軍事法廷
軍事法廷 ― 東の回廊事件
灰色の雲が王都の空に低く垂れ込め、鐘楼が七度、鈍い音を鳴らした。
王宮内、石造りの回廊を抜けた先にある軍務院法廷。旗紋の垂れ幕が静止した布のように重たく、床の黒大理石は磨き込まれ、映り込む顔を冷たくゆがめていた。観覧席には各師団の士官と文官が列をなし、囁きはやがて潮のように引いて、沈黙だけが満ちる。
三名の合議判官——軍法卿エドヴァルト、近衛師団長リシュリュ、兵站監アグナ——が着席し、長槌が一度、深く卓を打った。
「第十五師団副団長ジェシカ、および東の回廊防衛線指揮官バジル将軍に関する、軍律第七条『陣地放棄』並びに第九条『兵員棄却』の審理を開廷する。」
傍らの記録官が、砂時計を返す。細砂がさらさらと落ち始めた。
被告席には二人。ジェシカは背筋を伸ばし、鎖骨に汗の光だけをたたえて前を見据えていた。対して、深緑の礼装に身を包んだバジル将軍は、口元に薄い笑みを固定したまま、銀の指輪をゆっくりと回し続けている。
控訴官(検察官)として立ったのは、断罪で名を馳せる軍律局のマルタ。細身の指が一枚の書状を掲げた。黒蝋の封が割られ、紙縁は丁寧に切り揃えられている。
「まず事実経過。東の回廊の砦には当時一万五千の兵が配備。将軍バジルは、そのうち一千五百を副団長ジェシカに付けて北側の支点に残置し、自身は主力を率いて後退した。後退の根拠として、被告バジルは『西の回廊要塞からの救援要請状』を提出——本状がそれである。」
ざわり、と空気が揺れた。
バジルは穏やかに頷き、黒檀の杖をそっと傍らに置いた。
「偽りではない。わたしは王国全体の戦略を見た。東の回廊の保持より、要衝である西の回廊の救援が急務と判断したのだ。」
合議席の中央、エドヴァルトが重たく瞬きをした。「証拠の成立は後刻判断する。マルタ、続けたまえ。」
◆
第一の証人として呼ばれたのは、通信司の若い書記官であった。青い肩章が緊張で濡れている。
「——その日、確かに伝令鷹が西の回廊から届きました。封は黒蝋、要塞印は双鍵。文面には『当日の日没までに騎兵五百の派遣を請う』とあります。」
バジルの視線が勝ち誇ったように細くなる。マルタは書状を机上のランプにかざし、光を透かせた。紙の地紋が浮かび上がる。麦束の水印——王宮造幣局製の上質紙だ。
「——証人、あなたは『当日の日没まで』と言った。だが、この封蝋は未乾の痕を残したまま到達している。伝令鷹の飛行時間は西の回廊から王都で約三刻。そこからさらに東の回廊へ転送されるまで最低二刻の手続きが要る。『日没まで』という表現は、あなたが王都時刻で読み上げたのではないか?」
書記官が言葉に詰まり、喉仏が上下する。
判官席のアグナが眉をひそめた。「兵站上の時刻運用、誰が手配した?」
「バジル将軍直属の連絡幕僚です……!」
観覧席のざわめきが一段上がる。リシュリュが槌を軽く打ち、静粛を促した。
◆
次に、鍛冶工房の主任が呼ばれた。灰を含んだ声が、法廷の石壁を低く這う。
「封蝋の黒は硫黄鉄と煤を混ぜる。西の回廊要塞で用いる黒蝋には微量の青銀が入るが、これは入っていない。代わりに東の回廊近辺の坑から出る鉛灰の微粒が検出された。——つまり、この封蝋は王都か東方域で作られたものだ。」
バジルの笑みが、わずかに揺れた。
彼はすぐさま手を挙げる。「異議あり。兵站の混乱期には、封蝋の材料が不足することもある。現地調達は十分あり得る話だ。」
エドヴァルトが頷く。「異議を留保。材料由来は間接事実に留まる。」
だがマルタは引かない。続けて、紙の地紋に触れた。
「西の回廊では荒天に備え、耐湿紙を使う慣行がある。にもかかわらず、当該書状は宮内工房の上製紙。さらに双鍵印の刻印が標準より半分ほど右に寄っている。——これは宮廷書記が使う予備印の癖だ。」
法廷の空気がきしむ。
