完敗
「パパ、こわくなかった?」
「全然。アンジェロッテが見てるからな、かっこつけた」
「ふふん、やっぱり!」
ロゼリアとフェリカは、同時にため息をついた。
「……旦那様、さすがでした」
「でもあの女、軽口の裏で目の動きが鋭かった。油断は禁物よ」
アリエルは鼻先をひくつかせる。
「匂いの層が違いました。森の夜の匂い……血と灰の記憶が混ざってた」
ジーンが椅子を回して座り直す。
「ボク、尾っぽがあったら逆立ってたと思う」
カーヴェルは皆を見渡し、短く頷いた。
「今日のところは、あの二人の“退き際”を評価しておく。——ただし次は、こちらの段取りで会う。宰相に一報を入れ、王都門で“文”を確かめてから行く。護持は俺の結界、同行は不可。何かあれば、すぐ戻る」
フェリカが手を挙げる。「戻る合図は?」
「空が一瞬だけ白くなる。……冗談だ。印を残す。ロゼリア、君は門の外で待機、アリエルとジーンは空警戒。アンジェロッテは——」
「パパの部屋でお絵描きしてる!」
「そう、それが一番強い」
ロゼリアとフェリカが顔を見合わせ、ふっと笑った。
「——ほんと、この人に惚れてよかった」
「ええ。頭で勝てない相手って、清々しいもの」
カウンターの向こうで、ミールが安堵の息をつく。
「……ギルド、壊れなくてよかったニャ……」
カーヴェルは小さく肩を回し、皆に向き直った。
「さ、散歩の続きだ。甘口をもう一本。あと、アンジェロッテには蜂蜜の焼き菓子——」
「やったぁ!」
陽の光がまた石畳にこぼれ、さっきよりほんの少し眩しく見えた。
嵐は、来る。だが、その前に守るべき時間がある。
カーヴェルは、子どもの手を握り直し、扉を押して外へ出た。
薄闇の路地を抜けた安宿の一室。窓を開ければ王都のざわめきが糸のように細く聞こえ、閉じれば二人の鼓動だけがやけに大きくなった。
サリエスは壁にもたれて膝を抱え、マファリーは鏡台の前で擬態の魔法を解く。白い肌がするりと剥がれ、青い肌と青の瞳が戻った瞬間、張りつめていた空気がほうっと弛む。
「……負けたわね、姉さん」
「交渉の“型”で、完敗だ」
マファリーは淡々と答え、指先でこめかみを押さえる。声は冷静だが、瞳の底で悔しさが揺れた。
「擬態、見抜かれた瞬間、背中に冷たい汗が走った。色仕掛けも、笑って受け流された。しかも“公式に文を交わせ。単独で魔族領に行ってやる”だなんて……どれだけ肝が据わってるの」
サリエスは自嘲気味に笑ってから、唇を噛む。「ああいうの、初めて見た」
「“場”を奪われたのよ」マファリーは椅子に腰を下ろし、指を組む。「私たちは私的な誘いで主導権を取るつもりだった。なのに、彼は一言で公の舞台に引きずり上げた。“門を使え。宰相に文を出せ”。こちらは追う側から待つ側へ。交渉の枠組みを決めた方が勝ち——教科書通りね」
サリエスは目を伏せ、長い睫毛の影を落とす。
「……それに、匂い。近づくほど、甘いの。蜂蜜みたいで、でも鼻に残らない。胸の奥の方を撫でられるみたいで、頭がぼんやりする。私、男の匂いなんて嫌いだったはずなのに——」
「やめなさい」マファリーの声が少し強くなる。「敵に心を渡すな。匂いに惑わされるなんて論外」
言い切ってから、彼女は小さく息を吐いた。「……気持ちは、わかるけどね。あれは香水じゃない。魔素の質が異常に高いの。甘いのは“力”の純度よ。近づく生き物の本能に触れる。兵でも、女でも、たやすく骨抜きにされる。そういう危険な“匂い”」
サリエスが顔を上げる。「姉さんでも、感じた?」
マファリーは目を逸らさない。「ええ。だからこそ距離を測った。あの男の周囲では、理屈が半歩遅れる。だから私が前に出て“枠”を取り戻すはずだった。……なのに、先に盤上を裏返されたわ」
