悪口はダメ
夜営と“早食い決戦”
その夜、地上の平地に戻った一行は、例の屋敷を展開して夜営とした。大食堂の扉が開くや、香草の蒸気と肉の香りが溢れ出す。鍋を叩けば湯気の立つ料理が現れ、テーブルは瞬く間に彩りを増した。
「いただきます!」アンジェロッテが両手を合わせると同時——ジーンが椅子をひっくり返しそうな勢いで串肉にかぶりついた。「うま……! うま、うまっ!」
「ふふん、面白い子。」アリエルが隣に腰を下ろし、山のような肉皿を前に両手を鳴らす。「勝負だ、ちび!」
「ちびじゃない!」ジーンは頬を膨らませ、だが目がきらきらしている。「負けない!」
そこからは戦だった。皿が空になる音が小気味よく連なり、パン籠が次々と消え、スープ鍋が二度お代わりされる。四合飯が“砂時計”のように吸い込まれていき、見守る冒険者たちが「お、おおお……」と妙な歓声を上げる。
「ジーン選手、串七本目ー!」
「アリエル選手、骨までいったぁ!」
「記録係誰だ。」ミーシャが呆れ顔でつぶやくが、口元は緩い。
「……ごちそうさまでした。」五十数える間もなく、二人は皿を重ね、同時に手を合わせた。
「引き分け!」アンジェロッテが両手を挙げる。「どっちもすごい!」
「ふふっ。」アリエルは尻尾をぱたぱた。「まあ、上等。」
「また、勝負しよう!」ジーンが笑う。頬はまだ泥の跡が残るが、瞳はもう“孤独な獣のそれ”ではない。
つかさはその様子を、温かいものに頬を撫でられるみたいな目で見ていた。「……こういうの、いいですね。」
「うむ。」アルトルが大盾に凭れ、湯気に眼鏡を曇らせる。「戦は戦、だが、夜はこうでなくちゃな。」
ホフランは杯を傾け、低く囁く。「風も、今日は穏やかだ。」
カーヴェルは卓の端で、いつものようにさりげなく。皿を配り、グラスに水を足し、ロゼリアとフェリカの取皿に好物をそっと乗せる。二人は見逃さない。「……好き。」「……旦那様、点数加算。」
「採点表はどこにある。」
「私の心の中に。」
「ずるい。」
笑いが弾け、屋敷の灯りが一段暖色を増した。外は夜風。星が高く、遠い。明日にはまた潜る。だが今夜は、腹を満たし、喉を潤し、半歩ずつ積み重ねた仲間の鼓動を確かめ合う夜だ。
カーヴェルは立ち上がり、掌を軽く打った。「最後に——今日のまとめ。」
視線が集まる。
「“半歩”。受け・抜け・流し。味方を殺すのは敵じゃない、慢心だ。——でも、今日のお前たちはよくやった。町は守られ、子どもは笑い、ひとりのワイバーンが“ジーン”になった。これが俺たちの勝ちだ。」
静かな拍手が、やがて大きな手拍子に変わった。ジーンとアリエルが照れくさそうに笑い、アンジェロッテが結界球の中から(もう解いていい?)と目で訴え、カーヴェルが笑って頷く。
「明日も潜る。半歩、忘れるな。」
夜は深く、灯は暖かく、眠りは穏やかだった。
夜は更け、屋敷のラウンジにだけ柔らかな灯が残っていた。椅子の背にもたれて欠伸を噛み殺していたアンジェロッテが、ふいにぱっと顔を上げる。
「パパ、ギターして。あの、やさしいやつ」
「いいとも。」
カーヴェルはマジックバッグから黒艶の楽器を取り出し、親指で弦を撫でる。最初の一音が空気の埃をそっと沈め、二音目が人いきれの熱を丸く整える。三音目には、飲み終えた杯を置く小さな音すら遠のいた。
ゆるやかな分散和音に、つかさが肘をつきながら目を細める。「この曲、好きです……胸が軽くなる」
ミーシャは背筋を正したまま瞼を閉じ、呼吸を曲に合わせる。ホフランは火の魔石を絞り、焔を小さくした。アリエルは尾を椅子の脚に巻きつけて、誰よりも静かに聴いている。ジーンは両手で膝を抱え、足先だけ、リズムを取っていた。
アンジェロッテはというと、最初の旋律の折り返しで早くも欠伸をし、二回目のサビでカーヴェルの膝に頭を預け、終止和音が消えるころには、すうすうと寝息を立てていた。
「演目、終了。」カーヴェルが口角で笑い、そっと抱き上げる。
「いい夢を、天使。」ロゼリアがウィンクし、フェリカが毛布を差し出す。
寝室に運び入れ、薄い布団をかけ、前髪を指で払う。小さな額に口づけ一つ。灯を落とし、扉を静かに閉めた。
