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判決

軍事法廷 ― 続・東の回廊事件


二日目の開廷の鐘が二度鳴り、合議判官の入廷を待つ静寂のさなか——

傍聴席側の重扉が、風圧ごと叩き割るように開いた。


「道を開けてください!」


高らかな声。

深紅の外套、銀の留め具に結露の光——ミーシャ・ヴァレンタインが、護衛二名とともに一直線に通路を進み出た。

掌に抱くのは黒革の文箱。角は擦れ、留め具の真鍮が古び、だが封は生きている。黒蝋に押された印璽が、光を受けて鈍く艶めいた。


場がざわめいた。

合議席の中央、軍法卿エドヴァルトが椅子の背からゆっくり身を起こす。


「傍聴席からの乱入は軍律に反する。——そなた、理由を述べよ。」


ミーシャは箱を胸元から離し、まっすぐ判官台を仰いだ。


「新証拠の提出を求めます。東の回廊の兵力抽出と、帝国軍進発との連動を示す盟約状……被告バジル将軍と帝国西辺境伯が交わした密約書です。」


石壁が鳴ったのかと思うほどの、低いどよめき。

被告席のバジルは、笑みを崩さぬまま眼底に冷えを宿した。


「——密約だと? 茶番を。」


「鎮まれ。」エドヴァルトが槌を一打。

近衛の執行吏がミーシャから文箱を受け取り、検視台へ。封蝋は黒——だが縁に僅かな藍の粒。

昨日、鍛冶工が言及した“青銀コバルト”の微光が、確かにあった。


記録官が封の文言を読み上げる。「王都軍務院提出のため押印、封鎖、搬送の経路は——東市門より直入、連絡号:α-27……」


エドヴァルトが頷く。「封を解け。——慎重に。」


細い刃が封蝋を割り、空気が一つ、古紙の匂いを吐き出した。

羊皮紙が三枚。第一葉に帝国式の縦列署名、第二葉に勘定条項、第三葉は付帯暗号。


控訴官マルタが前に出る。「閲読を許可願います。」


許可。

マルタの声が、乾いた法廷に針のように降る。


「——第一条。『王国東回廊の守備兵を一万から七千へ削減し、北支点に千五百を残置、救援の遅延を誘うこと』

 第二条。『帝国軍は南北二手に分進し、王国反応の分散を図ること』

 第三条。『作戦完遂の暁には、被署名者“B.”に金貨二十箱を支給し、帝国騎士爵を与えること』」


静寂が、刃物になった。

傍聴席で思わず息を呑む音が連鎖する。

バジルの指輪が、初めて音を立てて卓に触れた。


「偽造だ。」バジルが低く吐く。「帝国式の文言など、いくらでも真似できる。」


ミーシャは一歩、前に出た。

鞘口にかけた手を、ぐっと握り締めて外す。その声は、剣ではなく言葉の刃だった。


「偽造であれば——暗号付帯条項を解けるはずがない。」


第三葉。

紙面の下縁に、斜めの点が散らばるだけのように見える箇所がある。

マルタが机上の透明石を被せ、下から灯を入れた。

見えないはずの文字が、滲むように姿を結ぶ。


「帝国宮内で使われる“転置格子”。——解読鍵がなければ読み取れない。」

マルタは、視線だけでミーシャに問うた。鍵は?


ミーシャは頷き、第二の小箱を差し出す。

内部には、細い銀の枠——格子。

枠を第三葉に重ねる。抜き窓の位置にぴたり、文が現れる。


> 『搬入は王都南門兵站庫、銀貨二十箱を“月桂樽”の印で偽装し、三日月の夜に受け渡す。——沿岸の灯台を二度消し、三度灯せ。』




合議席のアグナが、険しい目で兵站記録の冊子をめくった。

指が止まる。


「……三日前、南門兵站庫で“月桂樽”の印の樽が二十、搬出記録あり。宛先は——将軍直轄十五号車列。」


空気が震えた。

リシュリュがバジルへ顔を向ける。「将軍、説明があるか。」


バジルは、唇だけで笑った。

だがその笑みは、今度は長く保てない。


「兵站庫から受け取ったのは乾糧と薬剤だ。印は——倉庫側の誤りだろう。」


ミーシャが、すぐさま被せる。「“月桂樽”の焼き印は、火印梁に吊るされた刻印板で押します。倉庫長の裁量では替えられない。——倉庫長、証人席へ。」


呼ばれた男は、汗で前髪を額に貼り付けながら証言台に立った。


「焼き印は、毎朝、私が鍵を受け取り、夕刻に返します。三日前、“月桂樽”の板は……『将軍のご命令で』と、バジル幕僚の御方が持ち出されました。」


法廷が一斉に吸い込んだ息を、吐けずにいる。

エドヴァルトが静かに、しかし確実に告げた。


「筆跡鑑定官。」


灰色の上衣の老女が呼ばれる。

彼女は帝国と王国双方の書式に通じ、紙と筆の癖から人を当てる“目”を持つ。


老女は第一葉を撫で、署名“Basil”の“s”の尾に触れる。「——この尾の返し、王都式ではありえん角度だ。帝国式の書き手が“王都風に擬態”した跡が見える。……だが、ここだ。」


