カーヴェルの授業
帰国は三日後と決まった。午後、海風の通る書斎で、カーヴェルは羊皮紙を引き寄せる。羽根ペンの先に墨を含ませ、静かに書き始めた。
――ジルド大王陛下へ。
王国の一市井に過ぎぬ者として、そして女神の使徒として、拝礼申し上げます。
この島で、あなたが蒔いたものが、いかに豊かに育っているかを見ました。
人と人竜が同じ卓を囲み、同じ風を読む――その景色は、あなたの志の延長線上にあります。
私は今、和平と再編の只中におります。帝国は揺れ、魔族は舵を切り、人は学び合い始めました。
近く、レオナ殿を王都へお迎えし、図書庫と工房とを開き、学びと交流を深めたく思います。
陛下の旅路が安らかであること、そしていつか同じ海図を囲める日が来ることを――。
署名を書き添えたとき、扉が小さく叩かれた。
「できた?」と顔をのぞかせるロゼリア。
「うん。」カーヴェルは封蝋を落とし、女神の紋を押す。「あとは、風の速い便り鳥に託すだけだ。」
窓の向こう、港ではアンジェロッテがレオナの手を引き、ジーンとアリエルがはしゃぎながら追いかけている。
三日後、この島を発つ。だが今日の陽は、惜しみなく長く、彼らの肩に降り注いでいた。
波は穏やかだった。
二日目の午後、陽はまだ高い。甲板に出たアンジェロッテが「かもめ!」と笑って指さした瞬間、海面の色が変わった。暗い、巨大な影が船腹と同じ長さの弧を描き、そのまま水面を割る。
「あれ……魚?」レオナが目を細めた。
「魚、というより“海の主”だな。」カーヴェルは眉をひと筋だけ寄せ、レールにもたれた手を外す。
白銀の肌を持つ巨体――フェリーと並ぶほどの長さ。淵のような口ががばりと開き、泡と潮を山のように吐き上げる。船全体が一度、低く軋んだ。
アンジェロッテが跳ねるように抱きつく。「パパ、こわい……!」
「大丈夫だ。」カーヴェルは背に腕を回し、短く、確信だけを言葉に載せた。
レオナの喉が鳴る。「こんなの、見たことない……。ど、どうするんです? 丸呑みに……」
巨影が突進。甲板の影が一瞬にして消え、世界が顎の内側に入る錯覚――。
その刹那、カーヴェルはただ視線をやった。
怒号も詠唱もなく、彼の指先は動かない。けれど“圧”だけが海風の向きを変えた。
ごう、という重たい空気の鳴り。
海の主はぴたりと止まり、目の光が抜け落ちる。巨体が惰性で一メートル、二メートルと流れ――そのまま横倒しになって、どさり、と海に寝た。潮柱が一本、遅れて空に立った。
「……え?」甲板に居合わせた皆が同じ声を漏らす。
「気絶させた。」カーヴェルは肩を回し、つとめて軽い声で言った。「脳を、ほんの少し揺さぶっただけだ。痛くはしていない。起きたら、こっちへ来ないと学習する。」
レオナはしばらく口を開けたまま硬直し、やがて乾いた笑いが喉の奥で弾ける。「……“だけ”、ですか……」
やがて海の主は、遠巻きの小魚の群れに見送られるように深みに沈み、影は消えた。
アンジェロッテが顔を上げる。「パパ、すごかった!」
「うん。魚にも、怖い思いはさせないのが約束だ。」カーヴェルは小さく手を振り、海面に一滴の光を落とした。感謝の印だ。
*
夜。
レオナは手帳と羽根ペンを抱え、船室の前で深呼吸をした。今日だけでも問いたいことが山ほどある。魔力の質の見分け方、瞬間の判断、味方の隊形に合わせた指示の“言い回し”。
(――今、行かなきゃ。明日には波の性格が変わる。聞けるうちに聞く。)
二度、軽くノック。返事がなかったので、遠慮がちに隙間を――
目に飛び込んできた、柔らかな肌の重なり。
「失礼しました!!」
扉はすぐに閉まり、レオナの顔は熟れた林檎みたいに真っ赤になった。耳の先まで熱い。
(な、何をしてるかなんて、わかってる……けど、わかってるけど!!)
