木の精霊
――
午前の訓練は“素振り”では始まらなかった。
「剣は、足で振る」レオーネは砂地に白線を引き、間合いの目安を三つ描いた。「斬りかかる前に勝負をつけます。視線で、呼吸で、足の裏で。――マリア、来て」マリア達はつかさの団長代理の就任式で王国に帰参していた。
木剣が二本、コツンと交差する。
次の瞬間、マリアの踏み込みは、すでにレオーネの“空振り”を踏んでいた。半歩ずらされ、肩の力が抜け、そのまま背中に木剣の峰が軽く触れる。
「“最短最速”ではなく、“最短最遅”を覚えましょう。相手が最大の力を出し切る直前の“遅れ”に合わせて打てば、同じ速さでも勝てます」
「最短……最遅……?」
「遅く打つのではありません。“遅く見える最短”に打つ、です」
次はサーシャ、続いてアン。三人が三様に崩され、目を丸くする。
(剣技、圧倒的)つかさは二本目の指を折った。
「統率は、声で一つ。――マリア、サーシャ、アン、クロエ、前へ。掛け声は一音。“ハ”。号令は私が出しますが、隊の重心はあなたたちが持つ。三拍子刻んで、四拍目で刺す」
彼女の声は小さい。しかし、不思議と列の呼吸が合っていく。砂を踏む靴音が一つの太鼓になり、掛け声がぴたりと重なる。波状攻撃がリボンみたいに滑らかになって、見学の女騎士たちからわっと声が上がった。
(統率、士気、同時に上げた……三つ目、四つ目)
つかさは胸の奥が熱くなるのを覚えた。
――“先生”の助言通りに選ぶと、道が勝手に出来ていく。
「午後は対多人数戦の布陣を。十人を五人×二列に分け、前列は受け、後列はずらし。盾と槍の間に剣を挟み、魔法は“溜め”の合図で出す。――ホフラン殿、合図は右手で“二”。」
「了解」
レオーネの指示は、つかさのそれよりもずっと細やかだ。それでも耳障りではない。現場で血を嗅いだことのある声――そのことを隊は肌で理解していく。
――
日が落ちて、詰所の明かりが窓に並ぶころ。
つかさは廊下の突き当たりで、壁にもたれて立っている男に気づいた。
「先生」
「先生?」カーヴェルは半眼で笑う。「まあ、いいよ。呼び方なんて」
「見てたんですね」
「うん。いい任命だった。剣、統率、事務の三つを、一人で満たしてる。判断も悪くない」
つかさは小さく息を吐いた。「肩が、軽くなりました」
「それ、ちゃんと覚えておきな。“軽くなる相手”を部下に据えるのが、上に立つ者の“才覚”だ」
「……はい」
廊下をレオーネが通る。つかさが振り向くより早く、彼女は膝を折って頭を垂れた。「カーヴェル様」
「覚えててくれたか」
「忘れません。あの雨の日、わたしの斬り筋の“遅れ”を一太刀で直されたこと。――今も、手が覚えています」
「そりゃよかった」
カーヴェルはつかさに視線を戻した。「明日、紙の山は半分になるよ。彼女は“捨てる勇気”も持ってる」
レオーネは苦笑しながら頷いた。「“報告書は全部読むな。大事な紙は勝手に向こうから光る”――あなたに教わった通りです」
「やっぱり、先生だ」
つかさが笑うと、レオーネも釣られて笑い、三人の間に、ふっと温い空気が広がった。
――
翌日。
副団長代理就任の“実戦試験”として、レオーネは自ら十人を相手取った。砂塵が舞い、木剣が歌い、踏み込むたびに背筋が涼しくなる。だが彼女は一度も声を荒げない。短い合図で、相手の“最短最遅”を奪い続ける。
最後に残ったのは、つかさだった。
「来てください、団長代理」
「うん。――行く!」
剣が触れる前、レオーネの踵が砂に一粒、音を置いた。その“一粒”に、つかさの踏み込みが半拍だけ遅れる。木剣の峰が、つかさの胸元にそっと触れた。
「負けた」
つかさは笑って両手を挙げた。「でも、楽しい」つかさは本気を出していなかった。
「隊の剣は、団長の笑顔の形になります。だから、団長代理は笑っていてください」
「うん。任せて」
見守っていた女騎士たちが、ぱちぱちと手を叩いた。
士気は、音を立てて上がっていく。
新しい十五師団が、静かに、しかし確実に走り出した。
城外訓練場。
