マリアーナの声は、冷たい刃のようになる。
「すべてが、あまりにも早かった。」
その日の夕刻。
マリアーナの部屋の扉が乱暴に開かれ、武装した近衛兵たちがなだれ込んできた。
「マリアーナ・フォン・エーベルハルト殿。
陛下の御命令により、拘束いたす。」
「なっ……何の真似ですか!」
答えたのは、宮廷顧問官の一人だった。
「デニス・レーガーとの謀議の件だ。
他国への逃亡計画――陛下への反逆と見なす。」
マリアーナの心臓が凍りつく。
「そんな……何を……誰が……!」
「見ていた者がいるのだよ。
廊下で抱き合い、“どこまでも一緒に”と囁き合う姿をな。」
マリアーナは言葉を失った。
その頃、デニスも別室で同様に拘束されていた。
「デニス・レーガー。貴様を反逆罪により投獄する。」
「反逆だと? 俺が何をした。」
「皇帝陛下の花嫁を奪おうとした罪だ。」
デニスは一瞬だけ目を見開き、それから低く笑った。
「……ああ。
やっぱり、そういうことか。」
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■ 牢獄にて
「私が彼と最後に会ったのは、湿った牢獄の前だった。」
マリアーナは、震える指でカップの縁をなぞった。
石造りの狭い通路。
冷たい鉄格子の向こうに、鎖に繋がれたデニスが座っていた。
「……マリアーナ。」
灯りに照らされた彼の顔は、どこまでも静かだった。
「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい……!」
マリアーナは格子にすがりつき、泣き崩れた。
「私が……私が、弱かったから……あなたを守れなかった……!」
「違う。」
デニスは立ち上がり、鉄格子に手をかけた。
「悪いのは、あの腐った皇帝と、あの取り巻きどもだ。
お前は何も悪くない。」
「でも……!」
「マリアーナ。」
彼は、そっと微笑んだ。
「もし……もし俺がここを出られなかったら。
お前は生きろ。」
「そんなの、嫌です!」
「生きて、笑って、幸せになれ。
俺のことは……」
デニスの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「俺のことは、“昔、少しだけ好きだった人”ぐらいにして、忘れてくれていい。」
「忘れられるわけないじゃないですか!」
マリアーナは鉄格子に額を押しつけた。
「私の最初で、最後の人です……!
あなた以外の誰かなんて、考えられない……!」
デニスは、何か言おうとして、飲み込んだ。
そして代わりに、静かに告げた。
「……マリアーナ。
お前のお腹の中には、きっと――」
マリアーナは、はっとして下腹部に手をあてた。
まだ誰にも言っていない、小さな“確信”を、彼は見抜いていた。
「……気づいていたんですね。」
「ああ。剣の稽古より、目ざといからな、俺は。」
彼は、かすかに笑った。
「いいか。
もし本当に、子どもがいたのなら――」
その先を、デニスは言えなかった。
看守が乱暴にマリアーナの肩を掴み、引き離したからだ。
「面会時間は終わりだ。」
「待って! デニス!」
「マリアーナ!」
二人の手が伸びる。
だが、指先がほんのわずかに触れ合ったところで、引き裂かれた。
それが、彼との最後の――
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■ 処刑と、強制された結婚
「それからは……早かった。」
マリアーナの声は、どこか色を失っていた。
「裁判は形だけ。証拠も証言も、最初から“有罪”に合わせて用意されていた。」
“他国への逃亡を企てた反逆者、デニス・レーガー”
その罪状は、宮廷に貼り出され、貴族たちの酒の肴になった。
「私は、処刑の日、帝都の塔の窓から広場を見下ろしていたわ。」
人々のざわめき。
黒ずくめの処刑人。
そして、縛られたデニスが壇上に立つ姿。
遠くて声は聞こえない。
だが、彼が最後に空を見上げ、どこかへ向かって微笑んだのだけは見えた。
「……デニス様ぁぁぁぁぁ!!」
声にならない悲鳴が、彼女の喉を裂いた。
「その日の夜、アラリックは私の部屋に来た。」
豪奢な寝台。
だが、そこは墓標と変わらなかった。
「さあ、マリアーナ。」
アラリックは、赤いワインを揺らしながら笑った。
「そなたの“好きな男”は、もうこの世にはおらぬ。
これからは、余が夫だ。」
マリアーナは唇を噛み締めた。
「人殺し……」
「なんだと?」
「あなたは、私の夫を殺した……人殺しよ。」
ぱしん、と乾いた音が部屋に響く。
アラリックの手のひらが、彼女の頬を打っていた。
「今日から、お前は予の妻だ。
嫌だと言うなら、死刑でも良いのだぞ?」
マリアーナは、その瞬間――下腹部に宿る“もう一つの命”のことを思った。
この子まで、殺されるわけにはいかない。
この子は、デニスの、たった一つの残り火なのだから。
「……分かりました。」
その夜、彼女は天井を見つめたまま、一滴の涙も流さなかった。
泣けば、壊れてしまうと分かっていたから。
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■ 現在――フロリアンへの告白
「……それが、私とデニスの話。そして、あなたの出生の真実。」
マリアーナが語り終えた時、紅茶はすっかり冷めていた。
「あなたの本当の父は、アラリック四世ではない。
デニス・レーガー。
帝国最強の剣士であり、ただ一人の“私の夫”だった人よ。」
フロリアンは、しばらく何も言えなかった。
拳が膝の上で震えている。
「……じゃあ、俺は。」
「あなたは、彼の血と、私の願いを継いだ子ども。」
マリアーナはそっと手を伸ばし、フロリアンの頬を撫でた。
「アラリックは、姓だけを与えた“名目上の父”にすぎない。
だが、あなたの剣、その目、その責任感は――彼に、よく似ているわ。」
「……母上。」
フロリアンの喉の奥から、かすれた声が漏れた。
「どうして……今まで黙っていたんですか。」
「あなたが、ただの“復讐者”になってしまいそうで、怖かったから。」
マリアーナは、静かに微笑んだ。
「でも今のあなたなら、分かってくれると思った。
デニスが守ろうとしたもの、私が守りたかったもの――
それは、“この国そのもの”ではなく、“ここで生きる人たち”だって。」
フロリアンは目を閉じ、深く息を吸った。
「……俺は、アラリックの罪を、決して許しません。」
「ええ。」
「ですが、俺は……“デニス・レーガーの息子”として、
この国を、母上と、そして……彼が守ろうとした民を、守ってみせます。」
その言葉を聞いて、マリアーナは初めて、心から安堵したように微笑んだ。
「……ありがとう、フロリアン。」
彼は立ち上がり、母の前に膝をついた。
「母上。」
「なぁに?」
「もし……本物の父上に会えるのなら。
俺は、こう言いたかった。」
フロリアンは、ぎこちなく笑った。
「“あなたの息子は、もう二度と、この国に同じ過ちをさせません。”って。」
マリアーナの目から、静かに涙が頬を伝う。
「きっと、彼も……そう言ってくれたあなたを、誇りに思うわ。」
テラスに風が吹き、木々の葉がやさしく鳴った。
遠くで鐘の音が鳴り、新しい時代の始まりを告げるように響いていた。




