猜疑の影
朝――。
執務室の扉を開けた瞬間、長椅子に腰かけていたジェシカが跳ねるように立ち上がった。次の鼓動で、彼女はもう腕の中だ。
「……逢いたかった」
掠れた声とともに、熱が重なる。深い口づけは短く、けれど重かった。剣士の指が震えるのを、カーヴェルは背で受け止める。
「ミーシャ団長が……あなたを好きになっていると、わかるのです。私、胸が痛くて」
言葉が途切れ、瞳が潤む。ジェシカは強い。けれど、恋にだけは不器用だ。
「落ち着け、ジェシカ」
彼は額をそっと合わせる。「あれは“好意”というより、能力への敬意に近い。たとえ違っていても――不協和音は隊を壊す。いまは彼女にやってもらう仕事が多すぎる。ここで嫉妬を燃やせば、君が苦しむだけだ」
「……わかっています。わかっているのに……」
「だから俺が何度でも言う。俺は君を軽んじない。任務のときは団長と副団長、離れれば――ただの男と女だ」
ふっと、ジェシカが笑う。涙の縁がほどけた。
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午後。王都中央区――冒険者ギルド本館。
分厚い石壁と鉄格子の扉、依頼票のざわめき。つかさ一行が先に来ていて、掲示板の前でわいわいと作戦会議をしていた。ロゼリアとフェリカは、カーヴェルの姿を見つけるなり両側から抱きつく。
「旦那様っ!」
「遅いです、罰としてぎゅーっと!」
「歩けないってば」
受付に向かう。受付嬢はミール猫族――猫耳と一房の尻尾が可愛らしい。琥珀の目が書類から顔を上げ、瞬く間に丸くなる。
「――えっ……か、カーヴェルさん……ですか?」
「うん、登録を」
「は、はいぃ!」耳がぴん、と立つ。周囲の冒険者たちが雪崩のように集まってきた。
「サインください!」「握手!」「一緒にパーティー組んでください!」「カーヴェル様、ホテルで作戦会議など……?」
「抱・い・て」などと率直すぎる女まで現れ、場の温度が一気に上がる。
「近寄らないで!」ロゼリアが前に出る。
「旦那様は私たちのです!」フェリカも肩を並べる。
「いや、所有物みたいに言うのは――」と言いかけ、二人に肘で小突かれた。
慌てた受付嬢が奥の応接へ案内した。ギルド本部長カリーナ――黒髪を夜会巻きにした気風のよい美女――が出迎えるや否や、弾丸のように抱きついてきた。
「会いたかったのよ、英雄さま!貴方に全てのご奉仕させていただきます。」
「離れてくださいまし」ロゼリアがぴしり。
「どんな“ご奉仕”をするつもりか、詳しく」フェリカがにっこり笑って目が笑っていない。
「ちがっ、違いますわよ? “書類上の”ご奉仕です、たぶん、きっと!」カリーナは喉を鳴らして誤魔化した。
登録手続き。通常はFからだが――
「戦功、魔獣戦での大規模支援、無血城塞占拠、奇跡の町……複数国境の重鎮からの推薦状まで……」
カリーナはページをめくる手を止めた。「前例破りですが、ギルド理事会裁可により――初日からSSS。異論は?」
応接の空気が爆ぜる。拍手、口笛、歓声。廊下まで「SSSだってよ!」のざわめきが伝播した。
「すごい、カーヴェル様!」つかさの目がきらきらする。
「肩書は重いだけだよ」彼は肩をすくめた。
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「ねえ、また一緒にダンジョン行かない?」つかさが口火を切る。
「今回はパスだ。村の方でやることが――」
「旦那様が行かないなら、私も行きません」ロゼリア、即答。
「同じく」フェリカも腕を組む。
「いやいや、仕事で――」
つかさは椅子を引き寄せ、正面から座り直した。瞳に、剣よりまっすぐな説得の刃。
「先生」
「……またそれか」
「うん、先生。私、勇者って名札を持ってるだけの半人前です。あの連携、あの判断、あの“間”。現場でしか学べないことが、山ほどある。カーヴェル様が隣にいてくれたら、私たちきっと――死なない。誰も」
横からアルトルがうなずく。「あんたの“先読み”が、俺たちの命の保険だ」
ホフランも静かに続く。「索敵は伸びたが、師の視界は別物だ」
アルファームは微笑む。「槍や剣の振りもそうだが、退きどころを教わりたいの」
「……俺が行かないと、二人(嫁)も動かないらしいしな」
「はい」ロゼリア。
「当然です」フェリカ。
「お前らな」
説得はその後も続いた。
カリーナはギルド側の利点を並べ立てる。「SSSが同行する依頼は賠償保険の料率が下がるんですの! うちの営業的にも!」
受付のミール猫嬢は猫耳をぱたぱた。「ですです! ギルド評判、跳ね上がりですニャ!」
周囲の冒険者は勝手に合いの手。「道中の酒代は持つ!」「俺の昼飯も!」「それ自分の!」と収拾がつかなくなる。
ややあって――カーヴェルは息を吐いた。
「条件がある」
円卓の空気が固まる。
「一、日没までに安全圏へ戻る“日界ルール”。夜営は屋内(俺の屋敷)以外なし。
二、毎日正午に村へ念話チェックイン。アンジェロッテとの約束は破らない。
三、戦闘は“学び”が主目的。無駄な殺生はしない。撤退判断は俺が最終決定。
四、帰還期限は三日。延長は合議だ」
「――承知!」つかさが立ち上がり、深々と頭を下げた。
「旦那様最高!」ロゼリアとフェリカが両側から抱きつく。
