アスラン帝国の憂鬱
アスラン帝国・金碧の謁見の間。
赤い絨毯の脇に並ぶ黄金の槍、外では冬を告げる北風が高窓を鳴らしていた。玉座の上では、痩せた指で笏をいじるばかりの男――皇帝アラリック四世が、左右に揺れる足を止められずにいる。
「――王国とヴァルディア魔族国が、和平条約を締結。」
老宰相エッケルハルトが羊皮紙を畳むと、広間にざわめきが走った。
「二正面どころか、挟み撃ちだ!」軍務卿バルメロ侯が机を叩いた。「直ちに第一・第二方面軍を北境へ、第三軍は西壁へ転進、皇都守備隊は倍増――」
「財がもたん!」出納卿トゥルガルが悲鳴を上げる。「前線補給で倉は空っぽだ。麦価は三倍、街ではパン一斤に列が出来ている。徴税を増やせば暴動だぞ!」
「暴動など帝国の恥だ、鎮圧すればよかろう!」バルメロが吐き捨てる。
「まず外交だ。」外務卿エリゼ公は冷ややかだった。「王国と女神の“使徒”とやら――カーヴェル・プリズマン。彼が交渉の中枢にいる限り、粗暴な威嚇は逆効果だ。東方同盟に働きかけ、背後を固めるのが先決だ」
「カーヴェル……」玉座下の列の中、青ざめた一人が喉を鳴らした。グローバル伯爵。かつて三万を率いて砦を攻めた指揮官だ。彼は回廊での“転送”の悪夢を何度も夢に見た。怒号、軍靴、そして誰もいない戦場。自分の命令が空に吸い込まれるように消えた、あの恥辱。
「陛下……あの男、我らが知る戦の理から外れております。転移、無血占領……刀で斬るように、我が帝国の“慢心”を断ち切った」
「黙れ、無能者!」軍務卿が斬って捨てると、グローバルは唇を噛んだ。だが誰も、彼を庇おうとはしない。敗軍の将に発言権はない――帝都の空気は、そう決めていた。
参謀総長ヴォルクが一歩前へ。白髪交じりの髭を撫で、簡潔に言う。
「情勢判断を。和平により王国西面の兵は魔族国境から解放。王国は帝国一面に集中可。加えて“女神の末裔”という民衆伝説が王権を補強、士気は高い。愚策なき限り、王国は攻めてこない。だが、こちらが狼狽えれば、彼らは“正義の防衛戦”として動く口実を得る」
「つまり、いま動けば、我らが“侵略者”になるというのか?」エリゼ公。
「左様。」ヴォルクは頷いた。「当面は防御陣を敷き、国内の動揺を収めること。皇帝陛下の権威を再確認させねばならん」
玉座では、アラリック四世がようやく口を開いた。
「で、では……軍楽隊を増やして、凱旋式の練習を……」
沈黙。宰相が目を伏せる。バルメロ侯のこめかみに浮いた血管が、笑いか怒りか分からぬ震えを見せた。
会議は割れた。
主戦派は「先に殴れ」と吠え、防衛派は「鉄壁線」を語り、外交派は「時間を稼げ」と囁く。誰も全体を束ねられない。玉座の上の男は、ただ寒がっている。
――クーデター、という言葉が、声にならない霧のように広間の天井を這った。
◇
同じ頃、帝都の裏通り“灰色街区”。
黒鷲会――帝国貴族と商人の秘密結社の集まりが、醜い油の灯を囲んでいた。鉄衛団副長セルジュ・カントールが低声で言う。
「皇帝は駄目だ。王国と魔族が手を結んだ今、愚は死を招く。“二国同時攻撃”など、才気なき者でも分かる地獄だ。軍務卿は武だけ、外務卿は柔だけ。誰も“帝国”を見ておらぬ」
黒い外套の一人が答える。「では、お前の言う“帝国”とは何だ」
「削ることだ。」セルジュは短く。
「領土ではない。戦線だ。正面を縮め、背を固め、飢えを止める。それができぬなら、頭をすげ替えるまで」
重い吐息。老伯が杯を指で弾く。
「お前は皇帝を倒す気か」
「……俺は兵だ。命令には従う。だが、明日、民がパンを求めて宮城に押し寄せるなら、守るべきは玉座か、帝都か」
答えは、誰の喉でも言葉にならなかった。だが、その沈黙こそが答えに近い。
◇
帝都の大市。
噂は炎のように走る。
「王国の王は女神の血」「カーヴェルは女神の遣い」「魔族と手を組んだのは帝国包囲の策」「いや、帝国も和平に向かう」「いやいや、皇帝は軍楽隊を増やしただけだ」
市場の女たちが籠を抱え、商人が銅貨を弾き、パン屋は肩をすくめる。「どっちでもいいから、粉を安くしてくれ」
教会前では若い司祭が声を張った。「偽りの神に騙されるな!」
隣では老司祭が首を振る。「民が飢えぬ道こそ神意だ。敵国の平和が本当なら、祝福しようではないか」
帝都の空は低い。雪の気配がする。
兵営で新兵たちは歩調を合わせながら、ひそひそと囁く。「王国には“誰も死なせない将”がいるらしい」「魔族とも話が出来るってよ」「俺たちの将は何をしてる」
答えは、靴音に消える。




