智と計略
第十五騎士団本部・執務室
夜半前、油灯が低く唸り、紙と革の匂いが満ちていた。壁の地図には赤と黒の針が星座のように散り、書類の山は築城のごとく積み上がっている。
扉が二度、軽く叩かれ、開いた。
黒外套の男が入る。カーヴェルだ。
ミーシャは椅子を離れ、深く一礼する。「本日の件、心より——」
「そんな礼は要らない。」カーヴェルは手をひらりと振った。「仕事だ。」
ジェシカも書類束を置き、腰甲の留め具を鳴らしながら一歩出る。「それでも言わせて。ありがとう。」
「了解。受領した。」口元だけで笑ってから、すぐに表情を戻す。「——で、驚くなよ。帝国も王国も、そしてバジルも、ひとりの魔族にまとめて踊らされていた。」
油灯が小さくはぜた。
ミーシャの眉が跳ねる。「……魔族?」
「女だ。」カーヴェルは机端の駒を指先で弾き、地図上の首都へ転がした。「名はマファリー。切れ者だ。帝国と王国の“共倒れ”を設計し、両都を魔獣で混乱させ、疲弊の底で魔族が介入してすべてを攫う——筋書きはそれだけ。」
ジェシカが短く息を呑む。「どうやって両方を手玉に?」
「いい質問だ。要するに——金だ。」カーヴェルの声は乾いていた。「欲の深い者ほど軽い。懐を掴めば、口も、耳も、印板も、鍵束も動く。彼女は“金の糸”で二国のスパイ網を縫い合わせた。帝国の商会、王都の兵站、港湾の印板、造幣の外周。金の流れる先に、人も情報も流れる。」
室内の温度がひとつ下がった気がした。
ミーシャは腕を抱く。「……背筋が寒くなりますね。」
ジェシカは唇を噛む。「只者じゃないわ、その女。——で、あなた、今『部下にしたいくらいだ』って顔してる。」
「実際、欲しいね。」平然と返してから、カーヴェルは肩を竦めた。「ただし面接は俺の庭で、俺のルールでな。」
「呑気言わないで!」ミーシャが思わず机を叩く。「敵です!」
「敵だとも。」カーヴェルは穏やかに頷いた。「だが、次の手は読めている。向こうの計画は俺が全部ひっくり返した。今、彼女の関心は俺に釘づけだ。どう来るか——見物だな。」
ふたりの視線が同時に尖る。
「……教えてください。」ミーシャが姿勢を正す。「どう考え、どう動くのか。」
「二人とも座れ。」カーヴェルは机上の紙片を三つ並べ、駒と硬貨を載せた。灯の下で、影が盤面を作る。
「第一。」硬貨を一枚、指で弾く。「客観だ。感情を切って、数字・地図・物流だけを見る。誰が何を言ったかより、何がどこへ“動いたか”。紙は嘘をつくが、物資と時刻はつきづらい。兵糧、馬匹、印板、消耗品。動線を描け。臭いまで想像しろ。」
「臭い?」ジェシカが瞬く。
「銀貨は金属、樽は酒、薬剤は樟脳。倉庫は匂う。帳簿にない匂いがあれば、そこに嘘がある。」
「第二。」今度は駒を二つ、対面させる。「能力の把握。味方と敵、個々の上限下限を曲線で掴め。『この人間はここまでは出来るが、ここから先は無理』という幅。その幅に合わせて任務を切る。過小評価も過大評価も敗因だ。」
ミーシャが小さく頷く。「兵も文官も、ですか。」
「全員だ。門番から法卿まで。」
「第三。」駒の配置を素早く差し替え、硬貨を縁に滑らせた。「適応。相手の強みをこちらの土俵では強みにさせない。マファリーの強みは金と情報の編み上げだ。なら、紙と印に“現物照合”を噛ませ、伝達は口頭分散、痕跡を残さない。彼女の糸に‘結び目’を作る。」
ジェシカが前のめりになる。「港の印板と鍵束——」
「そう。それらを“匂いと人”で検める。紙だけで勝負しない。」
「第四。」最後の紙片に指を置く。「心理の誘導。——興味だ。」
