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帰還

アスガルド王国


第十五師団の訓練場は、いつも以上に熱気に包まれていた。

副団長ジェシカ自らが模擬戦を行うという報せに、数百の女騎士が演習場の周囲に集まり、息を呑んでその様子を見守っていた。第十五師団は全員女性で構成される、王国でも珍しい部隊。その頂点に近い存在であるジェシカが剣を振るう姿は、それだけで憧憬と羨望の対象だった。


ジェシカの対戦相手は十人の精鋭。いずれも団内で百戦錬磨と呼ばれるほどの実力者であり、ただ一人でも通常の兵を百人相手取れると言われる女騎士たちであった。模擬戦とはいえ、彼女たちが束になれば、副団長といえども容易にはいなせない――誰もがそう思っていた。


「始め!」


号令と同時に十人の騎士が一斉に間合いを詰める。砂を蹴り、甲冑が擦れ、鋼の剣が光を反射する。疾風のような動きに、観戦していた団員たちも目を凝らした。


だが、ジェシカには全く違って見えていた。

彼女の瞳に映る十人の動きは、まるで水の中でもがいているかのように鈍重で、緩慢で、手に取るように先が読める。剣を振りかざす瞬間も、踏み込みの意図も、視線の揺らぎも、すべてが「遅すぎる」と錯覚するほど鮮明に感じられた。


「……嘘でしょう、私が……こんなに……?」


己の動きは軽やかで、足取りは風のよう。剣を振るえば相手の武器を正確に弾き、わずかな隙間に突きを差し込み、体勢を崩す。気づけば十人の騎士は次々に地に倒れ、砂埃を上げて呻き声を漏らしていた。


周囲がざわめいた。

「早すぎて見えない……」

「今、何が起きたの?」

「副団長が……本当に人間なの?」


彼女の剣筋は目で追うことすら困難で、観戦していた女騎士たちは誰一人、ジェシカの全てを捉えられなかった。ただ確かなのは、圧倒的な力の差で十人の精鋭が敗北したという事実。


ジェシカ自身も呆然としていた。

――いつから、私はこんな力を手に入れたの?

カーヴェルと模擬戦をしたときでさえ、こんな動きはできなかった。いや、あの時は、私は確かにただの人間だったはず。


ふと脳裏をよぎる一夜の記憶。

熱を帯びた肌の触れ合い。カーヴェルの腕に抱かれた感触。あの時からだ。心臓の奥に燃えるような熱が宿り、血の巡りが異様に冴え渡り、体の芯に眠っていた力が解き放たれたような感覚。


「まさか……カーヴェルに抱かれた、そのせい……?」


ジェシカは思わず唇を噛んだ。荒唐無稽すぎる想像だと頭では否定する。だが、他に説明のつかない変化だった。


倒れ伏した十人の騎士が立ち上がれずにいる間、演習場の周りでは熱狂が渦巻いていた。

「副団長こそ王国最強なのでは!」

「憧れる……なんて美しく、強いの……」

「やっぱりジェシカ様は私たちの誇りだ!」


黄金のブロンドが陽光に輝き、長身に映える鎧姿は女神のよう。白磁の肌に汗が一筋伝い、その姿に女騎士たちは男女問わず視線を奪われる。誰もが彼女を慕い、憧れ、夢を託す。


しかし、当のジェシカの胸中は複雑だった。

この力の源が自分自身の鍛錬ではなく、カーヴェルとの関わりにあるとしたら――彼女の誇りである「剣士としての自分」は、揺らいでしまうのではないか。


それでも、演習場を埋め尽くす仲間の歓声に背を押され、ジェシカは剣を下ろし、静かに息を吐いた。

「……私は、一体、何者になってしまったの?」


その呟きは、誰の耳にも届かなかった。


ジェシカは胸騒ぎを抑えきれず、夜明けとともに村へと馬を駆った。

ここ数日、自分の身体に明らかな異変が起きているのを感じていた。体の奥から絶えず湧き出す力――それは従来の鍛錬や修練では到底説明のつかないもの。どうして自分がここまで強くなってしまったのか、その理由を知るには、カーヴェルに会うしかない。彼ならば何かを知っている、そう信じて疑わなかった。


だが、村に到着した瞬間、ジェシカの心は大きく揺さぶられた。

カーヴェルの姿は、どこにもなかった。

代わりに目に映ったのは、家の前で力なく座り込み、互いに支え合うようにして泣き崩れるロゼリアとフェリカの姿だった。


「……どうしたの?」

声をかけた瞬間、二人は涙に濡れた瞳をジェシカに向ける。


「旦那様が……旦那様が、いなくなってしまわれたのです……」

「もう三日も帰ってきておられません……」


嗚咽まじりの声が胸に突き刺さる。ジェシカは息を呑み、すぐさま事情を尋ねた。


間もなく現れたつかさが、重苦しい空気の中で口を開いた。

「……カーヴェル様は、ある晩を最後に戻ってきておられません。置き手紙があるとロゼリア様とフェリカ様から聞いてはおりますが……」


ジェシカは手紙の存在を知らされるが、詳細を聞いても心は晴れない。

ただ確かなのは――カーヴェルが自ら村を離れたということ。


「……彼が帰るまで、私もここに残ります」

ジェシカは強く言い放った。

それは自分自身への宣言でもあった。どうして自分が強くなってしまったのか、その理由を聞くまでは、王の命令だろうと職務だろうと知ったことではない。この村を離れることなど、できなかった。


