家族と団欒
翌朝。目を覚ますと同時に転移の光が包む。次の瞬間、冷たい海風と潮の匂いが頬を撫でた。断崖の縁、どこまでも広がる鉛色の海。その上空には、分厚い雲が天蓋のように垂れ込め、世界ごと日陰にしている。
「ここは――?」
「俺が寝ずに三日働いた場所だ」
カーヴェルが指を鳴らした。ぱしん、と乾いた音。
雲が裂け、陽が滝のように降り注ぐ。影がほどけ、空が青を取り戻した瞬間――ロゼリアもフェリカも、言葉を失う。
海の上に、浮いている。
稜線は地平を呑み、見渡す限りの緑と岩肌がゆるやかに連なっていた。全長五百キロ。厚み四キロ。雲より低く、雲より高い巨大な“陸”。光が斜面を走るたび、森の群青と湖の硝子がきらりと返す。風が大陸の腹をくぐるのか、低い唸りが胸に響いた。
「……すご……」「言葉が、出ません……」
「女神様と一緒に造った、そして、目立つからな、通常は 雲で隠している。」(女神は嘘で本当は本人だけ)
二人が顔を向ける間もなく、彼はもう一度指を鳴らした。海面から白い巨体が姿を現す。三百メートル級のフェリー。甲板は幾筋もの通路で区切られ、艙口の上には大きな“START”のルーンが静かに脈動している。
「一度に三千人まで運べる。ここから沖合の無人島の港へ自動で往復する。丘を登ると神殿があって、そこにワープゲートがある。ゲートを抜けると――上だ」
「上……って、あの“空の陸”へ?」
「そう」
三人はフェリーの甲板に降り、船は音もなく滑るように走り出した。波が割れ、細かい飛沫が虹をこぼす。無人島の港に着くと、淡い光の柱が起動し、彼らを丘上へと導く。神殿は白い石で組まれ、静謐な空気に満ちていた。中央の門に、鏡のような靄が張っている。
「手を」
カーヴェルが二人の手を握る。三歩、靄をくぐる。
世界が、上向きに反転した。
足裏にはすぐ石の感触。だが肺に入る空気も、耳に触る風も、確かに“上”のものだった。出た先も神殿。そして扉をくぐると――女神の銅像が、柔らかい光の中で微笑んでいる。裾元の台座には透明な台。そこに、淡く金色に揺れる珠が一つ置かれていた。
「わぁ……」「眩しい……」
「それは、俺の“体液”だ」
ぴたり、と空気が止まる。
ロゼリアの頬が、フェリカの耳までが一気に紅潮した。「た、体液って、その……」「ま、まさか、その……」
「まあ、想像した通りだ。俺の体は エリクサー、その体液はエリクサーの原液だ、薄く使えば治療を完治させる効果がある。触れれば、傷は一瞬で消える。腕のない者、見えない目、聞こえない耳、毒によるもの、それぞれの病気など――全部、治る。女神の“祝福”と、俺の“しるし”の合わせ技だ」
二人は顔を見合わせ、そして素直に感嘆の息をもらした。「旦那様……すごすぎます」「本当に……こんなことが」
神殿を出ると、空中大陸の大地は、普通の“地上”よりもどこか瑞々しかった。丈の低い草に露が光り、遠くで水の落ちる音がする。湖面は鏡のようで、空の青さを倍にして返し、群生した果樹が甘やかに揺れている。鳥影が幾筋も横切り、――生きている。
「本当の土地みたい……いえ、本当の土地なんですね」
「反重力の“柱”で浮かせ、重力固定で座標を錨打ちしてる。補助機動で微調整。――説明しても、多分、退屈だ」
そう言いつつ、カーヴェルは大陸の“心臓”へ案内した。神殿の裏手、岩山の中腹に埋め込まれた環の機構。金属とも石ともつかない素材が幾重にも重なり、淡い紫の紋が脈動する。耳を澄ますと、規則正しい低音が心臓の鼓動のように響いている。
「これが反重力システム。“上へ押し続ける”力は暴れるから、外側に重力固定の“鎖”を巻いた。三系統冗長。片方が止まっても残りが支える。外周には幻惑膜と気象制御。見つけられにくいし、嵐も受け流せる」
ロゼリアは目を丸くし、フェリカはただただ頷いた。「……旦那様、なんでもできちゃうんですね」「ねえ、私たち、こんな人と夫婦なんですね……」
