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旅立ち

白亜の謁見の間。磨かれた大理石に天窓の光が落ち、王の外套が波のように揺れた。

「カーヴェル、今日は何用か?」

「陛下。ジルド大王について調べた結果、重大な事実が見つかりました。」


カーヴェルが卓上にそっと置いたのは、背表紙の革がひび割れた古書だった。金の留め具は半ば錆び、頁は砂のように乾いている。王が身を乗り出す。

「……古代語か。これではわからぬ。」

「はい。古代史学者ブロンズ殿に依頼し、現代語訳を得ました。」


差し出された薄冊を王が目で追う。しばし沈黙――そして息を呑む音。

「……なんと。ジルド大王は“人竜族エンシェントドラゴン”と共闘し、帝国と魔族を退けた、とな。」

「事実です。さらに、人竜族は“西方五千キロの外海にある孤島群に棲む”とあります。彼らを再び味方にできれば、王国にとって計り知れない幸運となりましょう。」


王は肘掛を軽く指で叩き、考えを整えるように頷いた。

「道は遠い。だが、その価値はある。――行け、カーヴェル。」

「ありがたき幸い。家族も連れて旅をしたい所存です。」

「兵は要らぬのか?」

「陛下の兵を危険に晒す理由はございません。私は女神の使徒。必要な護りは自ら整えます。」

王は微笑し、短く言った。「よい。王国はそなたを信じる。道中、天の加護があらんことを。」



村へ戻ると、家の前でロゼリアとフェリカが腕を組んで待っていた。

「ずっと帰ってこないなんて嫌です、旦那様。――いえ、行きます。私たちも!」

「私もです。留守番なんて性に合いません!」

「はいはい、じゃあ全員で行こう。」カーヴェルが笑うと、ふたりは同時に小さく跳ねた。


同行は、ロゼリア、フェリカ、セリーヌ、アリエル、ジーン、そしてアンジェロッテ。

出発前、カーヴェルは村長に小さな水晶玉を手渡す。

「もしもの時はこの“帰還珠レコール・オーブ”を割ってください。どこにいても即座に戻ります。」

「かしこまりました……どうか、ご武運を。」

広場には村人が集まり、畑の奥からは子どもたちの「いってらっしゃい」が風に乗った。アンジェロッテはみんなの頭をぺこぺことお辞儀しながら手を振る。


「じゃ、転移するよ。」

視界がふっと反転し、潮の匂いが胸を満たした。目の前には鈍銀色の海、そして小島の港に係留された巨躯の船――全長三百メートルの自動航法フェリー。甲板は陽を返し、船首には女神の紋章。

「わぁ……でっかい!」アンジェロッテが目を丸くする。

「スタートを押したら、あとは勝手に走る。」カーヴェルが操舵輪横の水晶盤に手を置くと、船体が低く歌い、滑るように離岸した。



初日。

海は穏やかで、船は一定の律動で大洋を割った。甲板では、セリーヌが風の精を呼び、帆に似せた魔力の幕を張る。アリエルは潮の匂いを嗅ぎ分け、「南西、三刻で小さな時化」と尻尾を揺らし、ジーンは人型から翼を伸ばして上空偵察に舞い上がる。

ロゼリアは船医役として回復魔法の練習を続け、フェリカは新調した魔剣の扱いを確かめる。刃が陽光を弾くたび、彼女の横顔がどこか誇らしげに光った。

「アンジェロッテ、船の上では走り回らない約束ね。」

「はーい。パパ、魚が跳ねた!」

「あとで釣って夕飯にしよう。」


夜。

天蓋のような星のした、カーヴェルは甲板に腰を下ろし、マジックバッグからギターを取り出す。やわらかな音が波間に落ち、誰もが言葉少なに聴き入った。曲が終わると、セリーヌが小声で「生きてるって、こういう温度なのね」と呟いた。

「ねえ旦那様。」ロゼリアが寄り添う。「西の果ての人竜族って、どんな方々?」

「約束を重んじる民だ。昔、この大陸が炎に包まれた時、ジルド大王と“盟約”を結んだ。――彼らがまだ、その誓いを胸に生きているなら、話は早い。」

フェリカが顎に手を当てる。「でも五千キロ。帝国の船影を見ないとも限らない。」

「大丈夫。」カーヴェルは星を見上げた。「ここから先の海は“静けさ”で隠す。探す者には見えない道を、俺が作る。」



三日目の午後。

アリエルの予告通り、南西から鈍い雲が押し寄せた。風が強まり、甲板のロープが鳴く。

「来るよ。」

カーヴェルが掌で空を押すと、船体の周囲に透明な半球がふくらみ、雨脚が触れた瞬間、霧のように消えた。足元は不思議と安定し、アンジェロッテが「泡のなかのおうちみたい」と笑う。

