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誘導

一方、黒曜石の都——魔都ノスヴァルド。

ヴァルディア魔族国、十三師団長マファリー・ノスフェリアは、硬質の机に報告書を叩きつけた。青い肌に走る血管が苛立ちで脈打ち、金糸の髪が肩で荒く揺れる。


「……また、先んじられたわね」


サリエスが長い睫毛の奥で瞬き、姉の横顔を伺う。「王都の噂、ですか?」


「噂じゃない、手だてよ。人心の掌握。あれは軍の勝利と同じ価値がある。王は“女神の孫”。使徒カーヴェルは“遣わされた救済者”。こちらの“帝国と王国を摩耗させる構図”は、根から抜かれた」


「……カーヴェルに、また一手先を打たれた、と」


マファリーの青い瞳が針のように細くなる。「あの男、“戦わないで勝つ”を知ってる。私の盤上から、駒を取り去るのが上手い」


机上の地図には糸と針、駒の影。帝国戦線、魔獣回廊、王都の環状防衛線。その上の薄紙には《民心》と殴り書き。

扉の向こうで控えていた女兵が恐る恐る身を滑り込ませる。「ま、ま、魔王陛下のご意向、再確認です……“カーヴェルを殺すな。生かして、連れてこい”と」


サリエスが肩を竦める。「拉致、ですね。……でもどこで?」


「そこよ。」マファリーは舌打ち一つ。「転移痕は神性で撹乱される。探知結晶は全部、空を掴む。城下の目撃談は“現れては消える”ばかり。固定拠点は——村。だが、女神の加護の噂で塹壕ができた。雑に手を出せば、民心という盾に刃が跳ね返る」


「なら、盾を避けて槍を届かせる。」サリエスは淡々としている。「目を増やしましょう。“千眼群ミリアド”を放ちます。都市の鼠、宿屋の針孔、醸造場の泡、女の夢——全部に目を置くの」


「いいわね。」マファリーは指を二度鳴らす。影が床で膨らみ、黒い羽虫の群れが渦を巻いて散っていく。「それと——」


「裏切り者の線?」サリエスがそっと笑う。「王国の将、バジル。人柱の件。あの手の男は、匂いが分かりやすい」


「交渉の窓を開けておきなさい。囁き一つで動く程度の“誇り”しか持たないなら、こちらの駒にして終わらせる」


「はぁい」サリエスは退屈そうに伸びをした。「でも、姉さん」


「何?」


「結局のところ、誘拐って“来ていただく”こと。彼、自分から来る理由が必要。力尽くで連れても、手の中で暴れ続けるわ」


マファリーは薄く笑った。冷たい笑みだが、遊びの香りが混じる。「分かってる。だから盤面を変えるの。——女神の噂? 良いわ。それを“こちらでも”使う」


「偽の使徒?」


「違う。“偽の啓示”。王の側に“別の声”を立てる。神々は、しばしば矛盾した言葉を人に与えるものよ。——疑いは毒。噂の海に一滴落とせば、波紋は勝手に広がる」


サリエスは肩を竦める。「面倒くさいやり方、好きね」


「好きでなきゃ女はやってられないわ」マファリーは冗談めかして吐き、すぐ真顔に戻る。「同時に、“彼の弱点”を探す。戦略、戦術、魔力、全部が最上。なら、枷は心よ。慈しみ、約束、対等の誇り——彼が“戻らずにいられない場所”を」


サリエスの脳裏に、小さな少女の笑顔が浮かぶ。アンジェロッテ。

「……触るの?」


「触らない。女王の掟に反する。民に手を出すのは下の下」マファリーの声は固い。「だが“誘い”は仕掛ける。彼が“守るために動く”道筋を」

彼女は指先で地図の端、王都の外れに小さな印をつける。「まずは所在の確定。ミリアド、夢魔、渡鴉、情報屋、裏都の香水師、ギルドの落伍者、帝国の亡命兵、すべてに“使徒”の名を流せ。褒賞は、望みの三倍」


