700年の風
発令の儀を終えた廊下で、カーヴェルが待っていた。
「おめでとう。…いや、ご愁傷様、かな?」
ミーシャが笑う。「どちらも、ですね」
「これは君ら用」カーヴェルは掌をひらく。
薄い指輪が二つ。内側に、見えない文字が走っている。
「“帰還環”。王都と領事館、双方に座標を刻んでおいた。非常時は強く念じるだけでいい。
――それと、合言葉を決めよう」
「合言葉?」ジェシカが首をかしげる。
「俺が偽者か本物か、向こうでわからなくなることがある。たとえば…“女神は笑うか?”と誰かに問われたら、“笑うに決まってる、特に食後に”って返せ」
ミーシャが吹き出しそうになって、唇を引き結ぶ。「了解」
小さな包みがさらに渡された。
封蝋には、女神の紋。
「護符。…友人からの、差し入れだ」
(昨夜、念話で頼まれて)と、カリスタが目だけで答える。
ジェシカは包みを胸に押し当て、静かに頷いた。
そして、ごく短い沈黙。
「無茶はしないで」とジェシカ。
「そっちこそ」とカーヴェル。視線が合い、すぐ外れた。ミーシャはそれを横目に、息を整える。(任務が先。任務が先だ)
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人事は瞬く間に王都を駆けた。
「女騎士が大使だと?」「あの剣聖が魔族の心臓へ赴く――胸が熱いな」
商人は帳簿に新しい勘定科目“ヴァル交易”を書き足し、古参貴族は眉をひそめる。
「軍人の外交は刃の匂いが強すぎる」
宰相は即座に返した。「匂いに釣られる連中を相手にするのです。香水では足りない」
十五師団では、新たな布陣が敷かれる。
副官らが輪番で国都の防衛指揮を取り、ミーシャは“在外の将”。ジェシカは“領事館の剣”。
兵舎の壁に、隊旗の複製が一枚、空白の場所に掛けられた。帰る場所の証だ。
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一方、黒曜の宮都ノス=ラグナ。
報せを受けたマファリーは、指先で杯の縁をなぞった。
「ミーシャ・ヴァレンタイン――剣聖にして団長。面白い。言葉だけで押してくる相手じゃない」
サリエスは窓辺に身を乗り出し、遠い王都の方向を見た。
「また会えるのね、カーヴェル様」
姉は短く言う。「任務を忘れるな」
それでも、妹の耳の奥には、あの甘い匂いと低い声が、どうしても残る。
魔王は玉座で静かに頷いた。
「よかろう。寛容区に館を与えよ。旗の色は見せ合え――牙は見せるな」
“見せ合え”“見せるな”。相反する二語は、外交の呼吸そのものだ。
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出立の朝。
王都の門前、白い外套を翻して、ミーシャは踵を鳴らす。
「十五師団長にして、ヴァルディア常駐特命全権大使、ミーシャ・ヴァレンタイン、出る!」
ジェシカが続く。「副大使、ジェシカ・スティール、出る!」
女騎士たちが、詩の一節のように名乗り、最後尾にホフランがちいさく手を振った。
「……あ、あの、私も、出ます!」
見送りの群衆のなか、カーヴェルは指先だけを上げる。
(行ってこい。道はつないだ。――あとは、君らの足で踏み固めろ)
門が開く。
新しい旗が風を掴んだ。
それは、七百年の風の向きを、またひとつ変える合図だった。




