和平への道とジルド大王
厚い緞帳が音を吸い、外の喧騒は遠い。王宮の奥、応接室には三人だけ――王ハインリヒ・ブルーターノ、宰相アルビデール・クラウス、そしてカーヴェル。重臣も近侍も下がらせ、戸口の両脇には寡黙な近衛が二名。扉が閉じられた瞬間、室内の空気はわずかに重くなった。
「さて――」カーヴェルは礼をしてから、テーブル中央に筒状の革を置いた。「本日は三つ、お耳に入れたいことがございます」
王は頷き、宰相は眼鏡を押し上げる。カーヴェルが革を解けば、羊皮紙の地図が滑るように広がった。王国、アスラン帝国、そしてヴァルディア魔族国。海は淡い青で塗られ、余白は細かな標高線で埋まっている。
「ひとつ目」カーヴェルは人差し指で王都の印を軽く叩いた。「本日、魔族側から私に接触がありました。姿を偽り、冒険者ギルドで会談を持ちかけてきた。結論から言えば、彼らは対話の糸口を探しています」
王の眉がわずかに上がる。宰相の指先がテーブルを一度、静かに叩いた。「やはり、来ましたか」
「陛下も宰相閣下も、薄々お気づきでしょう。魔族には、軍を“数”では動かさない嗅覚のある者がいます。だからこそ、私に密かに触れ、相手の“枠”を計る。――ですが私は“公式に”と押し返しました。公の場で、中立地で、文を交わしてから。それが彼らの返答を引き出す鍵にもなりましょう」
王は肘掛に指を組み、「七百年だぞ」と低く言う。「余も若くはない。剣で刻まれてきた歳月が、一朝にして塗り替わるとは思えぬ」
カーヴェルはそこで二つ目の話に移るように、地図の右辺、海の余白にさらさらと炭筆を走らせた。何もない青に、細い海流線と点線の航路、そして新たな国境を示す破線。「二つ目――和平の現実性です」
「見ての通り、ヴァルディアの周囲は敵だらけです」カーヴェルは三方向に矢印を描く。「西に帝国、南西に我が王国。そして、東の海を五百キロ越えた先に“蛮族の国”がある。海の資源と航路を巡って、彼らと魔族は領海を削り合っている。内政も疲弊しているという噂もある。つまり――魔族は“背”でも消耗している」
宰相が前のめりになる。「背後が痛い、ゆえに南西で消耗戦をさせ、機を窺う。帝国と我らをぶつけ、焦土を拾う算段……先の魔獣騒ぎも、その延長」
「まさしく」カーヴェルは頷いた。「だからこそ、和平の入口は開く。彼らにとって“東”を捌くには“南西”の火を弱めたい。ここで我々が、帝国と無用な消耗を避け対魔族限定の停戦を中立地で結ぶ。監視は双方、違反時の制裁文言も盛る。ザルでは駄目だが、網はかけられる」
王は地図を見つめ、しばし沈黙した。七百年という数字が、彼の肩に積もった年月の重さを浮かび上がらせる。やがて、ふっと小さく笑った。「……そなたは時折、年寄りの凝りを撫で解すようなことを言うな」
カーヴェルも口角だけで笑い返す。「凝りは早めにほぐすに限ります。――さて、三つ目。これが本日の胆です」
宰相が姿勢を正す。王の視線がまっすぐに刺さる。カーヴェルは地図から手を離し、言葉を一拍、置いた。
「陛下。開祖ジルド大王は、“現在の女神アルファエルの母君”が産まれ落とした御子にございます」
「……なにっ」王が椅子の肘掛を握る。木が軋む。宰相は息を呑み、眼鏡の奥で瞳を広げた。
カーヴェルは静かに続けた。「女神の母君は人の男を深く愛し、御子を宿された。しかし神々の掟ゆえ、そのまま育てることは叶わず、身を隠し、修道院に託した。御子は“人”として育ち、やがて才を開き、荒廃を纏うこの地を束ね、帝国と魔族を祓い、礎を築かれた。それがジルド大王」
