それぞれの思惑
場に居た誰もが理解した。
この瞬間こそが、700年続いた戦争の終焉の第一歩。
だが同時に――カーヴェルという存在が、王国と魔族の両方にとって「必要不可欠であり、同時に最も恐ろしい存在」になったことも。
石畳の大広場。王都の中心に、風も鳥も止まって聴くような静けさが落ちた。
空に組み上げられた魔法拡声器は、蜂蜜色の光を透かしながら、ひとつの声に世界を明け渡す。
「民の者たちよ。我が名は――カーヴェル・プリズマンである。」
低く、よく通る。喉の奥に火種を抱いたような、温い声だった。
「耳にしたとおり、我らは魔族国ヴァルディアと和平を結んだ。人と魔族が手を取り合う時代となり我々の未来が訪れたのである――だが、これは私の手柄ではない。交渉人に私を指名し、その一切を背負う決断を下したのは国王陛下だ。
七百年の悪夢を断ち切ったのは、陛下の英断である。名君の証明だ。」
ざわ、という波が起き、やがて潮のように広がっていく。帽子を掲げる職人、涙ぐむ老女、子を抱き上げる父。祝福のざわめきが胸の高さで揺れていた。
「ただし――帝国はまだこちらを睨んでいる。
だが心配するな。和平により、我らは兵を一枚岩にして帝国正面へ向けられる。
天秤は、もはや我らに傾いた。
陛下に感謝を。最善の平和を、よくぞ掴み取られた。」
最後の言葉が落ち、ひと呼吸。
次の瞬間、雷鳴のような歓声が王都を走った。鐘が鳴る。露店の主人が樽を叩いて酒を振る舞い、楽師はやにわに笛を取り出す。子どもが笑い、兵士が兜の顎紐を外して空を仰ぐ。
だが、その歓喜の底には――「戦わずに済む」という安堵と、「次は帝国だ」という静かな覚悟が、同時に沈んでいた。
宮廷
玉座の間。
王ハインリヒ・ブルーターノは、ゆっくりと背凭れに体を預け、片手で眉間を押さえた。
「……余の名を、あれほどまでに前へ出すとはな。あの男、策に長けすぎておるわ」
宰相アルビデール・クラウスは、苦笑を一筋。
「陛下の御威光を世に刻み、同時に自らへの恐怖や羨望を逸らす。あの演説は、政治でもあり、軍略でもあります。敵も味方も、目線を陛下へ――そして王都へと戻させた」
礼服の肩章が重い重臣たちは、三つに割れた。
一つは拍手喝采。和平で商路は開け、歳入は増える。商務卿や港湾派の貴族らは頷きを交わす。
一つは沈黙。戦で利を得てきた古参の軍務派、辺境伯の幾人かは指先を膝に食い込ませ、「過ぎたるは毒」と心中で呟く。
一つは臆病。女神の血統の噂が現実味を帯びるほど、彼らは宗廟の階段に祈祷の列を作った。
王は小さく笑って立ち上がる。
「いずれにせよ――和平は成った。残るは帝国。
カーヴェルは“矛”にも“盾”にもなる。だが、矛を持つ手は余だ。これは忘れぬ」
宰相は深く頭を垂れ、すでに次の段取りを口にした。
「魔族との領事館設置、関税の暫定協定、交易路の安全保障――それと、帝国の鷹派が動いた場合の内偵を。陛下、あの演説に続けて政で仕上げましょう」
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国内のさざめき
市場は祭り、教会は満堂、鍛冶場は火を絶やさず槌音を刻む。
冒険者ギルドでは「魔族領の酒が甘いらしい」「向こうの香辛料は鼻が溶ける」とさっそく噂が噂を産んだ。
酒場の壁には書きなぐりの歌詞が貼られる――“七百年目の朝に、王は風を変えた”。
十五師団の兵舎では、女騎士たちが円陣を組んで歓声を上げる。
ミーシャは笑ってそれを見守り、ジェシカは剣の手入れを止めて空を見た。
(終わったのは一つの戦い。これからが、本当の守りだ)
胸の鼓動は、なぜか彼の歩幅に合わせて落ち着いていく。
一方、辺境の農村では別の現実感があった。
「よかったなあ……」と笑い合う隣で、古い槍を手放せない男がいる。
和平の知らせは甘い。だが畑の土は、いつでも戦の足音を吸い込むことを知っている。
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ヴァルディア魔族国
黒曜石の広間。魔王の玉座の前に、三つの影。
報告を終えたマファリーは、やがて膝をつく。サリエスは胸の前で手を組み、まだ微かに頬を火照らせている。
魔王は長い爪を一度、玉座の肘掛に打ち鳴らした。乾いた音が、広間の端にまで届く。
「和平は受理する。――それが我らの呼吸を整える。
だが、覚えておけ。呼吸を整えるとは、次の一撃のためだ」
参列した貴族らはざわめいた。
交易を望む温和派は肩を撫で下ろし、軍を肥やしてきた鷹派は舌打ちを飲み込む。
「人間と手を結ぶとは軟弱」と叫びたい口を、魔王の黄金の眼差しが封じた。
カザンは――鎖。
「首を刎ねるべき」と叫ぶ声もあったが、魔王は静かに首を振った。
「愚昧は罪、だが駒は使える。檻に入れておけ。必要な時だけ出す」
その言葉に、マファリーは胸の内で息を吐く。和平の座に刃を走らせた罪は消えない。だが、血の匂いで交渉が潰える最悪だけは避けられた。
街では、異国の砂糖菓子の噂が人の舌を軽くし、酒場では“王都の楽師が奏でる弦の音は、涙が出るほど甘い”と語られた。
そして、サリエスは姉の袖を引きながら、小声で囁く。
「ねぇ、姉さん……今度、あの人が来たら――」
「やめておけ」マファリーは即答した。
「知略で勝てない相手に、心で挑むのがいちばん危険だ」
