十秒
やがて、一行は大型の馬車に乗り込み、出発の時を迎えた。
木のきしむ音と蹄の振動が車体を揺らし、室内にはそれぞれの息遣いが交錯する。
「さて……魔獣が頻発している原因。必ず突き止めなくてはなりません」
つかさが口火を切り、真剣な眼差しを全員に向けた。
「森の異変は私も感じているわ」アルファームが腕を組み、重々しく続ける。「自然の流れが歪んでいる。魔力の潮流が乱れているのだ」
「やっぱり魔獣の増加はその影響なんですね……」マリアが不安げに視線を落とす。
サーシャは隣のアンに手を置き、「でも大丈夫。私たちがいるもの」と励ますように微笑んだ。
アンは少し頬を赤らめ、小さく「うん」と答える。
クロエとナーリアは窓際に座り、村の景色が遠ざかっていくのをじっと見つめていた。
「……また帰ってこれるといいね」ナーリアが呟くと、クロエは小さく頷くだけだった。
一方、カリスタは腕を組みながら無言で周囲を観察し続けていた。
「転移……か。面倒な相手が出てきたものだ」
独り言のように吐き捨てる。
ロゼリアはそんな空気を和ませようと、わざと明るく声を上げた。
「でもまぁ、仲間がこんなに揃ってるんだし、負ける気はしないわ!」
「根拠のない自信も時には大切です」フェリカが穏やかに微笑む。
アルトルは警戒心を隠さず、剣の柄に指を添えたまま低く言った。
「……楽観は禁物だ。敵はすでにこちらの動きを読んでいる可能性がある」
「フン。だが戦う覚悟があるなら、それで十分だ」ホフランが豪快に笑い、場の緊張を少しだけ和らげた。
そして、カーヴェル。
彼は窓の外を見つめたまま、無言で拳を握り続けていた。
アンジェロッテの小さな手の温もりが、まだ手のひらに残っている。
ミーシャはそんな彼を一瞥し、何も言わず視線を伏せた。
彼女の脳裏には、あの不可解な転移魔法の残滓が焼きついて離れない。
――馬車は揺れながら、やがて深い森の方角へと進んでいった。
その胸中に不安と決意を抱えたまま、一行の旅は始まるのであった。
馬車の列が森の奥を進み、やがて大きな木々の残骸が無造作に横たわり道を塞いでいた。根の張り出しは巨大な岩のように固く、幹はまるで砦の壁のように馬車の進路を閉ざしている。女騎士団の面々は馬を止め、鎧の音を響かせながら剣や斧を手にした。
「これは……一日がかりでも処理できるかどうか……」
「伐採だけで済む問題ではありません、根が深すぎます。」
彼女たちの声には焦りが混じっていた。森の道は限られている。迂回するにも数日かかるであろう。
そんな中、カーヴェルは馬車の中で退屈そうに欠伸をした後、軽く指を鳴らした。
――パチン。
瞬間、残骸の木々が大きく震えたかと思うと、見えない手に鷲掴みにされたかのように根こそぎ持ち上げられ、まるで雑草を引き抜くような軽さで空中に放り出された。巨大な大木が信じがたい軌道を描き、道端へと次々に叩きつけられる。その衝撃で地面が揺れ、枝葉が宙を舞った。
「なっ……!」
「嘘でしょう……あんな巨木を……!」
女騎士たちは驚愕の声を上げ、思わず剣を取り落とす者すらいた。彼女たちにとって大木は自然の猛威であり、伐採にも数十人規模の人手が必要なものだ。それを、指先ひとつで片付けたのだ。
しかし、つかさのパーティーメンバーは動じることなく、それを当然の光景として受け止めていた。
「……ああ、またやったね。」
「相変わらず容赦ない。」
彼らの態度は「予想通り」という顔つきで、逆に女騎士団の方が異常さを強く感じてしまう。
