布石
執政院の奥、宰相執務室。磨かれた黒木の卓に地図が広げられ、蝋の沁みが幾つも戦の痕を語っていた。窓外には王都の塔が並び、朝靄が薄く垂れている。
ノック、間。
「入れ。」
カーヴェルが静かに入室し、胸に手を当て一礼した。
「宰相閣下、出発前にご挨拶に参りました。」
アルビデール・クラウスは金縁の眼鏡越しに男を測るように見据え、やがて口元だけで微笑んだ。
「よくぞ参られた。——掛けなさい。茶を。」
湯気の立つ杯が二つ置かれる。宰相は人払いをし、扉が閉まったのを確認してから本題を促した。
「ご用件は何用でしょうか?」
カーヴェルは茶に口をつけず、指先で地図の東端を軽く叩いた。
「魔族側に、かなりの“知恵者”がいます。アステル帝国の三万派兵——あれは帝国の独自意思というより、誘導された可能性が高い。先日の魔獣騒ぎも同じ手の中でしょう。」
宰相の眉がぴくりと動く。
「……帝国ではなく、ヴァルディアの企みと。」
「帝国に優れた知将は見当たりません。武の腕は立つが、盤面を見る眼が鈍い。なのに手順だけは妙に整っていた——誰かが“型”を与えた形跡がある。」
アルビデールは指輪を親指でくるりとなぞり、杯を半分だけ飲む。思索の癖だ。
「では、次は何を仕掛けてくる?」
「王と私の離間。あるいは、私を目視しどんな男が探る、そして私の誘拐。」
カーヴェルはあっさりと言って、宰相の反応を正面から受け止めた。
「……誘拐、とな。」声は低いが、驚きは抑えきれていない。
「ええ。私が王都の秩序を“崩さぬ”戦い方を選ぶことは、もう読まれているはずです。だからこそ、私を盤面から退けるのが最も効率的だ。——なので、敢えてこちらから“行く”。魔族の腹の内を確かめに。」
執務室の空気が一瞬、張り詰める。
アルビデールは視線を地図から男に戻し、静かに言った。
「無謀だと止めるのが宰相の役目だが……あなたは止まらない。そう見える。」
「止まりません。」
間髪入れず返すその声音に、迷いがない。
「ただ、王国側にも布石をお願いします。王家は女神の末裔、私は女神に“王と民の行く末を託された者”だ——この噂を早めに流していただきたい。私が不在でも、王が拠って立つ柱が揺れぬように。併せて、今お話しした推測は陛下にも。」
宰相は肘掛けにそっと体を預け、長い息を落とした。
「……噂の件、承った。だがあなたが“向こう”へ行く間、王都はどう守る?」
「布陣は整えてあります。第十五師団はミーシャ団長の下でまとまっている。ジェシカへの連絡網を三系統、寺院・騎士団・商業ギルドに置いた。加えて——」
カーヴェルは懐から小さな水晶片を取り出し、宰相に渡した。
「観測用の“針”です。これを王城塔の最上階に据えてください。私の転移波形だけを拾い、所在が一点光で浮かぶ。万一のときは、陛下に“今どこで生きているか”だけでも伝えられる。」
アルビデールは水晶を掌に乗せ、光の反射を確かめる。
「……周到だ。あなたが“囮”になることすら計算に入れている。」
「こちらが先に賭けを打てば、盤面の主導権はこちらに移る。向こうは必ず出てくる。出てきた瞬間、顔が見える。」
宰相は沈黙した。部屋の隅で砂時計が細く落ちる音がする。やがてその砂の音を遮るように、低く、しかしはっきりと口を開いた。
「噂の流し方は私に任せなさい。吟遊詩人には“英雄譚”の節回しで、寺院は“家系譜”の講話に。市井には産婆衆と水売りを通じて“うわさ話”として。——一本調子にせず、複数の源から『同じ話』が自然と交わるようにする。反発の強い貴族には、逆に“疑わせて”から証を見せる。効きます。」
カーヴェルは目を細め、微笑した。
「さすが閣下。」
アルビデールはすぐさま鋭さを取り戻す。
「ただし、頼り切りにはせぬ。あなたが不在の間、王都の防諜は私が預かる。“尾行を尾行する網”を二重に掛ける。誘拐を狙われるのはあなただけではない。勇者殿、客将筋、寺院要職——人質の線を潰す。王城内には“密告を誘う罠”を張る。疑う者には疑う理由を与え、吐かせる。」
「心強い。」
カーヴェルは立ち上がり、短く会釈した。「では、魔獣討伐に行ってきます。七日以内に何らかの手紙を飛ばします。」
「……生きて戻れ。」宰相は立ち上がらず、代わりに右手の指輪を軽く鳴らした。
「そして、戻ったらまた茶を飲もう。冷めないうちにな。」
「ええ。」カーヴェルは杯を手に取り、初めて一口だけ含むと、背を向けた。
扉が静かに閉じる。
*
扉の外の気配が完全に消えたのを確認してから、アルビデールは長椅子に背を預け、胸の奥に溜めていた息を吐き出した。
「……流石、“神の使徒”様だ。」
独白のように呟き、呼鈴を鳴らす。秘書官が入室する。
「噂工作を始める。吟遊詩人ギルド、聖務院、商業ギルド、各門の見回り頭、産婆組合、水売り、灯油問屋、酒場の女将。名簿の“口の固い者”から順に仕掛けろ。文言は——」
秘書官が羽根ペンを構える。宰相は無駄のない声で綴った。
「『王家は古より女神アルファエルの血筋。今代、女神は王と民を護る“客将”を遣わした』。否定の余地をわざと残し、噂に“余白”を持たせろ。寺院筋には系譜図を用意させるが、あくまで“古文書にそう書いてあるらしい”程度で良い。——重くしすぎると、反発が来る。」
「はっ。」
「同時に、宮中の防諜網を二重化する。内侍府、厨、厩にそれぞれ別筋の耳を置け。勇者殿と第十五師団の動静は私の机にだけ上がるように調整する。……それから——」
宰相の眼光が一段と鋭くなる。「王都の門外に“見張り塔”を三つ増設。見張りの名目で、実際は転移の発光を観測する台座だ。今しがた受け取った小水晶は私の責任で王城塔に据える。」
秘書官が去ると、執務室に再び静寂が戻った。
アルビデールは地図の上に手を置く。アステル帝国の線、ヴァルディアの影、王都の丸印。ひとつひとつに、薄く見えない糸を結び直していく。
——賭けだ、と自分に言い聞かせる。
特異点の男に国の命運を預けるのは、本来の政治ではない。だが、時に国は“常道”を外れてでも生き延びねばならぬ。
王は民の顔を見、私は盤面を見る。彼は——盤面の外側を見る。
「頼んだぞ、客将殿。」
宰相は、冷えぬうちにと自分の杯を傾けた。茶はまだ温かかった。
「少し熱かったか」