朝の靄がまだ草の先に玉となって残るころ、つかさは一本の大木と向き合っていた。腰の刀は、カーヴェルが渡してくれた“飛ぶ斬撃”を宿す日本刀。見学に集まった女騎士三十余名と、レオーネをはじめ第十五の面々が半円に散開する。
「いきます――」
呼吸を落とし、半歩だけ左足。鞘走りと同時に、横一閃。
空気が鳴った。
斬撃は銀の帯になって延び、狙った幹だけでなく、その後ろの木々まで音もなく横一線に切り分け――遅れて、どさどさどさ、と重い音が連続して地面を震わせた。
「や、や、やっ……やばいっ!?」
つかさは慌てて鞘に収め、刀を抱きしめるみたいに胸の前で固まる。「どうしよう、こんなに倒しちゃった……!」
見学の女騎士たちは口をぱくぱく。
「い、今の一振りで何本よ……」「十……いや十五はある……!?」
レオーネは眉を上げつつも、倒木の並びを見てぽつり。「最短最遅が完璧……ですが、威力の制御が課題ですね」
と、その時。森の向こうから、翼のような風圧が一度だけ。
カーヴェルがふいと現れて、空を見上げて首を傾げた。
「なんか“森が転んだ音”がしたから来てみたけど――元気そうだね、団長代理さん」
「せ、先生っ……!」つかさは半泣きで駆け寄る。「あの、ちょっと斬ったら、ちょっとじゃなくて……!」
「うん、見た。派手にいったね」
カーヴェルは苦笑いし、倒れた幹の列に指を向け、軽く指を鳴らす。
ぱちん。
切り口が光の糸で縫い合わされるように瞬時に結び、年輪が噛み合い、葉がさわ、と元の高さへ。倒木の跡に舞っていた塵が逆再生のように枝に戻り、森は何事もなかった顔を取り戻した。
「…………」
女騎士三十人、同時に息を吸って、同時に吐いた。
「ありえない……」「今、木が……戻った……?」「神業……」
つかさは胸を押さえ、深々と頭を下げる。「すみません、森……いえ、先生!」
木の根元や幹の瘤から、小さな顔や指がいくつも覗く。木の精霊たちだ。三百年を誇る古株たちの声が、枝葉を震わせる。
「私たち、死んじゃうところだったのよ!乱暴者」
「三百年生きてきて、こんなの初めて!」
「なにしてくれたのよ、人間っ!」
「わ、わたしたち、死んでた〜!私たちがあなたに何したって言うの」
「三百年よ? 三百年、やっと根が馴染んだのに!」
「枝折りの娘、年輪泥棒、根を断つ手!」
「森の礼も知らない木殺し!」
言葉が乾いた鞭みたいに飛び、つかさの肩にぱちぱちとはぜる。唇を噛んでいた彼女の目尻に、耐えきれない熱が溜まり、こぼれた。
カーヴェルは黙って前へ出ると、掌をひと振りした。切り口が合わさり、年輪と年輪が縫われるように戻っていく。倒木はゆっくりと自立し、葉がもう一度、風にほどけた。森が息を取り戻す。
「本当にすまない。」カーヴェルは深く頭を下げる。「つかさに悪気はない。訓練の過ちだ。俺が至らなかった。——どうか、許してほしい」
精霊たちは口々の悪態を飲み込み、互いに顔を見合わせた。ところが次の瞬間、彼らの視線は一斉にカーヴェルへ吸い寄せられる。ふわ、と森に甘い気配が広がった。
「……この人、すごくいい匂いがする」
「雨あがりの土みたい」「芽吹きの蜜みたい」
「ねぇ、これは——神の匂いだわ」
小さな木の子らがちりちりと寄ってきて、裾に頬をすり寄せる。幹肌色の手が遠慮がちに指先へ触れる。さっきまでの剣幕が嘘のように、声はやわらいだ。
「あなたこそ、あなたこそ本当の神」
「倒れた私たちを復すなんて……」
つかさは袖で目を拭い、震える声を絞る。「ごめんなさい。私……森を傷つけるつもりは、なかったの」
一番古い年輪の気配をまとった精霊が、一歩前へ出た。樹皮の皺がほどけ、ため息が葉擦れになる。
「言葉も刃になる。——けれど、頭を下げる者の額は、刃ではない」
彼は周りを見回し、ゆっくり頷いた。
「——許します。」
最年長らしい、年輪の髭をたくわえた精霊が、こくりと頷いた。
「ただし、二度目は無し。刃は風を斬れ。木は数え、守れ。」
「……はい。ほんとに、ごめんなさい」つかさは目元を拭い、頭を下げる。「次からは、ここじゃ飛ばない。必ず確認してからにする」