さらにカーヴェルは軽く片手を振ると、今度は大地が低く唸りを上げ始めた。石や砂が勝手に組み合わされ、波のように均されていく。瞬く間にデコボコだった獣道は舗装された街道のごとく滑らかに整い、馬車の車輪は一切の抵抗なく進めるようになった。
女騎士団の視線は呆然としたまま、その光景を見つめる。
「……道が……整備された?」
「……魔術……? いや、あんな術式見たことが……」
馬上で一人、ミーシャは無意識に拳を握り締めていた。
彼女の中に走ったのは感嘆ではない。――危機感だった。
(……あり得ない。木々を根こそぎにする力も、地形を変える術も……私が知る限り、この王国どころか大陸全土にそんな魔術は存在しない。もし、これが常時扱える力なら……)
彼女はちらりとカーヴェルを盗み見た。彼は何事もなかったかのように無表情で馬車に腰を掛け、退屈そうに空を眺めている。だが、その何気ない仕草が逆に恐ろしい。――まるで、この規模の魔術を自分にとって呼吸のような日常の一部にしているかのようだ。
(……王が言っていたのは、このことか。彼の力を見極めよと……。捜索任務など口実にすぎない。あれほどの力……制御できる者が存在しなければ、国すら揺らぐ……)
ミーシャの心臓は早鐘を打つ。女騎士団の者たちが呆然とする横で、彼女だけは違う意味で緊張を募らせていた。
(カーヴェル……あなたは一体、何者なの……?)
――舗装されたばかりの道を、馬車の列はゆっくりと進み出した。
馬車は整えられた道を進み続けていた。女騎士たちは、先ほどまでの呆然とした表情が次第に興奮へと変わり、誰からともなくカーヴェルへ矢継ぎ早に質問を浴びせかけ始めた。
「今のは風魔法ですか? それとも土属性の応用ですか?」
「指を鳴らしただけであんな巨木を……詠唱がなかったのに!」
「重力……? そんな魔術が存在するなんて……!」
女騎士たちの目は輝き、まるで憧れの英雄に出会った少女のような熱を帯びていた。カーヴェルは深いため息をひとつつき、内心では鬱陶しいと思いつつも、適当に手短に応じていく。
「ただの応用だ」
「詠唱なんて必要ない、時間の無駄だ」
「重力? まあ、そう呼ぶなら呼べばいい」
その一言一言がまた彼女たちの驚嘆を誘い、さらに質問が重なっていく。
しかし、そんな光景をロゼリアとフェリカは冷ややかに眺めていた。2人にとって、カーヴェルと会話を交わす時間は特別なものであり、他の騎士たちが当然のように彼に群がり、言葉を引き出していることが不快で仕方なかった。彼女たちの胸には、他者には触れさせたくない“特権”を侵されたような感覚が広がっていた。
その空気を切り裂いたのはマリアの声だった。
「……カーヴェル様。率直にお伺いします。あの魔獣、もしカーヴェル様お一人で挑んでおられたなら――ひとりで討伐できたのではありませんか?」
馬車の空気が一瞬にして凍りついた。女騎士たちのざわめきが止まり、つかさの仲間たちは何事もないかのように沈黙を保つ。
カーヴェルは一瞬だけ視線を宙に漂わせ、気だるそうに答えた。
「……十秒あればな」
その言葉が放たれた瞬間、場は静まり返った。誰もが口を閉ざし、息を呑む音すら聞こえそうだった。
「……っ!」
ミーシャは思わず座席に手をつき、倒れ込みそうになる。十秒――その数字の意味を理解するほど、彼女は戦場を知っていた。常識では考えられない。いや、常識どころか人の域を超えている。頭に浮かぶのは神か、あるいは伝説に語られる魔王の存在だけだった。
しかし沈黙を破ったのは、まだ若い騎士のカリスタだった。彼女は震える声を抑えながらも、どうしても訊かずにはいられなかった。
「……そ、その……もし、ですけど……その十秒で……どんな魔法を……使って倒すのですか?」