老女は、第二葉の勘定条項を指さす。「『金貨二十箱』の“二十”。“二”の上がりで筆圧が跳ねる癖。——被告、あなたは王都での全ての報告書に、この跳ねを残している。」


バジルの指が止まる。

合議席の三人が、同時に視線を交わした。


沈黙。

遠くの天窓に、曇天の裂け目が走り、白い光が一筋落ちる。

埃が金粉のように漂い、時間が固まる。


やがて——エドヴァルトが槌を打った。


「新証拠は真正と推定し、採用する。被告側の反証機会を与えるが——本件は軍律第九条『兵員棄却』のみならず、第十二条『敵対勢力との通謀』に関する重大事案と認め、審理範囲を拡張する。」


バジルが立ち上がる。礼装の裾が、わずかに震えた。


「——陛下の許しなく、私を売国奴扱いとなさるのか?」


合議席の背後、王国紋章の旗が無言で揺れた。

リシュリュの声は、刃の裏のように冷たい。


「陛下が国法の外に立たれたことは一度もない。ここは軍法の座、すべての剣の柄はここに置かれる。」


そのときだ。

傍聴席の陰、石柱の影から、一人の女騎士が進み出た。

胸甲に焼け跡、左腕に包帯——ジェシカ。


「発言を許可願います。」


エドヴァルトが頷く。

ジェシカは、真正面からバジルを見た。


「——あなたの命令で、千五百は支点に残った。『日没まで持て』と。……あの“日没”は、どこの空でしたか。王都の、帝国の、それともあなた一人の胸の内の。」


バジルは口を開きかけ、閉じた。

石の箱のような法廷が、彼の沈黙の形を記憶した。


ミーシャが、文箱の蓋を静かに閉じる音が、落款のように響いた。


「——陛下の御名の下に、兵を売った者がいるなら、私は剣でなく、この法で斬る。」


エドヴァルトが最後の一打を落とす。


「評議へ入る。——判決は本日、日没前。」


砂時計が返され、細砂がまた流れ始めた。

誰も座らない。誰も瞬きをしない。

日没という言葉が、この部屋のすべての心臓に、同じ拍を刻んだ。


日没前、軍務院法廷。

天窓から斜めに差す光が薄金の帯になって、浮遊する埃と旗の縁をゆっくり染めていた。観覧席は立ち上がったまま息を詰め、合議判官の槌が三度、石卓を打つ。


「被告バジル・グレイ、軍律第九条『兵員棄却』、第十二条『敵対勢力との通謀』、いずれも有罪。

 主文——死刑。」


音のない衝撃が広間全体を押し下げ、次の瞬間、小さなざわめきが一斉に立つ。旗がわずかに揺れ、天窓の光が細く傾いた。バジルは何も言わない。指輪を回す癖だけを一度、空しく空中でやって、衛兵に両脇を取られた。


「——連行。」


鉄靴が床を刻む。扉が閉まる刹那、廊下の冷気が一筋入り、蝋燭の炎が震えた。



廊下。長い石の回廊の先、天井の梁に取り付けられた燭台が等間隔に灯り、壁の紋章が橙に浮かぶ。軍法廷から溢れ出た人波が左右に割れ、静かな空隙が生まれた。そこに、黒い外套の男が寄りかかるように立っている。


カーヴェルだった。


ミーシャが足を止め、深く一礼する。隣でジェシカが胸甲の留め具を外しながら、ふっと笑った。


「——やっぱり、あなたよね。」


カーヴェルは肩をすくめた。「何の話だ?」


ミーシャは視線だけで法廷を振り返る。「鍵——暗号格子を、誰が彼女(検察)に渡せたのか。南門兵站庫の“月桂樽”の印の癖を、誰が先に気づいたのか。……偶然には見えません。」


「勘のいい団長は好きだよ。」カーヴェルは淡々と言って、壁から背を離した。「でも、判決を出したのはあの三人だ。俺じゃない。」


ジェシカが一歩、近づく。外套の影から見上げる瞳は、戦場で鋼を通すときのそれではなく、どこかほどけた柔らかさを含んでいた。


「——助けられたのは、私たちです。東の支点で、私たちが信じた『救援』は、今日、やっと届いた。」


カーヴェルは首を横に振る。「届かせたのは、お前の証言と言葉だ。法廷は剣より重い。」


「屁理屈。」ジェシカは短く笑う。「でも、好き。」


ミーシャが小さく咳払いをして、表情を引き締めた。「カーヴェル様。……ありがとう。私は剣で守ることしか知らなかった。けれど、今日、法で守られることの重さを、初めて知りました。」