「でも、すごいよね。三万人を転送したの、本当だって確信した」
「だからこそ“数”では攻められないとさっき言ったばかりでしょ」
マファリーは苛立ちを抑え、卓上の地図を広げる。王都から魔族領都へ伸びる街道、その両側に連なる砦の印。
「問題は次よ。公式な外交に持ち込むしかない。こちらから“黒曜印章”で文を出す。場所は……」
「“影廊”の封界にする?」サリエスが身を乗り出す。「転移封じの陣を三重に張って、扉も二重、観測塔を四隅に——」
「却下。籠もるほど、彼は来ないわ。逃げ道を塞ぐ場を嫌うタイプ。今日の彼、子どもの手を握って“家族の時間を奪うな”と言った。ああいう男は、民の目の前で暴れないし、開けた場を選ぶ。見晴らしの良い中立地——古戦場の丘か、乾いた広場。空が見える所よ」
サリエスは唇を尖らせる。「警戒ばっかり。単独で来るって言ったんだよ? なら“捕える”機会じゃない?」
「“殺すな”の勅命を、忘れたの?」マファリーの声が低くなる。「拉致も同じ。失敗した瞬間、政が崩れる。彼が本気で首都に門を開ける可能性を、一度でも想像したのなら——軽挙はできない。陛下だって“守り”に兵を戻した。それほどの相手なの」
沈黙。窓の外で、遠く鐘が鳴る。
サリエスは膝を抱えなおし、ぽつりと言った。
「……ねえ、姉さん。笑わないで聞いて。私、多分、あの人のこと——」
「やめなさいと言ったでしょ」
「好きになりかけてる。男を好きになるなんて初めて。中性的で、目が綺麗で、声がまっすぐで……匂いが、ずるい」
サリエスは自分で自分に呆れたように笑い、目尻を指で押さえる。「任務中にこんなこと、私らしくないの、わかってる。でも、胸が痛いの。姉さんの前でだけ、言わせて」
マファリーはしばらく黙って妹を見ていた。
「……わかった。笑わない。否定もしない。感情は、刈り取ってもまた生える。隠すのではなく、扱い方を覚えなさい」
彼女はそっと立ち上がり、サリエスの肩に手を置く。「交渉の場で、顔に出すな。それができるなら、私の隣に立てる」
サリエスが小さく頷く。「努力する」
「それでいい」マファリーは短く微笑むと、指で地図の一点を叩いた。「明日、陛下に上奏する。中立の丘で会談を。護衛は各二名、結界は観測のみ、攻性魔法は封印。文面は柔らかく、退路だけは双方に保証。こちらは“話す覚悟”を示し、彼には“帰る道”を見せる」
「帰る道……家族のところへ、ってこと?」
「そう。今日、彼は家族を盾にした。最強の盾よ。ならばこちらは、その盾を尊重する枠を用意する。彼は“民を殺さない”。報告書がそう言っている。会えば、取引はできる」
サリエスはふっと笑い、力を抜いた。
「ほんと、姉さんは頭がいい。……ねえ、でも一個だけ、私のわがままを聞いて」
「なに」
「文を出す時、最後に一行。“あなたの香りは危険。だから、公の場で会いましょう”って書いていい?」
眉間に皺が寄り——やがて、マファリーは堪えきれず吹き出した。
「それは——ダメ。仕事の文に匂いは書かない」
「ちぇっ」
笑いが途切れ、二人はまた現実に戻る。
マファリーは机の上に新しい羊皮紙を広げ、黒曜の印章箱を開く。
「サリエス。あなたは明朝、封界術士に“観測陣”の発注。見るだけの網よ。余計な牙は仕込まない。——それと」
「それと?」
「心の牙は、しまっておきなさい」
サリエスは胸に手を当て、真顔で頷いた。
「はい、団長……いえ、姉さん」
窓の外、王都の灯がまた一つ増えた。
敗北の苦みと、未知への高揚。二人はその両方を呑み込んで、同じ方向を見た。
次はこちらの番だ、と。