廊下の端で膝に手を当て、しばらく深呼吸。再び扉を見て、くるりと反対を向く。
――その夜、彼女の手帳の白い頁は、まるごと“真っ白”のままだった。
*
翌朝。
甲板の端で潮風に当たっていると、ロゼリアとフェリカが左右から現れた。
「おはよう、レオナ。昨日は……その、恥ずかしいところを見られちゃったわね。」
途端に頬が熱を持つ。「す、すみません! ノックはしたんですけど……」
フェリカはケロリと笑った。「うちはね、日課みたいなものだから。」
「日課……?」
「うちの“旦那様”、モテるから。不安を溜めると、判断も斬れ味が鈍るの。だから、ちゃんと“満タン”にしておくの。」
ロゼリアが肩をすくめる。「戦前の整備、ってところね。」
「……ですよね~。」レオナは乾いた笑いを漏らし、胸の前で小さく手を組む。(いや、ですよねって何だ私。)
「で、本題は?」ロゼリアが目を細める。
「勉強したいんです。魔法、戦術、戦い方。書き留めたいことがたくさんあって。」
「それなら、ちゃんと時間をもらいなさい。」フェリカが背中を押した。「旦那様、教えるの上手いから。」
*
午前の光がラウンジの丸窓から差し込む。
カーヴェルは湯気の立つカップを置き、向かいに座るレオナを見た。「昨夜は悪かったな。」
「い、いえ!」レオナは慌てて手を振った。「その……本題をお願いします!」
「よし。じゃあ三つ。“眼”“言葉”“線”だ。」
「が、眼と言葉と……線?」
「まず“眼”。魔力の質と流れを見る眼、地形と風を見る眼、味方の疲労の色を見る眼。俺は“匂い”でも見るけど、これは慣れだ。君は半身に竜の血がある。感覚は鋭い。訓練すれば早い。」
カーヴェルは片手を掲げ、天井の梁を指した。
「例えば、昨日の海の主。あいつは空腹と縄張り意識で動いていた。目の焦点と尾鰭の角度でわかる。空腹は一直線、縄張りは曲線で来る。一直線は止めやすい。曲線は“面”で受ける。これは“眼”の話だ。」
レオナはせわしなくメモを走らせる。「空腹=直線、縄張り=曲線……はい。」
「次に“言葉”。指示は短く、絵になる言葉で。『押せ』『下がれ』より『楔』『扇』の方が陣の形が頭に浮かぶ。焦った時ほど、名詞で形を渡せ。」
「名詞で、形……」
「最後に“線”。これは動線と意思決定の線だ。敵の動線、味方の動線、退路の線。三本の線を常に頭の中で引く。加えて、自分の意思決定の線。迷ったら“誰を生かす線か”で選べ。勝ちより、生存を優先するときが必ずある。」
レオナは顔を上げた。「“勝つ”より“終わらせる”、ですね。」
カーヴェルが微笑む。「そう、君の父上の口癖だと聞いた。」
「魔力運用は?」
「四層で考える。基礎層(呼吸と姿勢)、制御層(出力と収束)、干渉層(敵味方と環境)、拡張層(道具と連携)。昨日の『脳を揺らす』は干渉層だ。対象の脳波に“逆相”を一瞬だけぶつけて同期を外す。力はいらない。解像度だけ要る。」
「……理屈は分かるけど、どうやって“逆相”を作るんです?」
「耳じゃなく、肌でリズムを取るんだ。心拍、呼吸、瞬き。その周期から逆相の波形を想像して、魔力の粒を“点”で打つ。ほら。」
カーヴェルが指を鳴らすと、レオナの前の湯気がふっと真横に流れた。
「いま、湯気の流れを一瞬だけ“止めた”。同じ要領で、人や獣の神経に触れる。殺すのは簡単だが、やらない。止めるだけ。」
「……はい。」レオナは思わず背筋を伸ばした。恐れではない。安堵だ。――この人は、止めるために強い。
「実技もしよう。」
カーヴェルは甲板へ出ると、両手を軽く広げた。「突いてみろ。全力で。」
「言いましたね! 全力で!」
レオナの足元で風がうなり、半歩の加速から大きく踏み込む。槍のように伸びた掌打――
「――“楔”。」カーヴェルの低い声。
レオナの肘に触れたのは、一片の風だけだった。力は逸れ、足は甲板を滑り、視界が一回転。背中がどさりと板に落ちる。
「いったぁ……!」
「今のは“線”の負けだ。君の動線を半歩ずらして、退路の線を切った。形は合ってる。次は呼吸。」
三十分、五十分、一時間。
レオナは転がり、起き上がり、また転がる。額から顎へ汗が伝うたび、メモの端に新しい言葉が増えた。
――“眼”:焦点、尾鰭、直線/曲線。
――“言葉”:名詞で形、短く。
――“線”:敵・味方・退路、生存優先。
――魔力:四層、逆相、点で打つ。
最後の一撃で、カーヴェルがわずかに頷いた。
「合格。三割は当てられるようになった。」
「三割……!」レオナは息を切らしながら笑う。「昨日なら、ゼロでした。」
「三割当たれば、隊で百になる。君は形を作る役だ。無理して全部を取るな。『ここで止めて』と“言葉”を置け。みんなが動く。」
ロゼリアがタオルを放る。「はい、よく頑張りました。汗、拭いて。」
フェリカが水筒を差し出す。「筋肉も頭も、同時に育ってる顔だね。」
レオナは水を飲みながら、何度も頷いた。
(この人は、勝ち方ではなく、勝ち筋の“渡し方”を教える……父上と同じだ。でも、優しい。)
*
夕暮れ。
甲板ではアンジェロッテとジーン、アリエルが釣果自慢をしている。
「今日はジーンが一番!」
「いや、最後の一匹はアンジェロッテだろ。」
「私はお腹が一番!」アリエルが胸を張る。
レオナは手帳を抱えて空を見る。夕焼けが海に落ち、橙の道が遥かに伸びていた。
(ここからの道は、長い。けれど――)
彼女はカーヴェルのもとに駆け寄り、深く頭を下げた。
「今日、教わったこと、全部、必ず血肉にします。王都でも、必ず役に立てます。」
「うん。」カーヴェルは短く笑って、彼女の手帳の端を軽く叩いた。「書いた言葉は、君の剣だ。磨き続けろ。」
夜、船は風を孕み、静かに王国へ向けて進んだ。
新しい仲間、新しい“線”。
甲板の下では、潮の低い唸りが、まるで遠い太鼓のリズムみたいに、次の一歩を刻んでいた。
甲板を洗った潮の匂いが、ラウンジの丸窓からふわりと入ってきた。革張りの長椅子を横に寄せ、丸テーブルを中央に。カーヴェルは白墨で壁の黒板に二つの大きな円を描いた。
「今日は“思想”と“魔法”だ。少し長いが、面白くする。」
アンジェロッテが一番前の椅子にぴょこんと座る。「はいっ、せんせい!」
ロゼリアとフェリカはノートを開き、セリーヌは湯を配る。レオナは羽根ペンを耳に挟み、アリエルとジーンは窓辺でそわそわしていた。