「覚えておくといい。」カーヴェルは歩き出しながら言う。「剣は目に見える。法は見えにくい。見えにくいものほど、折れやすい。」


「だから支える人が必要、ですね。」ミーシャが並ぶ。


「そう。面倒だけどな。」



回廊の途中、天窓の下。夕陽が梁の影を長く伸ばし、足音が石に吸われる。遠くで鐘が一度、低く鳴った。ジェシカが立ち止まり、言葉を探すように唇を結ぶ。


「……東の夜、私は兵に『日没まで持て』と言った。あの言葉が、喉に刺さって抜けなかった。

 でも、今日の“日没前の判決”で、ようやく抜けた気がする。」


カーヴェルは短く目を細めた。「よく戦った。」


「戦ったのは——あなたもでしょう。」ジェシカは一歩、踏み出す。「剣じゃなく、裏側で。」


カーヴェルが何か言う前に、ジェシカはぐっと腕を回して抱きついた。甲冑の金具が小さく鳴る。回廊の灯が彼女の髪に反射して、銅色の光が揺れた。


「……ありがとう。」


囁きのような声のあと、ジェシカは背伸びして、長いキスをした。

最初はそっと、やがて確かめるように。石壁に当たる蝋燭の光が静かに点滅し、廊下を渡る微かな風が、二人の外套の裾を揺らす。


「こほん。」ミーシャが視線を逸らし、わざとらしく咳き込む。「ここ、王宮の回廊です。誰か来ます。」


ジェシカは目を開け、額を彼の胸に預けたまま息を整える。「——団長。少し、だけ。」


「“少し”は長くなる。」ミーシャが苦笑する。


カーヴェルは、抱きしめ返す手を緩めずに言った。「……落ち着いたら、ちゃんと飯を食え。裁判は体力を削る。」


「命令形、嫌いじゃないわ。」ジェシカが顔を上げ、照れ隠しに前髪を払う。「でも今は、私の番。私が言う——『食べたら、寝て。あなた、無茶をするから。』」


「了解。」カーヴェルの口元に、ようやく柔らかな笑みが載る。


ミーシャが二人に近づき、真面目な声音に戻した。「本題に戻します。王国の“裏切り者”は一人ではないはず。今日の判決で、別の誰かが動きます。」


「動く。」カーヴェルは即答する。「欲の匂いがする方角は決まっている。兵站、造幣、港湾。金と食い物と出入り口——権力は必ずそこへ集まる。」


「私が兵站の文書を洗います。」ミーシャが頷く。「王都内の補給線を、明日から再点検する。」


「私は港湾。」ジェシカが続ける。「“月桂樽”は港でも動く。印板の出入りを抑える。」


「よし。」カーヴェルは手短に指示を重ねる。「書式の統一と現物照合を分けろ。紙は嘘をつく。現物は匂いでバレる。……それと、護りを厚くしろ。今日、お前たちは“邪魔”になった。」


ミーシャとジェシカが、同時に「了解」と答えた。二人の声が重なって、回廊の石に澄んで響く。



そこへ、走り寄る軽い足音。「だ、団長!」若い女騎士が息を切らせて現れ、敬礼する。「兵站庫の倉庫長が、さきほど何者かに襲撃されました。命はありますが、鍵束が——」


ミーシャの表情が引き締まる。「護送を。鍵束の複製が出回る前に全倉庫の封を一度切り、印板を差し替える。通知は……」


「静かにな。」カーヴェルが片手を上げて遮る。「犯人は知らせを待っている。通達は口頭で、小隊単位の密令にしろ。紙は残すな。」


「了解。」ミーシャが走り出す前、振り返って短く言う。「……今夜は、ありがとうございました。」


カーヴェルは顎で合図した。「礼は要らない。——仕事だ。」


ミーシャが部下と共に駆け、回廊の角を消える。足音が遠のき、また蝋燭の小さな音だけが残る。


ジェシカは肩で息をして、もう一度だけ彼の胸に額を預けた。「行くわ。港は風が変わる。……帰ったら、続きを。」


「長くなる“少し”は、また今度だ。」カーヴェルが目を細める。


ジェシカは名残惜しそうに離れ、踵を返す。「了解、司令官殿。」


外の鐘が、日没を告げる二度目の音を落とした。

判決の夕陽が完全に沈む。旗の影が長い線を引き、灯がひとつ、またひとつ、夜の王宮にともる。

今日、剣ではなく言葉で下ろされた一太刀が、静かに、しかし確かに、王都の空気を変えていく。

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