「了解、姉さん」


ちょうどその時、扉が二度、控えめに叩かれた。灰外套の斥候が膝をつき、低く告げる。「報、王都より。使徒——“カーヴェル”——冒険者ギルドに日参。幼い娘を抱き、時折、忽然と消失。女二人が常に側で——」


マファリーの青い眼に、獲物への執念がきらめく。「やっぱり、来やすい“入口”はギルド。なら、そこに鏡を置く」


「鏡?」


「彼に届く“挑戦状”。武に非ず、理に非ず——“誇り”よ。女神の使徒にしか解けない御託宣、なんてね」彼女はくすりと笑った。「さあ、遊びを始めましょう。盤面は変わった。次は、私の番」


サリエスが歩き出す。背に揺れる栗毛が、青い肌を一瞬やわらげる。「了解。——でも、姉さん」


「まだ何か?」


「もし負けたら?」

挑発でも皮肉でもない。ただの質問。戦略家の妹が戦略家の姉に問う、いつもの儀式。


マファリーはほんの少しだけ目を伏せ、笑った。「その時は、惚れるわ」


「もう惚れてるくせに」


姉妹は互いに肩を小突き、すぐに顔を引き締めた。命令が飛ぶ。影がのび、千の目が世界にばらまかれ、噂と噂がぶつかり合う音なき戦場が、静かに開いた。



王都の午後は、薄い金の粉をまぶしたような陽光が石畳を照らし、露店の旗がふわりふわりと翻っていた。

カーヴェルはアンジェロッテの手を引き、もう片方の手で串焼きの屋台を指差す。後ろからは、ロゼリアとフェリカが並んで歩き、アリエルは犬耳をぴくりと立てて警戒を怠らず、ジーンは人間の少年の姿でかぶり物の飴をしゃぶっていた。


「パパ、あの赤いの辛い?」

「少しだけな。……よし、甘口を一本」

「やった!」


他愛ないやりとりに、ロゼリアが目を細め、フェリカは「旦那様の“甘口一本”の声、好き」と頬を緩める。どこにでもある、どこにもない、束の間の平穏——。


そこへ、冒険者ギルドの掲示板張り替えをしていた受付嬢ミールが駆けてきた。猫耳をぴんと立て、肩で息をしながら頭を下げる。

「カーヴェルさん、すみません! ギルド本部にお戻りくださいって、ギルド長からニャ。急ぎの報告が……!」


視線だけでアリエルとジーンに合図し、カーヴェルは頷く。「行こう。……アンジェロッテ、ギルドで座れる席がある。歌もあるかもな」

「ほんと? パパのギターも?」

「機嫌が良ければな」



---


冒険者ギルドは、昼下がりの騒がしさの底に、妙な静けさの層を抱えていた。笑い声や杯の触れ合う音はするのに、そのどこかで“聞いている”何者かの気配がある。

扉を押すと、奥のラウンジ席に“白い肌”の二人の客が腰掛けていた。髪の色も瞳の色も、人間として不自然ではない——だが、ほの暗い室内でだけわかる、肌理の滑らかさと呼吸の深さ。

(擬態、か。気配の“縁”が人のそれじゃない)


カウンターに向かいながら、カーヴェルは視界に二人を浮かせたまま、ミールから書類を受け取る。ロゼリアとフェリカは彼の脇にぴたりと寄り、アンジェロッテは高い椅子に座って足をぶらぶら。アリエルはラウンジの角に立って、嗅覚で空気の筋を探っている。ジーンは椅子の背にもたれ、空っぽのグラスの底を覗き込んだ。