「やれやれ」苦笑しつつ、彼はそっと二人の頭を撫でた。
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応接を出ると、廊下に人垣。サインと握手の列。
「順番だ、押すな。……え、抱くのはダメだ」
「サインだけでいいんです、サインだけでっ!」
ミール猫嬢が必死に交通整理をする。「にゃ、ニャらんでください~!」
つかさは少し離れた柱影で、その光景を見ていた。
(比べて焦ることはない――って、先生は言った。なら、私は私の剣で恩に報いる)
腰の新しい日本刀を撫で、ちいさく鞘口を鳴らす。飛ぶ斬撃の気配が、ごく薄く空気を震わせた。
ジェシカは――ギルドの喧噪を背に、己の胸を撫で下ろしていた。
(ミーシャと私の間に、亀裂を作らない……それが、彼の望み。なら私は副団長として、やるべきをやる)
そして、恋する女としては――彼の頬に残る口紅を、こっそり指で拭った。
「……ふふ。証拠隠滅です」
廊下の先で、カーヴェルが振り返る。
目が合った。
それだけで、今日が少し救われる。
「行くぞ。装備を整えて、明日には一度村へ戻る」
「了解!」
仲間たちの返事が重なり、王都の空へと跳ね上がった。
次のダンジョン行――“日界ルール”付きの、学びの遠征が始まる。
玉座の間には朝の光が斜めに差し込み、深紅の絨毯に金糸の刺繍が浮かんでいた。
宰相アルビデール・クラウスは、いつもより早い歩調で進み、片膝をつくと頭を垂れた。
「陛下――急ぎの奏上にござります」
「顔を上げよ、アルビデール。よほどのことと見える」
宰相は一度、乾いた喉を整えるように息を吸った。
「カーヴェル殿は……女神の使徒に相違ございませぬ」
玉座脇で控える重臣たちがざわめいた。王ハインリヒ・ブルーターノは眉をひそめたまま、続きを促すだけで口を挟まない。
「昨夜、この目で見ました。女神アルフェエル様が、カーヴェル殿の前に現れ、直々に言葉を交わされました。
『次はありませんよ、カーヴェル』――厳しくも親しみの残る口調で。
カーヴェル殿は『はい、女神様』と膝を折り、畏れておりました。幻影や詐術ではございませぬ。あの場の空気は、祈堂で千日座しても触れ得ぬような、神威の圧でした」
王はゆっくりと背凭れから身を起こした。
「……余が女神の末裔と聞かされた時は、半信半疑であった。だが、そなたがそう言うか」
宰相は深く頷く。
「はい。加えて、女神は我ら王家を『護られるべき系譜』とお呼びでした。カーヴェル殿は、その神意に従い、帝国との戦や魔獣禍を、血を流さずに鎮める道を探っておられます」
重臣のひとりが口を尖らせた。「しかし、たまたまの僥倖ということも……」
宰相はすぐに切り返す。「無血占領、三万の転移帰還、奇跡の町。三つ並べて“たまたま”では、国の帳簿が保ちませぬ」
王は小さく笑った。
「アルビデール、そなたが他者をここまで持ち上げるのは珍しいな」
「陛下の国を護るためとあらば、わたくしの矜持など安いもの。疑って確かめ、確かめてなお疑うのが職分にござる。――それでも、今回は“信”を置くべきと進言いたします」
玉座の下の空気が変わった。王は右手をひらりと上げ、ざわめきを静める。
「よい。では決める。
第一に――カーヴェル・プリズマンを客将として公式に遇する勅令を改めて布告する。侵略戦には関わらぬという彼の条件はそのまま認め、防衛・救難・鎮撫の権限は広く与える。
第二に――監視と称する尾行・内偵はすべて停止。ただし連絡役は要る。第十五師団長ミーシャを連絡・調整官に任ずる。働きは見事であった。
第三に――神慮に関わる件は、当座は極秘。王・宰相・近侍数名に限る。広めれば、派閥が“神の取り合い”を始める。宗廟にも後日、密かに相談する。よいな」
「御意!」と声が重なった。
王はさらに続ける。
「第四。緊急時に限り、客将カーヴェルの戦術判断を最終決裁に準ずる扱いとする。現場の判断の遅延が、民を殺す。合議はする、が“責任の所在”を曖昧にはせぬ」
文武の重臣たちが顔を見合わせる。抵抗の色は薄かった。奇跡の連続が、彼らの現実感を塗り替えつつある。
宰相は一歩進み出た。
「陛下、最後に一つ。女神の血脈に関しては、いまは“足場”に留め置かれませ。権威は力になると同時に、毒にもなります。――ゆえに、王家の振る舞いは謙抑に。『神の子だから命じる』ではなく、『民のために神意を畏れる』であられますよう」
王は目を細め、深く頷いた。
「心得た。余は、神の名で誰かを打たぬ。民を守るために、神を畏れる王であろう」
その時、侍従が青い飾緒の文箱を運んできた。王は蓋を開け、金印の用意を確かめる。
「アルビデール、勅書を起草せよ。文言は簡潔に――“客将、国難あらばこれを救う”。また、礼部に命じる。女神に捧げる鎮謝の祭を、ひっそりと、しかし丁重に整えよ。民の目には“収穫祭の奉納”と見せればよい」
「はっ」
最後に、王は小さく息を吐いた。肩から、長らく貼りついていた猜疑の影が剥がれ落ちる。
「……よいか、諸卿。余は、カーヴェル殿を疑う王ではない。託された王である」
玉座の間に、静かな合唱のように「御意」が広がった。
その響きは、国の針路がわずかに、しかし確かに切り替わったことを告げていた。




