捜索任務
カーヴェルの執務室に、控えめながらも確かな足音が近づいてきた。扉が二度、軽くノックされる。
「失礼します」
入ってきたのはつかさだった。軍服の襟をきちんと整え、真剣な面持ちで二人に向き合う。その背後には従者の気配もなく、彼女自身が決意して来たことが分かる。
「カーヴェル殿。魔獣出没の件については、すでに報告を受けておられるかと思います」
「……ああ。国境沿いの森で目撃されたって話だな。だが、それを調べるのは辺境警備隊の仕事だろう?」
カーヴェルはわざとらしく腕を組み、目を伏せる。声色は冷淡にすら聞こえ、まるで自分には関係のないとでも言いたげだった。
つかさは怯まず一歩踏み出した。
「確かに、通常であればそうでしょう。しかし、今回は異例です。魔獣の出没頻度が異常に高く、さらに痕跡からは、ただの野生とは思えない行動が確認されています。何者かに誘導されている可能性があるのです」
ジェシカが息をのむ。「誘導……?」
つかさは頷いた。「ええ。そこで、王国軍上層部は、今回の捜索任務に私の隊を当てることを決定しました。しかし……これだけでは人手が足りません。それに、ただの数合わせではなく、実戦で経験豊富な人物が必要です。だからこそ、カーヴェル殿、あなたの力を借りたいのです」
カーヴェルは鼻で笑った。
「俺を便利屋か何かと勘違いしてないか? 俺は戦場で好き勝手暴れるのは得意だが、魔獣狩りなんぞに首を突っ込む趣味はない」
その拒絶に、つかさの眉間に皺が寄った。しかし、すぐに言葉を飲み込み、丁寧に言葉を紡ぐ。
「確かにあなたにとっては退屈かもしれません。しかし、これは単なる魔獣騒ぎではないのです。もし背後に帝国や魔族の干渉があるとしたら、事は国境紛争に発展するかもしれません。そうなれば――」
「……そうなれば、王国は混乱に陥る」ジェシカが続けた。
「だから、カーヴェル様。お願いします。私も一緒に行きますから」
カーヴェルはその言葉に顔を上げ、ジェシカをじっと見つめた。彼女の瞳は真剣そのものだった。
「おいおい、ジェシカ。お前まで何を言ってるんだ。俺を動かすためにわざわざ自分を盾にするつもりか?」
ジェシカは頬を赤らめたが、視線を逸らさずに答えた。
「私はまだ経験が足りないって……あなたにそう言われました。だからこそ、こういう実戦に加わって力をつけたい。あなたと一緒に」
その言葉に、カーヴェルの口元がわずかに緩む。
「はぁ……お前たち、揃いも揃って真面目すぎる」
つかさが食い下がる。「真面目でなければ、この国は守れません。……お願いです、カーヴェル殿。これはあなたにしか頼めない任務なのです」
室内には短い沈黙が落ちた。カーヴェルは椅子に深く腰を掛け、視線を天井にやった。まるで面倒な子供にせがまれている親のようだ。
「……ったく。お前らにそこまで言われると、断る理由もなくなるじゃないか」
ジェシカが小さく息を吐き、ほっと安堵の色を浮かべた。つかさも深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、カーヴェル殿」
「勘違いするなよ」カーヴェルが指を立てる。
「これはお前らがしつこかったからだ。俺の気まぐれで手伝ってやるだけだ。……ただし、一つだけ条件がある」
「条件?」ジェシカが問い返す。
カーヴェルは口元に不敵な笑みを浮かべた。
「俺の足を引っ張るな。それが守れないなら、森の奥に置いて帰る」
その挑発めいた言葉に、ジェシカは真っ赤になって声を張り上げた。
「誰が足を引っ張るもんですか! 私だって副団長なんですから!」
つかさは苦笑しながらも、心の中では確かな手応えを感じていた。
――これで、カーヴェルを戦線に引きずり出せた。
カーヴェル「そういえば、ミーシャ団長の許可もらわなきゃなんじゃないのか?」
ジェシカ「そうですね 掛け合ってきます。」
ジェシカはすぐさま執務室へと向かった。扉の前で深呼吸を一つし、ノックをして中へ入る。そこでは団長ミーシャが、山積みの文書を処理しながら待っていた。
ジェシカ「団長、お願いがございます。今回の魔獣捜索任務に、私を――つかさ殿のパーティーに同行させていただきたいのです」
ミーシャは手を止め、視線だけをジェシカに向けた。
ミーシャ「……断る」
その一言は、まるで氷のように冷たかった。
ジェシカ「なぜですか!? 魔獣の出没原因を探る任務は重大です。副団長として私が動けば、きっと役立てます!」
ミーシャ「役立つかどうかではない。お前は第15騎士団の副団長だ。今は士気が上がり始めたばかり。そんな時にお前が抜ければ、指揮が乱れる」
ジェシカ「ですが――」
ミーシャ「それに、現場に赴くのは私だ。団長である私が直々に同行すれば、軍全体への示威ともなる。兵士たちにとっても安心材料となろう」
ジェシカの拳は震えていた。自分は置いて行かれる。自分はまだ信用されていない。そんな思いが胸を焼く。
