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女神の策略

王国


執務室の扉を叩く乾いた音が二度。

「どうぞ」と声をかけるより早く、扉はきっちりとした所作で開き、銀糸の髭を整えたアルビデール宰相が一礼して入ってきた。


「カーヴェル殿。」

「これは宰相閣下。政務の合間にいかがされました?」


宰相は珍しく頬を緩めた。「大事ではない。――いや、私的なことだ」

眉を上げるカーヴェル。「私的?」

「うむ。実はな、わが可愛い孫どもが、そなたに夢中でな。どうしても会いたいとせがむのじゃ。」


思わず吹き出しそうになり、カーヴェルは口元を手で隠した。「なるほど。それは光栄だ。では、会いに行きましょう」

「おお、二つ返事とは。明後日の休日、昼前に屋敷へ来てくれればよい。」

「承知しました。」


宰相は歳相応の落ち着きをかなぐり捨て、年甲斐もなく上機嫌で帰っていった。扉が閉まると、カーヴェルは小さく肩を竦める。「……かわいい依頼は断れないんだよな。」



休日。石垣に緑の蔦が絡むアルビデール邸。広い庭園の芝には丸い影が二つ、ぱたぱたと駆けてきた。

「わぁぁ!ほんものだ!」

男の子が目を輝かせ、女の子が裾を握りしめて固まる。アンジェロッテと同じくらいの背丈、同じような好奇心の火が瞳で踊っている。


「はじめまして。」カーヴェルは膝を折り、視線を合わせた。

矢継ぎ早に飛ぶ質問。

「転移ってどんな感じ?」「魔法って何歳から?」「女神さまって甘い匂いする?」

「最後のは微妙だな。」笑って、彼は手のひらで壊れていた木馬を撫でた。木片が吸い寄せられ、すうっと繋がる。二人の口が丸くなる。

「うかぶ?」

「おう。三、二、一。」

魔力の薄い膜が子どもたちの体を優しく包む。ふわりと足が離れ、きゃあ、という声が青空へ溶けた。

空中でくるりと回転、少し高さを上げ、雲に触れそうで触れないところで止め、また降ろす。掌からは手品よろしく小鳥が飛び出し、石畳には色とりどりのシャボン玉が弾けた。


時は矢のように過ぎ、別れ際には女の子が泣きそうな声で「また来てくれる?」

「もちろん。」カーヴェルは小さな指に指切りをして、宰相夫婦の深々とした礼を受けた。アルビデールは孫の頭を撫でながら、目尻に皺を寄せたまま何度も頷いた。



王都へ戻る途中、カーヴェルはふと思い立つ。――ジルド大王の伝記を書こう。女神の血を引く最初の王、その真実の履歴は、民に勇気を与える。

念話でカリスタを呼ぶ。「女神さん、ちょっと相談。」

『……嫌な予感しかしませんが、どうぞ。』

「ジルドの伝記、俺が書く。」

『駄目です。』

「はやいな。」

『母の“不始末”を世に晒すおつもり?恥の上塗りです。』

「いや、面白いぞ。ドラマとしても教育としても完璧――」

『あーそうですか。では、私にも考えがあります。ふふふ。』

「おい、今の笑いは絶対よくないやつだろ。」



翌朝。秘書が蒼い顔で駆け込む。「王宮より緊急招集です! 重臣衆一同、即刻参集との御触れが――」

集められた王宮大広間。王、宰相、重臣たちがざわつく中、王が眉をひそめる。「余は呼んでおらぬぞ?」

その時、天井から澄んだ声が降った。

「――私が呼んだのです。」


真昼の陽光を濃くしたような白金の輝き。広間一杯に光の紗がたなびき、ひときわ強い輝きの中心から、女神がゆっくりと降り立った。

アーサー大主教が杖を落とし、最前列で膝をつく。「おお……女神様、降臨……ありがたや……!」

『いつも祈ってくれて、ありがとう、アーサー。』

老主教の皺だらけの目から、子どものような涙がこぼれる。


女神――アルファエルは玉座の前に進み、真っ直ぐに王を見た。

『王よ。お願いがあって参りました。――ジルド大王の伝記を、カーヴェルが書こうとしています。やめさせなさい。あれは、私の母の不祥事。世に広めるべきではありません。カーヴェルを叱り、禁じるのです。』


(やられたな。)カーヴェルは心の内だけで舌打ちした。王の口から命として下されれば、重臣たちが“証人”になる。女神の権威を借りた政治的既成事実――完全に一手先を取られた。


王は喉を鳴らし、「は、はい……」と答え、宰相も続く。「仰せのままでございます、女神様」

アルファエルは軽く頷き、掌をひらりと返した。

「宜しい、では祝福を与える」

白い花弁のような光が三人を包む。次の瞬間、王と宰相、アーサーの髪に若葉色の艶が戻り、背筋が自然に伸びた。四十代の盛り、と見紛う若返り。

広間に驚愕の波が走る。「奇跡だ……!」「神恩だ!」重臣たちは口々に叫び、玉座の下は感謝と畏怖とで満ちた。


(……“演出”も兼ねてるわけだ。)カーヴェルは半眼になった。女神が本物であると、全員の脳裏に焼き付けるための視覚効果。やり口は鮮やか、効果は絶大――だからこそ、逆らうべきではない。


王が顔を上げた。「カーヴェルよ。ジルド大王の伝記は、書くな。」

カーヴェルは静かに頭を垂れる。「……はい。」肩を落として見せると、重臣たちの幾人かが同情の目を向け、幾人かは安堵の息を吐いた。


儀は、それで終わった。女神は光へと戻り、白い残響だけが高天井に残った。

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