それでも、妹の青い瞳に映る男の影は、容易に薄れなかった。
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演説の余波――それぞれの胸の内
商人たち:倉庫番が目録を持って走り回る。塩、香辛料、絹、鉄材。新しい路は新しい富だ。
神殿:司祭が説教台で告げる。「女神の御手は、争いではなく結びにある」。王家の血筋の噂は、信仰に形を与え、形は忠誠へ変わる。
軍部:若い将校は地図の前で線を引き直す。帝国戦線への兵站、橋梁の補強、野戦病院の再配置――和平が、戦を楽にする。
旧来の貴族:戦功で得た領地が揺らぐかもしれない。彼らは笑って盃を重ね、同時に密やかな会合の予定を交わした。
市井:母は糠床を混ぜながら、子の額に口づける。「戦は遠くなるよ」。父は庭で古い槍を油で拭い、「それでも、家は守る」と呟く。
十五師団:ミーシャは調印の写しを額装し、兵舎の廊下に掛けた。ジェシカはそれを見上げ、指先で縁を撫でる。(あなたが繋いだ約束、私たちが守り切る)
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幕間:王の独白、宰相の覚書
夜。王は窓辺に立ち、灯火に染まる王都を見下ろした。
(余は、女神の末裔か。ならば――血に相応しい治世を)
彼は杯の葡萄酒を、そっと皿に落とす。葡萄色の輪が広がり、やがて静かに止まった。
宰相は書斎で羽根ペンを走らせる。
――「和平は仕上げではなく、序曲。
帝国の鷹は騒ぐ。内の狐は囁く。
我らは王都に“物語”を絶やしてはならぬ。
英雄は王を讃え、王は民を抱き、民は英雄を信じる。
この三角が崩れたとき、刃は内からやって来る。」
彼は一度だけため息をつき、書付を封蝋で閉じた。宛名は、王。
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拍手と静寂のあいだで
演説を終えたカーヴェルは、喧噪の縁を歩くようにして広場を離れた。
視界の端で、焼き菓子を頬張る子が笑う。
(――約束だ。笑顔の続く場所を、守る)
彼は空を一度見上げ、肩の力を抜いた。
帝国が牙を剥くのは、そう遠くない。
だが、今この瞬間だけは――鐘の音と、安堵の吐息に身を委ねることを、自分に許した。
玉座の脇の執務室。夜半、油灯の炎が、王ハインリヒと宰相アルビデールの顔に長い影をつくっていた。
机の上には候補者名が並ぶ羊皮紙。二人は数度、無言で見直し、やっと口を開く。
「――“胆力、知性、武と魔、交渉眼”。欲張りな条件だな、アルビデール」
「妥協すれば、領事館が最初の標的になります。妥協はすなわち血の香りです、陛下」
まずは落とす。
外務卿ルーファス――話術は達者だが、牙の見える相手の前では指が震える。
老将ガロアン――剛軍の誉れ、だが語彙が槍と同じくらい直線的すぎる。
第三師団長ログル――論外、と宰相は一言で切った。
「では、残るは――」
「十五師団だ」と王。
ミーシャ・ヴァレンタイン。女
騎士団の長、剣聖、冷静で、兵たちの心を束ねる。女神の祝福だのと噂に浮かれてはいたが、命令一下、すぐに面を正せる柔と剛。
ジェシカ・スティール。砦を守り切った才と胆。副でありながら、場が荒れれば自然と矢面に立つ性質。眼に炎、刃に理。
そして――カーヴェル・プリズマン。
「客将は常駐させぬ。あれは“動く抑止力”のままでよい」と王は明言した。「城に繋げば、虎の牙を抜くに等しい」
静寂。宰相が羽根ペンを置く。
「腹は決まりましたな、陛下」
「うむ」
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翌朝、謁見の間。
整列した女騎士たちの前で、王は宣言する。
「十五師団長ミーシャ・ヴァレンタインを、ヴァルディア魔族国・常駐特命全権大使に任ずる。
副大使兼首席武官に、副団長ジェシカ・スティール。
書記官はカリスタ・エルネスト。警護は六名――マリア、サーシャ、アン、クロエ、ナーリア、…そしてもう一人、任はお前に、ホフラン」
「えっ、私ですか?」ホフランが目を瞬かせると、王は頷いた。
「道を拓き、空気を読む魔を視る者が必要だ。文武のそばに“目”を置く」
ざわめきが走る前に、ミーシャが一歩進み出て、片膝をついた。
「謹んで拝命いたします。女神の名に恥じぬ橋を、我らの手で」
胸の鼓動が、あの日の祝福のキスを思い出す。――ミーシャは一瞬だけ頬を紅くし、すぐ消した。
ジェシカも続く。
「拝命、光栄に存じます。…必ずや、我が国の顔を守り抜きます」
喉の奥が熱い。彼の横顔が過ったが、握りしめた拳に力を込める。任は恋より重い、今はそう言い聞かせる。
宰相は、封緘された親書と王璽を二人へ手渡した。
「信任状、条約写し、相互不可侵の確認書。それと――」
銀細工の小さな箱。蓋を開けると、白金の襟章が二つ。王家の紋と、女神の紋が絡み合う。
「大使と副大使だけが付ける印です。向こうの宮廷礼法にも通る意匠にしてあります」
列の端で、サーシャが歓声をこらえている。マリアは目を輝かせ、アンは大剣の柄にそっと触れた。クロエは槍を背にして姿勢を正し、ナーリアは弦を確かめるように胸の鼓動を撫でた。カリスタは、微笑だけで深く一礼する。(――了解しました、マルス様)