やがて、白い肌の女の一人が、透き通る声で話しかけてきた。笑うだけで香水のような余韻が漂う。

「はじめまして。……あなたが、カーヴェル様?」

「呼び捨てでいい。見たところ、旅の人だな」


女は微笑を深める。胸元のネックレスが、灯りに細く光る。

「私、サリエス。ずっとお噂は伺っていました。勇敢で、聡明で、そして……」

視線が意図的に揺れる。

「お優しい方、なんでしょう?」


ロゼリアの指がカーヴェルの袖をつねり、フェリカが反対側の袖をさりげなく引いた。二人とも笑顔——だが笑っていない。

サリエスの後ろから、もう一人の女が立つ。こちらは目の奥に冷たい知が宿っている。

「マファリーと申します。旅の噂で、あなたの名を知らぬ者はいません。……王都は麗しいですね」


「風向きの良い日でね」カーヴェルは肩をすくめた。「子どもを連れて散歩するには最適だ」


サリエスが身を寄せる。声を落とし、羽根のように軽く囁いた。

「でしたら、もう少し静かな場所で、お話を。あなたのこと、もっと知りたいの」

遠巻きのテーブルから、冒険者数人がこちらの様子を盗み見る。ロゼリアの目が細くなり、フェリカの眉がぴくりと動いた。


「人を待たせてるんだ。話はこのくらいで」とカーヴェル。

「まあ、冷たい」サリエスが唇を尖らせる。

そこへマファリーが一歩踏み込み、距離を埋める。

「時間を取らせません。こちらも急ぎの“相談”ですので」


ギルドの空調が、ひと呼吸、止まったように感じられた。

カーヴェルは、ふっと笑う。

「……随分と器用な擬態だ。肌の“白”は上出来だが、呼気の温度が違う。人間はそんなに冷えない。で——魔族のお嬢さん達、用件は?」


ガタン、と椅子が一脚鳴る。ロゼリアとフェリカが同時にカーヴェルの前に半歩出た。アリエルの耳がぴんと立ち、ギルドの奥でミールが「え」と小さく声を漏らす。

サリエスの笑顔が、一瞬だけ固まった。マファリーは即座に瞼を伏せ、表情を整える。

「……見抜かれましたか」

「最初から、ね」


アンジェロッテが袖を引く。「パパ、この人たち、こわい?」

「大丈夫。パパが話してる」


サリエスは肩を竦め、くすくす笑う。

「じゃあ、こうしましょう。私たちは“旅人”として、あなたに興味がある。あなたは“王都の人”として、私たちに興味がある。静かな場所で、互いのことを——」

「互いのことを知る、のは結構だが」カーヴェルは遮る。「なら、最初から“公式に”来るべきだった。外交折衝で。王都の門で身分を明かして、宰相あての書状のひとつも持って、堂々とな」


マファリーの顎がわずかに上がる。

「あなたは、我らが何者かまで読んでいると」

「手口も、だ。路地裏で攫うか、催眠で連れ出すか、酔わせるか——どれを選ぶつもりだった?」

サリエスの眼差しが一瞬だけきらめき、すぐに愉しげに細まった。「……それ、どれも私には簡単よ?」


ロゼリアとフェリカの嫉妬が、目に見えない火花になって弾けた。

「旦那様に何を言ってるの?」ロゼリアがやわらかく笑って、言葉は刃。

「“簡単”だなんて、あなたの辞書は薄っぺらいわね」フェリカは涼しい声で刺す。


カーヴェルは、乱れかけた空気をひと呼吸で馴染ませるように言った。

「——魔王さんに伝えろ。交渉の意思があるなら、俺は単身で出向く。場所も時間も、公式に取り決めろ。こちらは王都の門を使う。勝手に攫うな。勝手に試すな。勝手に人の家族の時間を奪うな」


ギルドのざわめきが、低い波のように広がった。

サリエスは目を丸くし、それから、これは参ったとばかりに笑った。

「……ねえ姉さん、私、あの人すごく好き」

「黙っていなさい」マファリーが短く言う。だがその声には、呆れと、敗北と、奇妙な敬意が混じっていた。

「確かに、ただの“魔術バカ”ではない。頭も切れる。……わかった。いったん退く。次は“文”で行こう」


サリエスがくるりと踵を返し、扉に向かいかけて、振り返る。

「カーヴェル——いつか、静かな場所で個人的にも話しましょう?」

「公的な話が先だ。順番を守れ」

「はーい、先生」


二人の足音が遠のく。扉が閉じ、ギルドの空気がほどけた。

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