カーヴェルはちらりと彼女を見やり、口元をわずかに歪める。だが、答えはあっさりとかわされた。
「……いずれ、その時が来るだろう」
はぐらかすような言葉。けれど、そこに込められた確信の響きが、かえって彼の底知れぬ力を証明していた。
女騎士たちは誰一人言葉を継げず、ただただ無言のまま、揺れる馬車の中で己の鼓動の速さを感じていた。
――まるで、この男は人ではない。
そんな疑念が、誰もが口にせずとも胸に渦巻いていた。
馬車の車輪は、カーヴェルが整えた石畳のような道を滑るように進んでいた。
森の中とは思えぬほど快適で、揺れひとつ感じない。
それでも空気の張りつめたような静寂は続いていた。
先ほどの「十秒あれば」というカーヴェルの言葉が、誰の耳にも重く響いていたからだ。
ミーシャは唇を噛み、窓の外に視線を逸らした。
――神か、魔王か。
どちらであろうとも、常識で測れる存在ではない。胸の奥で、警鐘が鳴り続けていた。
ロゼリアは落ち着いた面持ちを装いながらも、内心は穏やかではなかった。
「わたくし達以外の者が……彼に触れるのは許せない」
彼女の隣に座るフェリカもまた同じ思いで、無言のまま腕を組み、鋭い視線を女騎士たちへと投げていた。
一方、質問を投げかけたマリアは顔を赤らめ、しきりに視線を伏せていた。
軽々しく問いかけたことを後悔し、だが同時に「十秒」という言葉の意味に抗えぬほど心を奪われていた。
沈黙を破ったのは、やはりカリスタであった。
「……いずれ、その時は来るだろう、ですか」
彼女の声は柔らかいが、その奥には鋭い探究心が宿っていた。
「つまり、まだ見せるべき時ではないと?」
カーヴェルは目を細めて、肩を竦める。
「お前たちが想像しているほど大層なものじゃない。だが、見せたところで理解できるかは別の話だな」
その答えに、女騎士団の面々はさらに息を呑んだ。
言葉の端々に漂う余裕、そして「理解できない」という断言。
彼らの世界を超えた領域に、カーヴェルが立っていることを思い知らされたからだ。
馬車の中は、再び静まり返る。
ただ、馬の蹄の音と、風に揺れる木々のざわめきだけが響いていた。
――その沈黙を、いつまでも続けさせてはくれまい。
胸中でそう呟いたミーシャは、僅かに身を乗り出し、カーヴェルを見据えた。
「……カーヴェル殿。ひとつだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
馬車に乗る全員の視線が彼女へと集まった。
ロゼリアとフェリカの眉がぴくりと動く。
カーヴェルは無関心そうに片眉を上げた。
「なんだ」
「……あなたは、一体、何者なのですか?」
――馬車の時間が止まったかのように、空気が凍りついた。
馬車の中は一瞬、緊張と静寂に包まれた。
ミーシャの鋭い視線がカーヴェルを貫くが、彼はその瞳を冷静に受け止め、淡々と口を開いた。
「ミーシャ、俺をどう見ている?」
問い返され、ミーシャは言葉を失う。
「神か? 悪魔か?」
その言葉の響きは、馬車の木の振動さえも飲み込むように重かった。
「……」
ミーシャは口を閉ざし、ただ沈黙するしかなかった。
カーヴェルは肩を軽くすくめ、微笑むように続ける。
「もし俺が神なら、全ての戦争を止め、命あるもの全てが平穏に暮らせる世界を作るだろう。
悪魔なら、破壊の限りを尽くし、ここにいる誰も無事ではいられない」
その言葉に、ミーシャはさらに沈黙する。
彼の冷徹さと同時に、人間離れした力への畏怖が胸に渦巻いた。