ジーンが降りてきて報告する。「前方に巨大海獣。回避は間に合う。」

「なら、こっそりやり過ごそう。」

フェリカが目を細める。「戦わないの?」

「今は“会いに行く旅”だ。無用な流血は、先方への挨拶として最悪だよ。」



出航から一週間。

海の色が変わった。濃い群青から、透ける翡翠へ。潮の香りも、どことなく甘い。

「――見えた。」

水平線の彼方、雲の切れ間に、真珠を連ねたような島々が浮かんだ。中央の島には山脈が背骨のように走り、山裾の入り江には、翡翠色の港町。

そして――空。青と銀の鱗光が、幾筋も弧を描いて舞っている。

アンジェロッテが息を飲んだ。「きれい……」

セリーヌが静かに目を細める。「生きた古文書、ね。」

ロゼリアは思わず手を握る。「旦那様、わたしたち、本当に来たのね。」

「うん。約束の場所へ。」


船は音もなく減速し、入江の手前で停まった。

次の瞬間、空の鱗光の一つがふわりと降り、甲板のはるか上、風の層に留まる。翅のように広がる薄膜、金色の瞳――人の姿をした“誰か”が、そこにいた。

風の上から澄んだ声が落ちる。

「――旅の者よ。ここは人竜じんりゅうの領域。名を問う。」

カーヴェルは一歩前に出て、胸に手を当てた。

「王国の客将、カーヴェル・プリズマン。盟約を継ぐ者として、会いたい人がいる。」

金の瞳が細められ、やがて穏やかに弧を描いた。

「……ジルドの名は、海風よりも長く記憶されている。入りなさい、約束の子らよ。」


甲板の全員の胸に、同じ鼓動が跳ねた。

遠い昔のページが、音を立ててめくれ始める。

新しい時代の一行目を、彼らは今、書きに行くのだ。


大理石を磨いたような白灰の石が連なる台地を登ると、海風に鳴る鐘の音が迎えた。緑青色の屋根、曲線を描く回廊、壁面には鱗紋を思わせる鎬。ここが人竜族の迎賓館――山腹の湧水を引いた水鏡が庭を潤し、光が鱗のように反射している。


案内役に導かれ、カーヴェル一家は大広間へ通された。天井は高く、梁には古い詩句が刻まれている。壁一面に描かれた壁画には、黒髪の青年――ジルドと肩を並べ、空を駆ける人竜たちの姿。アンジェロッテが小声で「絵本みたい……」と息を呑み、ジーンは知らず翼を小さく震わせた。


やがて、柔らかな足音。三人の長らしき人物と若い側近が二人、静かに現れる。中央の老獣――いや、老賢者と呼ぶべきか――は人の姿に近いが、こめかみから耳にかけて微細な鱗が覗き、瞳は溶けた金の色をしていた。


「初めまして、旅の友よ。わたしはパオ。この島々を束ねる長だ。こちらはヴェルナー、イザリオ、若い翼だ。」

ヴェルナーは細身の青年で、文官らしい澄んだ視線。イザリオは肩幅が広く、剣のつくりに似た真面目さが漂う。


カーヴェルが一歩進み、丁寧に頭を垂れる。

「カーヴェル・プリズマン。こちらが妻のロゼリア、フェリカ。娘のアンジェロッテ。仲間のセリーヌ、アリエル、ジーン。まずは王国よりの献納品をお預かりしています。食糧、薬草、鍛鉄、紙とガラス、保存食、そして職人の手になる道具一式。もし足りぬものがあればお申し付けを。」


イザリオが目を見開いた。「こんな量を……!」

ヴェルナーが即座に帳簿を取り寄せ、パオが静かに頷く。

「海は豊かだが、島の土は薄い。間に合わぬことも多いのだ。王の配慮、有り難く受け取ろう。」


緊張がほどけ、温かな茶が供された。海藻と花蜜の香りがする。椀を置くと、カーヴェルは視線を上げる。

「ひとつ、お訊きしてもいいですか。――わたしは知りたくて来た。どうして、あなた方はジルド大王と手を取り合ったのか。」


パオは目を細め、遠い潮騒に耳を傾けるように息をついた。

「昔話になる。聞いてくれるか。」


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