ジェシカは拳を握り、指の節が白くなった。
◆
証人席に、灰外套の老いた伝令が上がった。
長年の鷹匠であり、その眼は小さいがよく光っている。
「わしは——西の回廊からの鷹の癖を知っとる。風を嫌い、北壁を回る。あの日、王都には北東の強風が出ておった。西の要塞から王都に届くには、通常より刻を食う。東の回廊へ再配達など、とても日没までには間に合わん。」
「以上だ。」老伝令は短く礼をし、席に戻った。
◆
弁護側の番が来た。バジルの傍らに控える文官が立ち、滑らかな声を響かせる。
「——しかし、当該書状が遅延した可能性は常にある。将軍は現場で最適解を選んだ。しかも、彼は軍の主力を温存し、西の回廊と東の回廊の両面崩壊を避けたのです。副団長ジェシカに一千五百を託したのも、信頼の証左ではありませんか?」
視線がジェシカに集まる。
彼女は立ち上がり、声が震えるのを力で押し込んだ。
「——信頼なら望むところです。ですが、あの支点は『持久』ではなく『誘引』に近い配置でした。補給線は細く、退路は一本。もし魔獣の群れが南から回れば、我々は袋の鼠……。救援要請が真であれ偽であれ、その判断は兵を捨て石にするものでした。」
言葉の尾が、石壁に鋭く刺さる。
アグナが帳面に何かを記す音だけが、砂時計の細砂とともに流れた。
◆
休廷の鐘が一度鳴り、裁きの間に冷えた水が配られる。
観覧席の後方、影のように立つ黒衣の男が、組んだ腕をほどきもせず、静かに目を細めた。——カーヴェルである。
彼は一言も発さない。ただ、薄く笑みを浮かべるでもなく、石像のように動かなかった。その存在が、誰の視界にも入らないまま、法廷の温度だけを一度下げた。
◆
再開。
マルタが最後の証拠として、一枚の地図と行軍記録を広げた。
羊皮紙の上に赤い糸が二本、細工針で留められている。
「当日、将軍の主力は東から西へと転進した。だが、この経路——王都南門を経由している。東の回廊から西の要塞へ最短で向かうなら北門が常道。南門経由は、王都兵站庫を必ず通るルートだ。——将軍、あなたは一度王都へ戻り、兵站庫から銀貨と乾糧を受けた記録がある。『救援のための転進』と『王都立ち寄り』、どちらが先に決まっていた?」
合議席の三人が同時に顔を上げる。
観覧席の空気がぱん、と弾けるように張り詰めた。
バジルは、はじめて目を伏せた。
指輪を回す指が止まり、沈黙が数呼吸ぶん伸びる。
やがて彼はゆっくりと顔を上げ、品の良い微笑を取り戻した。
「将は、戦を養う者——兵站を軽視はしない。南門経由は最適化の一環。……結果は、あなたがたもご存じのとおり、王都は守られた。」
マルタはその言葉を追わなかった。
代わりにジェシカへと向き直る。
「副団長。あの夜、あなたが最後に撤収命令を見送ったとき、何を思った?」
ジェシカの瞳に、砦の火が映った。
焦げた風、血と油の匂い、耳の奥でいまだ消えない角笛。
「——残った者は、皆、国を信じていた。救援は来ると。命の使い道を、誰かが間違えないと。」
その一文は、証拠にも法条にも載らない。
けれど法廷という石の箱に、確かな重さを落とした。
◆
砂時計の砂が尽き、最後の一粒が落ちる音と同時に、軍法卿エドヴァルトが立ち上がる。
外の雲がわずかに切れ、天窓から斜めの光が差した。埃が金色に舞い、沈黙に輪郭を与える。
「評議へ入る。判決は明朝、同時刻に言い渡す。」
長槌が三度、闇を打つ。
兵士たちの踵が一斉に鳴り、席から立ち上がる衣擦れが波紋のように広がった。
バジルは微笑を崩さず、わずかに顎を上げて観衆を見渡す。
ジェシカは視線を落とし、拳を開いた。爪の痕が掌に赤く残る。
廊下に出ると、夜の冷気が薄く肺に刺さった。
遠く、城壁の上で更なる鐘が一度、低く鳴る。
王都はまだ眠らない。判決の朝まで、誰も。