王の喉がひくりと動く。「……だから、代々の王に“名君”が多いと?」
「血は、水のように薄まるが、波動は残る」カーヴェルは王の胸許を見た。「陛下の身からは、柔らかな女神の波が絶えず漏れています。おそらく、王家の祈りと統治が響き合い、血脈に“調律”されてきたのでしょう」
宰相は震える息を整え、低く問う。「その裏書は……どこに」
「神殿の古い奥蔵。大洪水の前、修道院が焼ける直前に移された文がある。直接にはお見せできません。ですが――」カーヴェルは苦笑する。「以前、女神に“余計なことを言うな”と叱られました。宰相殿は、その現場をご覧でしたね」
アルビデールは思わず頬を引きつらせる。「拝見しましたとも。あれは……本物でした」
王は宰相を見た。「お前が“使徒”だと報告した時、余は半信半疑であったが……今は違う。女神は本当に見ておられるのだな」
「ゆえにお願いがございます」カーヴェルは深く頭を垂れた。「この話は口外無用。陛下と宰相閣下のみ、胸にしまってください。私、また女神様に叱られます」
室内に、短い笑いが生まれる。緊張の糸が一筋だけ和らいだ。王はゆっくり立ち上がり、テーブル越しに手を差し出す。「よい。余と宰相、この場の三人の胸に封じよう。ジルドの血は、誇りであり、責務でもあるからな」
アルビデールも立ち上がり、右手を胸に。「王家の誉れは王家の内に。私の舌も、ここで縫い止めましょう」
カーヴェルは二人を見渡し、最後に地図へ視線を戻した。「では実務に。ヴァルディアへは“中立の丘”を提案します。見晴らしがよく、退路が双方に見える場所。護衛は各二、攻性魔法は封じ、観測陣のみ。違反時は即時破談。文案はこちらで起草しますが、王璽の重みが必要です」
「用意しよう」王は即答した。「七百年の氷を割る一打には、覚悟が要る。だが割れる目があるなら、叩くのが王の務めだ」
宰相が素早く小冊子を取り出し、メモを走らせる。「外交儀礼は“主客対等”に。王都にも同趣旨の噂を流し続けます。“女神の末裔の王と、その使いが民を導く”。民心はすでにそなたに寄っている。王威と軋ませず、合奏に仕立てるのが私の役目ですな」
「頼もしい」カーヴェルは微笑み、巻物を丁寧に巻き直した。「帝国筋にも耳を置いてください。彼らの猛将は動きが早い。魔族との停戦の動きが漏れれば、北から圧をかけてくるやもしれません」
王は大きく息を吸い、静かに吐き出す。瞳に迷いはない。「カーヴェルよ。余はお前を疑った。三万の兵を、血を流さず消したと聞いた時も、魔獣を圧した時も。だが今、ようやくわかった。そなたは余の外にある剣ではない。余の内へ向けられた光だ」
カーヴェルは軽く肩をすくめる。「光だなんて。――時にまぶしくて、陛下のご睡眠の邪魔になるやもしれませんが」
王と宰相に、薄い笑いが戻る。短い冗談が、三人の距離をまた少し詰めた。
「では、動きます」カーヴェルは最後に深々と礼をした。「文案は今宵中に。明朝には使者を立て、三日後を目安に中立地へ。――ああ、それと」
「なんだ」
「女神様、機嫌は悪くありませんでしたが……“もう叱らせるな”と。次は私より、宰相殿がお叱りを受けるやもしれませんよ」
アルビデールは肩を竦め、「その日が来ぬよう舌を慎みましょう」と苦笑した。
王は笑いながらも、真顔でうなずく。「余もまた、恥じぬ王たりたい。ジルドの名にかけて」
扉が開き、静かな外気が流れ込む。三人だけの密談は終わった。だが地図の上では、七百年の線が、薄く、確かに別の色を帯び始めていた。