「仲間たちは口にしたが、俺はこう言おう――伝説のエリクサーを飲んだだけの人間だ。魔力が爆発的に増した、それだけだ」
その瞬間、空気がほんのりと温かくなる。
ロゼリアが不意に声を上げた。
「だから、旦那様はいい匂いがするのよ」
フェリカも頷き、低く甘い声で付け加える。
「そう、この匂いがたまらない」
女騎士たちは興味津々にカーヴェルの周囲へ近づき、まるで空気を嗅ぐように彼の匂いを確認しようとする。
だが、ロゼリアとフェリカはすかさず身を乗り出し、鋭く声を上げる。
「近づくなっ!」
カーヴェルは微笑みながら肩を竦める。
「ふむ、まあ、これは仕方ないか」
ミーシャはその様子を冷静に見つめ、心中で考えた。
――確かに、カーヴェルの言う通りだ。もし彼が神であれば、全ての戦争を止められただろう。悪魔であれば、我々はこの場に存在していられない。
彼の人間性も、行動も、力も――全てが計り知れぬ存在だ。
馬車の中は再び静寂に包まれる。だが、その沈黙は恐怖でもなく、威圧でもなく、どこか神秘的な安堵感と尊敬が入り混じった重みを帯びていた。
夕方の陽が森の木々をオレンジ色に染めるころ、カーヴェルは静かにマジックバッグを地面に置いた。
「さて、野営の準備をするか」
しかし、その動作の先にはいつもとは違うスケールが待っていた。
カーヴェルがバッグを開くと、中からは巨大な屋敷が姿を現した。壁は重厚な木材と石造りで、30人以上が余裕で過ごせる広さ。屋根はきらめく金属製、窓からは暖かな光が漏れ、まるで小さな城そのものだ。
ミーシャと女騎士たちは目を丸くし、驚きの声を上げた。
「こんな……どうやって……?」
「まるで魔法……」
カーヴェルは微笑みながら説明する。
「このマジックバッグがあれば、必要なものは何でも詰め込める。野営の煩わしさは一切ない」
女騎士たちは唖然とし、言葉を失ったまま屋敷内を見回す。
カーヴェルは案内役として手を差し伸べる。
「こちらが寝室、キッチンはあちら。水洗トイレ、大浴場も完備している」
つかさ、アルトル、アルファーム、ホフランも興味津々で部屋を巡る。
ロゼリアとフェリカは目を輝かせ、特に大浴場に目を奪われる。
「まるで高級ホテルみたい!」
女騎士たちも歓声をあげ、部屋やラウンジを確認しながら、時折お互いの顔を見合わせて喜びを分かち合った。
ミーシャもまた微笑みながら頷く。
「……快適すぎる。これなら長期任務でも問題ない」
やがて夜が深まり、豪華な食事を全員で囲む時間となった。香ばしい肉料理、濃厚なスープ、新鮮な野菜が並び、暖かい火の光の下、和やかな雰囲気が広がる。
カーヴェルは静かに飲み物を口に運び、周囲の視線に気づき微笑む。
ロゼリアとフェリカはカーヴェルの手をそっと取り、3人きりの部屋へと連れ出す。その様子を見た女騎士たちは思わずため息を漏らす。
「羨ましい……」
「やっぱり特権者ね」
残った面々はラウンジに集まり、談義が始まった。
つかさ、アルトル、アルファーム、ホフランは戦略や魔獣の行動について意見を交わす。
ミーシャは冷静にその意見をまとめ、必要な指示を整理する。
マリア、サーシャ、アン、クロエ、ナーリア、カリスタは、カーヴェルの魔術や過去の活躍について興味津々に話題を広げた。
ラウンジ内は笑い声や歓声、そして時折真剣な声が入り混じる。
カーヴェルは静かにその様子を見守りながら、仲間たちの結束力を改めて確認する。
「さて、明日はいよいよ現地プレートムーンに到着だ」
カーヴェルは小さく呟き、ラウンジのざわめきに耳を傾ける。
誰も知らないが、この夜の団欒こそ、次なる戦いに向けた力の源になるのだった。




