女神の策略
王国
執務室の扉を叩く乾いた音が二度。
「どうぞ」と声をかけるより早く、扉はきっちりとした所作で開き、銀糸の髭を整えたアルビデール宰相が一礼して入ってきた。
「カーヴェル殿。」
「これは宰相閣下。政務の合間にいかがされました?」
宰相は珍しく頬を緩めた。「大事ではない。――いや、私的なことだ」
眉を上げるカーヴェル。「私的?」
「うむ。実はな、わが可愛い孫どもが、そなたに夢中でな。どうしても会いたいとせがむのじゃ。」
思わず吹き出しそうになり、カーヴェルは口元を手で隠した。「なるほど。それは光栄だ。では、会いに行きましょう」
「おお、二つ返事とは。明後日の休日、昼前に屋敷へ来てくれればよい。」
「承知しました。」
宰相は歳相応の落ち着きをかなぐり捨て、年甲斐もなく上機嫌で帰っていった。扉が閉まると、カーヴェルは小さく肩を竦める。「……かわいい依頼は断れないんだよな。」
◇
休日。石垣に緑の蔦が絡むアルビデール邸。広い庭園の芝には丸い影が二つ、ぱたぱたと駆けてきた。
「わぁぁ!ほんものだ!」
男の子が目を輝かせ、女の子が裾を握りしめて固まる。アンジェロッテと同じくらいの背丈、同じような好奇心の火が瞳で踊っている。
「はじめまして。」カーヴェルは膝を折り、視線を合わせた。
矢継ぎ早に飛ぶ質問。
「転移ってどんな感じ?」「魔法って何歳から?」「女神さまって甘い匂いする?」
「最後のは微妙だな。」笑って、彼は手のひらで壊れていた木馬を撫でた。木片が吸い寄せられ、すうっと繋がる。二人の口が丸くなる。
「うかぶ?」
「おう。三、二、一。」
魔力の薄い膜が子どもたちの体を優しく包む。ふわりと足が離れ、きゃあ、という声が青空へ溶けた。
空中でくるりと回転、少し高さを上げ、雲に触れそうで触れないところで止め、また降ろす。掌からは手品よろしく小鳥が飛び出し、石畳には色とりどりのシャボン玉が弾けた。
時は矢のように過ぎ、別れ際には女の子が泣きそうな声で「また来てくれる?」
「もちろん。」カーヴェルは小さな指に指切りをして、宰相夫婦の深々とした礼を受けた。アルビデールは孫の頭を撫でながら、目尻に皺を寄せたまま何度も頷いた。
◇
王都へ戻る途中、カーヴェルはふと思い立つ。――ジルド大王の伝記を書こう。女神の血を引く最初の王、その真実の履歴は、民に勇気を与える。
念話でカリスタを呼ぶ。「女神さん、ちょっと相談。」
『……嫌な予感しかしませんが、どうぞ。』
「ジルドの伝記、俺が書く。」
『駄目です。』
「はやいな。」
『母の“不始末”を世に晒すおつもり?恥の上塗りです。』
「いや、面白いぞ。ドラマとしても教育としても完璧――」
『あーそうですか。では、私にも考えがあります。ふふふ。』
「おい、今の笑いは絶対よくないやつだろ。」
◇
翌朝。秘書が蒼い顔で駆け込む。「王宮より緊急招集です! 重臣衆一同、即刻参集との御触れが――」
集められた王宮大広間。王、宰相、重臣たちがざわつく中、王が眉をひそめる。「余は呼んでおらぬぞ?」
その時、天井から澄んだ声が降った。
「――私が呼んだのです。」
真昼の陽光を濃くしたような白金の輝き。広間一杯に光の紗がたなびき、ひときわ強い輝きの中心から、女神がゆっくりと降り立った。
アーサー大主教が杖を落とし、最前列で膝をつく。「おお……女神様、降臨……ありがたや……!」
『いつも祈ってくれて、ありがとう、アーサー。』
老主教の皺だらけの目から、子どものような涙がこぼれる。
女神――アルファエルは玉座の前に進み、真っ直ぐに王を見た。
『王よ。お願いがあって参りました。――ジルド大王の伝記を、カーヴェルが書こうとしています。やめさせなさい。あれは、私の母の不祥事。世に広めるべきではありません。カーヴェルを叱り、禁じるのです。』
(やられたな。)カーヴェルは心の内だけで舌打ちした。王の口から命として下されれば、重臣たちが“証人”になる。女神の権威を借りた政治的既成事実――完全に一手先を取られた。
王は喉を鳴らし、「は、はい……」と答え、宰相も続く。「仰せのままでございます、女神様」
アルファエルは軽く頷き、掌をひらりと返した。
「宜しい、では祝福を与える」
白い花弁のような光が三人を包む。次の瞬間、王と宰相、アーサーの髪に若葉色の艶が戻り、背筋が自然に伸びた。四十代の盛り、と見紛う若返り。
広間に驚愕の波が走る。「奇跡だ……!」「神恩だ!」重臣たちは口々に叫び、玉座の下は感謝と畏怖とで満ちた。
(……“演出”も兼ねてるわけだ。)カーヴェルは半眼になった。女神が本物であると、全員の脳裏に焼き付けるための視覚効果。やり口は鮮やか、効果は絶大――だからこそ、逆らうべきではない。
王が顔を上げた。「カーヴェルよ。ジルド大王の伝記は、書くな。」
カーヴェルは静かに頭を垂れる。「……はい。」肩を落として見せると、重臣たちの幾人かが同情の目を向け、幾人かは安堵の息を吐いた。
儀は、それで終わった。女神は光へと戻り、白い残響だけが高天井に残った。