ジェシカ「……団長は、私を信じていないのですか」
ミーシャ「信じていないわけではない。お前がまだ経験不足だと言っているのだ」
ジェシカ「経験不足だからこそ、私は現場で学びたいのです! 副団長としてただ指揮机の前に座っているだけでは、兵たちの痛みも危険も理解できません!」
ミーシャ「机に座っているだけ、だと?」
声が低く、部屋の空気がぴんと張り詰めた。
ミーシャ「副団長の役割を軽んじるな。お前は兵を束ねる立場にある。その信頼を築くのは戦場で剣を振るうことだけではない。兵を守る決断をすることだ」
ジェシカ「ですが、それでは私自身が成長できません!」
ミーシャ「……成長のために部下を危険に晒すつもりか?」
ジェシカは言葉を詰まらせた。ミーシャの瞳は鋭いが、決して冷酷ではない。そこには「守る者」としての覚悟が宿っていた。
ミーシャ「ジェシカ。お前は優秀だ。兵たちもお前を慕っている。だからこそ、この場を離れることは許さない。私が行く。お前は留まり、兵をまとめよ。それが副団長としての責務だ」
ジェシカ「……それでも……それでも私は、役に立ちたいのです」
ミーシャ「お前はもう役に立っている。自覚がないだけだ」
ジェシカの胸に熱いものがこみ上げ、唇を噛んだ。悔しさと焦燥感が入り混じる。自分の小ささを突き付けられたようで、涙が出そうになる。
ミーシャはそんなジェシカをじっと見つめ、少しだけ声を柔らかくした。
ミーシャ「……いずれ、お前が現場の先頭に立つ時が来るだろう。その時のために今は礎を築け。焦るな、副団長」
ジェシカは震える肩を押さえ、深く頭を下げた。
ジェシカ「……承知しました」
部屋を出る時、彼女の背中は硬くこわばっていたが、心の奥底では強い誓いが芽生えていた。
――いつか必ず、団長に認めさせる。副団長としてだけでなく、一人の騎士としても。
ジェシカはカーヴェルの部屋に入るや否や、まるで肩に重石を背負ったかのような暗い影を落としていた。
その一歩一歩に重苦しい空気がまとわりつき、普段の快活さも、きらきらとした笑顔も見る影がない。
カーヴェルはその姿を一瞥しただけで、何があったのかを察した。
「――あぁ、やっぱりダメだったんだな」
心の中でそう呟き、彼は深く息を吐いた。
「……コーヒーでも飲むか」
わざと軽い調子で声をかける。気遣いを悟らせないように、いつもの皮肉まじりの声色で。
ジェシカは堪えていたものが一気に決壊したかのように声を震わせた。
「……ダメでした〜ぁ……っ」
その瞬間、瞳から涙が溢れ、ジェシカはもう子供のようにカーヴェルの胸に飛び込んだ。
騎士としての矜持も、若き指揮官としての威厳も今はどこにもない。
ただ一人の女性として、信じられる相手の胸に顔を埋め、声を殺しながら泣きじゃくるばかりだった。
カーヴェルは黙ってその頭を撫で、背中を支え続けた。
その体は小刻みに震え、嗚咽がシャツに染み込んでいく。
「……もし、万が一のことを考えてのことだろう」
カーヴェルは低い声でぽつりと呟く。
「団長はな、ジェシカ。お前に託そうとしているんだ。残される可能性を、指揮を、責任を……。それは信頼できる人間にしか頼めない役割だ」
ジェシカは顔を上げ、涙で濡れた目で彼を見つめる。
「……どうして……そんなこと、わかっちゃうんですか……」
その問いは、呆れとも感嘆ともつかない響きを含んでいた。
カーヴェルは口の端をわずかに持ち上げる。
「俺が今までそういう目に遭ってきたからだ。信じたい言葉よりも、信じたくない現実を突きつけられる方が……ずっと多かった」
彼は自嘲めいた笑みを浮かべ、ジェシカの髪を指で梳いた。
「けどな、誰かに信じられて重責を任されるってのは、裏返せばそれだけの価値がある人間だってことだ」
ジェシカはもう一度彼の胸に顔を埋める。
涙は止まらない。だがその胸の温もりに、ほんのわずかに安心が芽生えていた。
カーヴェルの言葉は冷たくも厳しくもあるのに、不思議と心を支える芯のように響いたのだ。
「……カーヴェル様……」
震える声で名を呼びながら、ジェシカは彼の鼓動に耳を澄ませた。
自分がまだここにいることを確かめるように、彼女はその音にすがりついていた。
ジェシカと抱き合っていた温もりが、ノックの音によって一瞬で現実に引き戻された。
二人は慌てて離れ、気まずい空気のまま姿勢を正す。
「失礼します」
入ってきたのは第15騎士団の若い女騎士だった。凛とした声と共に深く一礼し、言葉を続ける。
「カーヴェル様、ミーシャ団長が会議があるので至急お越しくださいとのことです」
「わかった、すぐ行く」
カーヴェルは短く答える。
その女騎士は一瞬だけ視線をジェシカに滑らせ、何かを確かめるように目を細める。
「では、ご案内いたします。私についてきてください」
部屋を出る直前、カーヴェルは小さくジェシカに笑いかけた。
「……例の捜索についてか?」
「はい」
女騎士の返答に、ジェシカは唇を噛みしめたまま彼を見送るしかなかった。