カーヴェルは肩をすくめる。「でも、これは最終手段だ。村が危ない時だけ使う。二人には開門の鍵を渡す。これがあれば、神殿のゲートを開けられる。フェリーは自動で往復するから、子どもと年寄りから先に。セリーヌとアリエルは迎撃、ジーンは上の空域警備。……手順は今夜、紙にも残す」
「はい」「必ず守ります」
帰りがけ、銅像の前で三人はしばらく立ち尽くした。女神の視線はどこか遠くを見ていて、でも確かに、ここを選んだ人たちを祝福しているようだった。
「――行こう。約束の“釣り”も、今度こそな」
フェリカが笑い、ロゼリアが目を細める。「アンジェロッテちゃん、喜びますね」「ふふ。『パパ、お魚つかまえた?』って」
転移の光がまた静かに包む。
次の瞬間は、いつもの村の空気。畑の匂い、子どもたちの笑い声、遠くから聞こえる鍋の音。二人は同時にふうっと息を吐き、互いの手を握った。
「――旦那様」
「ん?」
「もしもの時は、私たちが最初の壁になります。あなたが戻る場所を、絶対に守る」
「ええ。守りきってみせます」
カーヴェルは二人の額に軽く口づけした。「頼もしい。“最強の守り手”に任命だ」
空は高く、風はやわらかい。
だが、その奥では、確かに何かが動いている。帝国の鈍い足音。魔族の新たな策。だからこそ――準備は、今。
カーヴェルは家の方角を見やり、ふっと笑った。
村の朝。川面はガラスみたいに静かで、山の影がゆらゆら揺れていた。
カーヴェルは竹竿を肩に、アンジェロッテ、アリエル、ジーンの三人と並んで川縁まで降りる。川風が気持ちよくて、アンジェロッテの三つ編みがぴょん、と跳ねた。
「パパ、ここ、昨日セリーヌと歩いたときに魚、いっぱい見えたの」
「ほう、名人の案内だな。じゃあ先生、よろしく」
子ども用に短く仕立てた竿をアンジェロッテに渡すと、彼女は器用に餌を付け、流れの筋を指先で確かめる。「ここ、早い水と遅い水の境目。餌をここに流すとね……ほら」
浮きが一拍潜る。
「いまだ!」
ぐい、と小さな腕がしなる。銀の稲妻みたいに、ヤマメが水面から跳ねた。
「パパ、また釣れたよ!」
「うん、十点満点」
横でジーンも負けていない。少年の細い身体がびくっと竿の重みに引かれ、すばやくいなして一丁上がり。「イェーイ、俺も! これで十匹目だ!」
一方アリエルは……川面を睨みつけていた。耳がぴん、と立ち、尻尾がむすっと丸くなる。
「全然釣れないんだけど。どうして」
「どうしてだろうな? 二人が上手すぎるのかも」
「わたしの晩ごはんが釣れない。腹立つ」
アリエルの“狼の気配”が強すぎて魚が散っている、とカーヴェルは悟る。が、言う前にアンジェロッテがつつつ、とアリエルの横に寄った。
「アリエルお姉ちゃん、こうやるの。息、止めて。足はぜんぜん動かさないで、浮きを見ないで糸の“重さ”だけ見るの。で、トンって軽くなる瞬間が、食べてる合図」
「糸の重さ……?」
「うん。胸のここで感じるんだよ」
アリエルは目を閉じ、教えられた通りに息を止める。耳がわずかに伏せ、尻尾がぴたりと止まった……瞬間、指が反射で動いた。
「――っ!」
弧を描いて飛ぶ銀鱗。
「釣れたぁぁぁ!」
尻尾がぶんぶん振れて、アンジェロッテも一緒にぴょんぴょん跳ねる。
「先生、天才じゃないか」
「えへへ」
「俺にも勝てない勝負があったとは……これは悔しい」カーヴェルは肩を落とし、三人に盛大にからかわれた。
昼までに竹籠はあふれ、ジーンは「これ全部焼こうぜ!」と歓声。帰り道、カーヴェルは魔法で魚に薄い氷膜をまとわせて鮮度を保つ。村に戻ると、炭が起こされ、香ばしい匂いで広場が満ちた。アリエルは「初めて自分で釣ったごはん……」と目を細め、アンジェロッテは頬をいっぱいにして「おいしい!」。カーヴェルは負け惜しみを言いかけて、笑って黙った。




