マファリーとサリエス
黒曜の塔に風鳴りが刺さるたび、窓辺の魔燭が青く揺れた。
ヴァルディア魔族国・首都ヴァルドグラート。十三師団本営の作戦室で、マファリー・ノスフェリアは黒鉄の卓上に報告書を叩きつける。
「——十五名。たった十五名に、千の潜入兵と制御下の魔獣群が“消えた”?」
青い肌に映える金髪が、憤怒とともにわずかに乱れる。切れ長の青瞳は紙の一行一行を切り裂くように走り、最後の一文でぴたりと止まった。
〈魔石破砕。指揮官名カーヴェル・プリズマン。被害、敵側ゼロ〉
扉が小さく叩かれ、気配を消すようにサリエスが入る。金髪の長髪が肩に流れ、同じ青の肌と瞳。姉に似た妖しい曲線美を持ちながら、その視線は剣のように冷ややかだ。
「どうかしましたか、姉さん?」
「またしても“カーヴェル”だ。」
マファリーは短く吐き捨て、指先で机を二度叩く。「帝国三万の軍勢を、回廊ごと転送して本陣へ返送——無血。今回も、人間側に死者なし。私の計略を粉砕したのは戦斧でも火焔でもなく、“頭脳”と“術式”だ。」
サリエスの眉がわずかに動く。「……彼、面白いですね。」
「面白いで済ませることじゃない。」マファリーは報告書を重ね、指先で端を揃えた。「危険だ。正面から叩けば、こちらが空にする“隙”を転移で突かれる。」
そこへ、女兵士が駆け込む。「十三師団長、直ちに大軍を——」
「馬鹿か貴様。」
冷たく、しかし甘く響く叱責が作戦室を満たす。
「三万を一息で“返送”した術者に面で挑めば、首都の真上に回廊を穿たれるだけだ。——本営に報告。前線戦力の半数をヴァルドグラート防衛に回す。今この瞬間からだ。」
女兵士は震え、叩頭した。「はっ……直ちに!」
サリエスが腕を組む。「……つまり、首都ががら空きだと彼に思わせるのは最悪、ということ。」
「そう。彼に“転位のアンカー(錨)”を掴ませないよう、都市全域に偏向障壁を敷く。」マファリーは指を鳴らすと、魔墨の地図が卓上に浮いた。「首都外縁に《帰還結界》七重、《反転回廊陣》三基。術式の歪みを吸う黒曜柱を四方に立てて、“来る回廊は砂漠へ返す”。」
「観測は?」
「——あなたの出番よ、サリエス。」マファリーは薄笑いを帯びる。「《観測転位針》を作る。彼の門は紫の偏光を帯びるらしい。波相を拾って署名を固定。以後、開門予兆を“匂い”で嗅ぎ分ける。」
サリエスは指先をくるりと回し、空間に赤い輪を描いた。「火焔と回復は任せて。転移は少し癖が強いけど、彼の癖を掴めば追える。」
「それだけじゃない。」マファリーは窓の外、漆黒の尖塔群を眺めた。「人の国の政治も使う。王は彼を恐れ、同時に頼っている。そこに楔を打つ。」
軽く扇を畳む音。「“影紋隊”を王都へ。商隊に化けて噂を撒け——『カーヴェルは女神と通じ、王家だけを救う』とね。陛下の猜疑心を煽りすぎず、微熱程度に。」
サリエスは横目で姉を見た。「危うい綱渡り。」
「危ういから楽しいのよ。」マファリーは笑う。その笑みは、男を落とすと噂される艶やかさのまま、氷の計算を宿している。
「——でも姉さん、ひとつ気になる。彼、無血を選ぶ。魔獣も人も、なるべく殺さない。そういう戦い方、嫌いじゃない。」
「ええ。だから“興味”が湧く。」マファリーは報告書をもう一度見た。「彼は敵に回すと厄介、味方につけると最強。口説き落とす価値はあるわ。」
「男は嫌い。」サリエスは、ふいと視線を逸らす。「けど、彼は……少し違う。」
「中性的で、香りがあるらしいわよ。」
思わず、サリエスの耳が朱に染まる。「——姉さん。」
扉の外に控える参謀を呼び、マファリーは次々と命を下した。
「一、前線第六・第七軍の半数を旋回、首都環防へ。
二、《偏向障壁》《帰還結界》の構築を最優先。術者は三系統に分散、相互監視。
三、魔獣制御は一時凍結。魔石は囮に。破砕されてもいい“偽物”を各所に置く。
四、“影紋隊”十組を王都へ。商隊、吟遊詩人、寺院巡礼——顔を変えて入れ。
五、帝国には小さな火種を。国境の補給線に“寒波”を送るだけでいい。凍るほどじゃなく、苛立つほどに。」
参謀たちが渦のように散っていく。作戦室に再び静けさが落ちた。
サリエスがぽつりと問う。「陛下には?」
「もちろん、これから御前へ。」マファリーはマントを翻す。「“正面の兵を退けて首都防衛”は重い決断。私の口で通す。」
* * *
玉座の間は、黒曜石の柱に血紅の帷が垂れ、魔焔が静かに揺れていた。
魔王——ヴァルディアの主、ラグル=ヴァサラ——は顎に手をやり、十三師団長の進言を黙って聞く。
「……転位回廊の偏向、か。奴は都市そのものを門の“標”にし得る。ならば標を“欺け”というわけだな。」
「御意。」マファリーは膝をつき、青い瞳を上げた。「正面衝突は愚策にございます。首都の安全網を七重にし、彼の開門はすべて無人の荒原へ“返す”。その上で、政治と情報でじわじわと“選択肢”を減らします。」
魔王は笑った。「血ではなく智。——よい。お前の遊戯に、国を賭ける価値がある。」
玉座の左右、重臣たちのざわめき。ラグルが片手を上げると、渦は静まる。
「許す。資材も術者も勝手に使え。失敗すれば?」
「そのときは、この首を。」
マファリーは迷いなく答え、妖艶な微笑を薄く貼り付ける。
「面白い娘だ。」魔王は愉悦の色を瞳に宿し、続けた。「——ただし、ひとつだけ命ずる。カーヴェルという男、殺すな。」
「……お考えあってのこと、と受け止めます。」
「うむ。敵か味方か、測りたい。心をぶつける敵より、心が読めぬ敵のほうが恐ろしい。お前は“読む”女だ。連れてこい——あるいは、向こうから来るように仕向けろ。」
マファリーは深く一礼した。「陛下の御意、確かに。」
* * *
謁見を終え、塔の回廊にふたり並ぶ。遠く、夜の砂海に雷が閃く。
サリエスが小声で問う。「……“殺すな”。重い言葉。」
「ね。なら、なおさら“落とす”価値がある。」マファリーは笑い、手すりに肘を置いた。「正面の戦争は当分ないわ。私たちの戦場は“心”と“術式”。」
薄闇に、サリエスは指で小さな陣を描く。赤い輪が灯り、すぐ消えた。「観測転位針、今夜中に試作する。彼の紫の門——匂い、掴む。」
「頼りにしてるわ、妹。」
どこか遠い場所で、誰かの笑い声が風に混ざった気がした。
マファリーは目を閉じ、その名をそっと口の中で転がす。
「カーヴェル・プリズマン。次は——こちらの番よ。」