精霊の輪が、ひとつ、ふたつ、ほぐれる。
「泣かせちゃったし……この子、根は悪くない」
「根だけに?」
「そういうの、いま要る?」
きゃらきゃらと葉擦れの笑い。
精霊たちの悪口は、いつの間にか木漏れ日の粒みたいな囁きに変わっていた。
「次は先に声をかけるのよ」「葉に触れる時は、そっと」
そしてまた、カーヴェルの周りで鼻をすんすん鳴らす。
「ほんとにいい匂い」「森があったかくなる匂い」
カーヴェルは苦笑し、掌を胸に当てて一礼した。「借り物の命を、借り物で返しただけだ。——これからは、足していこう」
森はそれに答えるように、枝先で光を振った。さっき倒れた十五本の大木が、同時にさわ、と葉を鳴らす。許す、という合図のように。
その様子を、少し離れた周りで女騎士たちがぽかんと見ていた。
レオーネが兜を抱えたまま、「……本に出てくるやつ、実在してたんだ」
マリアは十字を切り、「聖務記録に追記が必要ですね……」
サーシャは極端に小声で、「可愛い……けど、口が強い……」
ナタリーは眉間に手を当て、「つかさ、あんた精霊口撃に完敗ね」
アンは慌ててメモ帳を広げ、「怒る時のワードチョイス、学びが多い……」
クロエは剣の柄に頬を寄せ、「あの、隊長……私も少し、匂いを……」
「やめなさい」全員が同時に止め、クロエは耳まで赤くなった。
気を取り直して、つかさの稽古にカーヴェルが立ち会う、周りに多重防御壁を張り今度は木に配慮する。
「つかさ、他の森にも謝っとけよ」カーヴェルは小さく笑ってから、刀を指さす。「まずは道具の説明から。――この刀、斬撃は君の“意思”と“踏みしめた圧”で伸びる。今のは意思が“向こうまで全部”になってた」
「意思……」
「そう。だから三つ、制御の要を教える。①鞘鳴りの長さで出力を決める。音が短ければ短剣、長ければ大剣。②踏み締めは踵じゃなく母趾球。地面を“押しすぎない”。③視線は一本だけに固定。背後の幹を“見ない”」
「はいっ!」
「それと、保険」
カーヴェルは刀の鍔に小指ほどの金具をぱちりと取り付けた。「“制御の刻印”。親指でここを押すと威力が一段落ちる。二度押しで訓練用の“無害波”。暴発したら即ここ」
「助かります……!」
カーヴェルは一歩下がり、レオーネに目をやる。「隊形は?」
「安全円を三歩広げます。前列はしゃがみ、後列は両手で耳を塞ぎ視線を落とす。つかさ殿、お願いします」
「了解、――はっ!」
今度は鞘鳴りを短く、親指で刻印を軽く押す。
横一閃。
草の穂先だけがすっと揃い、向こうの幹には紙一重の白い線が一本刻まれただけだった。
「おおっ」「今度は……刃風だけ……!」
歓声が上がる。つかさはほっと笑って、刀の腹を軽く撫でた。
「じゃ、応用。飛ぶ斬撃は“線”じゃなく“点”にもできる」
カーヴェルが指で空中に小さな円を描く。「円の中心“だけ”に刃を置くイメージで、枝の“この葉一枚”」
つかさは頷き、吸って――吐く。
ぴ、と音がして、遠く高い枝の一葉だけが、蝶みたいにひらりと落ちた。
沈黙。
そして、どっと沸く。
「……勇者、やっぱり勇者」「制御も天賦かよ……」
見学の女騎士の一人が思わず拍手を始め、連鎖して手のひらの音が輪になった。
レオーネは満足げに頷く。「“見えているものだけを斬る”。これで市街でも安全に使えます」
「ありがとう、レオーネさん。先生も!」
「よろしい。――ついでにもう一個、森に優しい小技」
カーヴェルは倒木復元で散った微細な木屑を手のひらに集め、ふっと吹いた。木屑は土に溶けて、芽吹きの香りが一瞬だけ広がる。「切ったら植える。折ったら戻す。強い者の礼儀だよ」
女騎士たちが一斉に背筋を伸ばす。「はっ!」
カーヴェルはつかさの肩を軽く叩いた。「今日の“暴れん坊”はこれで良し。午後は距離感。飛ぶ斬撃に頼らず、足で勝つ訓練ね」
「はい、団長代理として、ちゃんと“足”で勝ちます」
つかさが笑うと、森の向こうで風が一段明るく鳴った。
さっきまで倒れていた木々は、何事もなかったように葉を揺らし、訓練場に集まった三十人余の心臓も、同じリズムで軽く揺れていた。