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翌朝。岩場の冷気が肌を刺すような空気。屋敷の玄関を出た途端、遠雷のような地鳴りが地の底から続き、砂礫がかすかに震えた。
「来るぞ。」
「全員、持ち場につけ!」ミーシャの声が張る。
陣形は熟れた。アルトルの大盾が先頭で地を踏み鳴らし、つかさとミーシャ、アルファームが左右と中段で半歩差をつけて並ぶ。背後にフェリカ、マリア、サーシャ、アン、クロエ。さらにナーリアとカリスタが弧を描いて外へ、ホフランとロゼリアが中央後方。カーヴェルは列の最後尾で、掌一つ掲げた。
「強化、展開。——十倍。」
見えない幕が音もなく全員をくるみ、視界の輪郭が一段くっきりする。呼吸が深くなり、筋肉は軽いのに足元は地に根のように安定する、あの感覚だ。
最初の波はゴブリンとオークの混成。森のほうから溢れるように現れ、こちらの盾壁にぶつかって形を崩した。アルトルが受け、つかさが抜け、ミーシャが流し、アルファームの槍が三体をまとめて地面に縫い留める。フェリカの火線が弧を描き、ナーリアの矢が火の尾を引いて飛ぶ。ホフランの突風が灰と血飛沫を後方に押しやり、ロゼリアの結界が逸れた刃を吸い取る。
「次、右から大型!」ホフランの探知が鳴る。
「受ける!」アンが大剣をくるりと回し、クロエと背合わせで突きを合わせる。
「包囲、半歩狭め!」ミーシャ。
大地が唸る。トロールの影が五。前回の模擬戦のイメージが全員の脳裏に同時に重なる。核、位置、間合い——その通りに行った。アルトルが足を刈り、アンが筋を断ち、つかさの刀が白光で核を穿つ。二息。倒れる音は一つ。残りは連携で短く片付いた。
「……やれる。」自信の輪郭が隊列の背骨に通る。
そこへ——空が黄色く揺らいだ。岩場に射す光が、金に寄った色で反射する。風が鳴り、巨影が尾を引いて降りてきた。
鱗は熟した麦のような黄。眼は硫黄のような澄んだ金。翼の一振りで砂塵が渦を巻き、周囲の岩肌が震えた。
「イエロードラゴン……!」誰かが息を呑む。
「階層守護種、格が違う。」ミーシャの声が低くなる。
大蜥蜴は口角を吊り上げ、人の言葉を吐いた。
『小賢しい蟻どもよ。刃を振るって英雄気取りか。臭い汗を撒き散らすだけの無力な群れ——』
「うるさいな。」フェリカが鼻を鳴らす。
『とくにその、ちび。』金の眼が宙の小さな結界球を嘲るように眺める。『飼い主に甘やかされるだけの飾り。泣けば守ってもらえると思うなよ、薄汚い孤—』
音が消えた。
カーヴェルが歩み出るのと、ドラゴンの言葉が途切れるのはほぼ同時だった。気配は膨れもしない。怒号も術式の奔流もない。ただ一歩。砂を噛むような乾いた音が地面から返る。
「このクソ野郎。俺の娘の悪口言ってんじゃねえ」
彼は拳を軽く握る。肩は入らない。腰も回さない。伸びたのは肘から先——ただの“突き”。だが空気が一瞬、固体になった。拳先から出た“何か”が、世界の一点だけを許容量の何千倍で押し込める。
拳がドラゴンの胸骨一枚分手前で止まり、衝撃だけが通った。黄の鱗にひびが走り、次の瞬間、山ほどの肉塊がぐにゃりと脱力した音を立てる。巨体は膝から崩れ、砂塵を巻き上げながら横へ倒れ込んだ。翼が一度、痙攣するように震え、静かになった。
沈黙。風だけが吹いている。
「——っしゃあぁぁぁぁ!」遅れて冒険者たちの叫びが爆ぜ、歓声が奔った。帽子が空に投げられ、誰かが太鼓を叩き、誰かが泣き笑いで抱き合う。
アンジェロッテの結界球がすうっと下がってきて、彼の頬に触れる。「パパ、かっこよかった。」
「ありがとう。でも悪口は、だめだ。誰に対しても。」
「うん。」
ロゼリアが腰に手を当て、半眼でドラゴンを見下ろす。「旦那様に喧嘩を売るなんて、世の中知らなすぎ。」
フェリカは肩を竦めた。「一発芸で国宝級。」
ミーシャが苦笑いを漏らす。「拳一つで戦況をひっくり返す人、初めて見ましたよ……」
カーヴェルはドラゴンの額に軽く手を当て、封印の紋を描いた。鱗の谷間に見えない鎖が絡み、巨体は砂に沈むように消えていく。
「討伐完了。——帰るぞ。」