ミーシャが目を瞬く。「興味……?」
「人は、理解できないものに会いに来る。俺が彼女の策を覆し続ければ続けるほど、彼女は俺を『未知』として定義する。未知は脅威であり、同時に誘惑だ。見たい、測りたい、壊したい。——会いに来る。」
風が窓格子を鳴らした。灯の炎が揺れ、影が盤面を撫でる。
ジェシカは腕を組み、顎を上げた。「つまり、こちらから追うより、向こうを“こちらに連れてくる”。」
「話が早い。」カーヴェルは指先で駒をひとつ、執務机の縁に立てた。「来たら、客として扱う。出口は三つ——懐柔、拘束、放流。どれにするかは、その場の呼吸で決める。」
ミーシャは一度目を閉じ、深く息を吐いた。「——正直、半分も追いつけていません。」
「まるでわからない、でも半分は掴んだ。十分だ。」カーヴェルは立ち上がる。「残りは、やりながら覚えろ。兵の隊列と同じだ。歩いて初めて、脚が覚える。」
「でも、本当に来るでしょうか。」ジェシカが問う。
「来るさ。」カーヴェルは窓へ目をやり、夜の底を測るように声を落とした。「彼女は自分の策に自信がある。自分より上を見れば、必ず触りに来る。確認のために、そして……遊ぶために。」
沈黙。
室外の廊下で、夜警の足音が二度、石を叩く。
ミーシャが立ち上がり、右手を胸に当てた。「——では、第一:客観。兵站と造幣、港湾の現物照合を走らせます。紙は切り離し、口頭密令で。」
「第二:能力。」ジェシカが続く。「担当者の“幅”を洗い、任せる仕事を切り直す。港は私が見る。」
「第三:適応。」ミーシャ。「伝達の痕跡を減らし、結び目を増やす。」
「第四:興味。」ジェシカが薄く笑う。「——餌はもう撒いてある、ってわけね。」
カーヴェルは小さく笑った。「夕餉の匂いがすれば、狼は風上から来る。……準備だけしておけ。」
そのとき、窓の外で鴉が一声、短く鳴いた。
衛兵がノックし、封蝋のついた小さな札を差し出す。黒ではなく、月白の蝋——見慣れない色だ。
「差出人は?」ミーシャ。
衛兵は首を振る。「名はありません。ただ——裏に、こう。」
札の裏。流れるような細い筆致で、ひと言だけ。
> 「ご挨拶に伺います。——M」
油灯がもう一度、小さくはぜた。
カーヴェルは札を指先で挟み、二人に視線だけで合図する。
「……ほらな。」
「来る。」
三人の声が、同時に落ちた。夜が、わずかに笑った気がした。
【カーヴェルの話しが解らなかった方は此方を参考にして下さい。】
小さな夜の食堂に、店主カーヴェルと二人の切り盛り上手(ミーシャ=ホール長、ジェシカ=厨房長)がいます。町には“お金の流れ”で他店を操る超が付く食通マファリーがいて、あちこちの店同士を競わせては最後においしい所だけ持っていく——そんな人。
カーヴェルは言います。準備は四つだけ。
1. まず棚卸し(客観)——帳面より、倉庫の食材や樽の匂いと動きで本当を確かめる。
2. 次に持ち場分け(能力)——誰が前菜、誰が火入れ、誰が会計か、できる範囲に合わせて任せる。
3. それから動線と伝達の工夫(適応)——伝票だけに頼らず“現物確認”を混ぜ、合言葉で注文を回す。マファリーの得意な“お金の糸”一本にさせない。
4. 最後に香りで呼ぶ(興味)——追いかけず、店先にいい匂いをふわっと流して、「何者?」と向こうから来たくなるようにする。
そう話していると、扉の隙間から一枚の予約カード。月色の封蝋に、さらりと「ご挨拶に伺います。—M」。
——食通は、こちらの“支度”に引き寄せられて来客になった、というわけです。




