真実
「我らは、もっと東の海に住んでいた。さらにその東に、“蛮族”がいる。あれはな……人の顔をかぶった野獣だ。言葉を持たず、空腹を満たすためなら子も獣も分け隔てぬ。増えすぎ、海は血に染まり、陸は荒れ地となった。わたしたちは飢えを避けて東へ渡り、今の魔族の地へ辿り着いたが、異邦の鱗は嫌われる。帝国もまた同じ。『翼あるものは檻へ』――それが彼らの理だった。」
低く、乾いた笑い。イザリオが拳を握る。ヴェルナーは目を伏せた。
「追われ、漂い、病に伏し、空腹で倒れ……。とうに翼を畳む覚悟をした時だ。彼に会った。」
パオの金の瞳が、壁画の青年に向く。
「ジルド殿は、わたしたちを“珍しい獲物”ではなく、“客”として扱った。病をたやすく癒し、己らの保存食を分け、子らに名を与えた。あの夜の焚き火と温かい粥の匂い――忘れられぬ。」
ロゼリアは唇を噛み、フェリカは目元を拭った。セリーヌは静かに頷き、アリエルは不器用に視線を逸らす。アンジェロッテがそっとカーヴェルの袖を掴む。
カーヴェルが問う。「――でも、あなた方の力なら、蛮族を退けることもできたのでは?」
パオは、かすかに首を振る。
「力は刃だ。抜けば、誰かが血で滑る。我らの古い言葉に、『争いは、翼の生えた不幸である』とある。先祖は何度も地を焼き、何度も悔いた。だから、“戦わぬための賢さ”を選んだ。」
しばしの沈黙。その静けさを破ったのは、遠雷のような記憶の足音。
「――だが、いつも、戦いは向こうから来る。」
パオの声がわずかに硬くなる。
「帝国軍が押し寄せた。ジルド殿は、たった一人で先陣を切り、数千の兵を一息で退けた。恐ろしかった。だが同時に、胸が熱くもなった。彼らは人や獣人を鎖に繫ぎ、尊厳を笑い、若い翼を折った。ジルド殿はそれを嫌い、泣く子の頬を拭った。――ならば、わたしたちにもできることがある。」
パオは掌を広げるようにして語る。
「その日から、我らは並んで飛んだ。空からの制圧は戦を早めに終わらせる。炎ではない風で矢を落とし、城門だけを眠らせ、血の川を作らぬよう、ひたすらに“終わらせる工夫”を重ねた。およそ一年で、帝国軍と魔族軍は今の王国の地から退いた。小競り合いは続いたが……そのたびにジルドは言った。『君たちの手を汚させてしまって、すまない』と。」
そこまで話して、パオは小さく笑った。
「その一言が、どれだけ嬉しかったことか。戦いは誰の魂にも影を落とす。けれど、彼はいつも、わたしたちの影を見てくれた。――そして、約束の地を見つけてくれた。風が穏やかで、雲が低すぎず、魚群が回り、地脈が安定したこの諸島を。」
広間の空気がやわらいだ。海の光が床を流れ、涙の粒がそこに小さな虹を作る。ロゼリアは両手で顔を覆い、フェリカは肩を震わせる。アンジェロッテは「ジルドさん、いい人……」とぽつり。セリーヌは目を閉じ、祈るように呼吸を整え、アリエルは拳を胸に当てた。ジーンは、壁画の空に向かってそっと翼を広げた。
カーヴェルは深く一礼した。
「――聞かせてくださって、ありがとうございます。あなた方の記憶そのものが、王国にとっての宝です。」
パオが頷く。「君は、潮の匂いのする言葉を選ぶね、カーヴェル。」
イザリオが前に出る。「盟約の継承を、望むのか。」
「はい。」カーヴェルは迷いなく答える。「王国はもはや、昔の王国ではない。女神の末裔たる王は、民の上に立つ“理由”を忘れていない。剣を掲げるためでなく、剣を納めるためにこそ、友がいるべきだと思う。」
ヴェルナーが帳面を閉じ、静かに言葉を継ぐ。
「では、我らは王国に礼を返そう。受け取った糧に対し、海の知恵、空の見取り、外洋航路、風を読む術、竜語の歌――必要なものを提供しよう。互いの学びを、交換しよう。」
パオが立ち上がる。背筋は老いてもしなやかで、声には若い風が宿る。
「今夜、盟約の間を開こう。ジルドの時代に交わした『翼と盾の誓い』を、今一度、新たな言葉で結び直す。君と、君の家族も立ち会ってくれ。」
カーヴェルは振り返り、家族に微笑んだ。涙で赤い目をしていても、皆、力強く頷く。
「もちろんです。――過去に敬意を、未来に約束を。」
外では潮が満ち、空には薄月。港には、王国からの箱がきちんと積まれ、島の若者たちが礼を述べに並んでいた。
遠い昔、炎を選ばず風を選んだ民。その民に救われた王国の記憶が、今、再び橋を架ける。
ジルドが灯した焚き火の温度が、確かにここに残っている――そう誰もが感じていた。
港に面した桟橋で、縄の軋む音と人の掛け声が重なる。
カーヴェルはふと足を止め、荷を担ぐ逞しい背中に目を細めた。「……人間だな。イザリオ、ヴェルナー。どうして人がここに?」
イザリオが穏やかに笑う。「ジルド殿が我らをこの地へ導いた折、『ここに残り、共に営む者はいるか』と問われました。多くは家族を連れ、うなずいたのです。」
ヴェルナーが続ける。「彼らは住居を起こし、通りを造り、港を拓いた。最初は千に満たなかった人口も、今は五千近く。わたしたちの屋敷も、彼らの大工が建ててくれました。」
「なるほど。」カーヴェルは荷の積み下ろしを見つめる。「大王は君たちを“友”と認め、人も送り、孤を避け、役に立とうとしたのだろうな。」
背に陽を受けたパオが頷く。「王は王だが、兵もまた王の志に倣った。互いに背を預ける術を、彼らはすぐに覚えた。……礼を尽くしたい者がいる。――レオナ、来なさい。」
現れたのは、しなやかに結い上げた青い髪に、光の加減で細い鱗が浮く頬の輪郭。琥珀の瞳には海の深さが宿る。人と竜の血を受け継いだ娘だ。
「レオナです。ようこそ。父はラビア――ジルド大王の片腕と呼ばれた軍師でした。十に満たぬ頃、不敗のまま空へ帰り……その名だけが、私の背を正してくれます。」
丁寧に辞したレオナに、ロゼリアとフェリカ、セリーヌ、アリエル、ジーン、アンジェロッテが次々挨拶を返す。
「レオナ、町を案内して差し上げなさい。」とパオ。
「はい。どうぞこちらへ。」