しかし時間だけが過ぎてゆく。

三日。

村の者にとっては耐えがたい長さであり、ロゼリアとフェリカにとっては永遠のように長く感じられる時間だった。


「……このまま、旦那様は帰ってこられないのでは……」

「もし、どこかで傷を負って……」


二人の言葉は震え、絶望の色を帯びていた。


つかさもまた、普段の冷静さを崩しかけていた。

「……正直、私も不安です。もしかしたら……何かがあったのかもしれません。もしも、もしもお命に関わるようなことがあったとしたら……」


その言葉に、ジェシカの胸は締めつけられるように痛んだ。

助けに行きたくても、行き先がわからない。

どこで、誰と、何をしているのかも掴めない。

彼の身に何か起きているのではないか。自分が知りたいと願った答えを口にする間もなく、彼が死んでしまうのではないか――。


不安が心を食い破る。

ジェシカは思わず膝を抱え込みそうになったが、必死に顔を上げた。

ロゼリアもフェリカも、つかさも、彼を信じようとしている。

だから自分もまた、信じなければならない。


「……必ず帰ってくるわ。私たちを置いていくような人じゃない」


震える心を必死に押し殺しながら、ジェシカはそう言った。

だがその声は、自分自身を励ますための言葉でしかなかった。



アンジェロッテとセリーヌが静かに部屋へ入ってきた。

その瞬間、ジェシカもロゼリアもフェリカも、そしてつかさも、まるで何かを隠している子供のように一斉に顔を伏せた。

表情には焦燥と不安、そして言葉にできない寂しさがにじみ出ていた。


「どうしたの?」

アンジェロッテは、4人が張り詰めた空気を漂わせていることにすぐ気づいた。まだ幼いながらも、鋭い観察眼を持つ少女の一言に、誰もすぐに答えることができない。


――話すべきか、隠すべきか。

カーヴェルの失踪を娘に伝えるなど、あまりにも酷だろう。けれども、彼女の眼差しには子供特有の澄んだ真実への渇望が宿っていて、下手なごまかしは通じないと誰もが直感した。


その沈黙を破ったのは、当のアンジェロッテだった。

「もしかして……パパのこと?」

少女は小首をかしげると、少し得意げに続ける。

「パパね、『ちょっとお仕事に出かけるから、いい子にしてるんだよ』って言ってたよ」


「――!」

その場の空気が一変した。

ジェシカもロゼリアもフェリカも、つかさも同時に顔を上げた。

驚きと衝撃、それに混じる安堵が一気に胸を満たしていく。


「……そ、そうか……」ジェシカは胸に手を当てた。

あれほど自分たちが心をかき乱されていたというのに、なぜ一番大事な存在である娘に何も言わず姿を消すだろうと考えなかったのだろう。

彼がそんな無責任な男であるはずがないのに――。


「ご主人様は、確かに以前から“何か仕事をする”と仰っていましたわ」

セリーヌが静かに言葉を添えた。

「もしかしたら、それと関係があるのかもしれません」


ジェシカはホッとする一方で、自分の心の狭さに気づき、頬を赤らめた。

(わたし……あまりにも不安になって……ロゼリアさんやフェリカさんと同じように、カーヴェル様を信じきれなかった……)


だが、その安堵の後、別の感情が一気に湧き上がった。

ジェシカはすっと立ち上がり、ロゼリアとフェリカへと詰め寄った。


「……どうして、教えてくれなかったの?」

その声音には苛立ちと哀しみが混じっていた。

「あなたたちは知っていたのでしょう? 旦那様が“仕事に行く”って言っていたことを……! 私たちがどれだけ心配していたか、わかる?」


セリーヌは眉を寄せ、視線を伏せる。

「……すみません。ただ……確証がなかったから……」

続けて答える

「もし違っていたら、無責任な慰めになってしまうと思って……だから……」


彼女たちの言葉はもっともだった。だがジェシカの胸に渦巻く感情は、それだけでは収まらなかった。

嫉妬と焦燥。

ロゼリアもフェリカも、カーヴェルに近い場所にいる。

彼の信頼を得ている。

娘にも侍女にも、そして村人にも、彼は「信じてもらえている」――そう思うと、自分だけが疑い、不安に駆られていたように感じられてしまった。


「……それでも……」ジェシカの声は震えていた。

「それでも、私に教えてくれても良かったはずよ。だって……私だって……カーヴェル様のことを……」

言葉の続きを、彼女は喉の奥で飲み込んだ。


アンジェロッテは大人びた表情でジェシカを見つめ、少し首をかしげた。

「ジェシカお姉ちゃんも……パパがいなくて寂しかったの?」

その純粋すぎる問いに、ジェシカの胸は痛みと温もりで満たされた。


――寂しかった。

嫉妬も、焦りも、心配も、全部そこに集約されていた。


ジェシカは答えられず、ただ黙ってうなずいた。



そこに突如として空間が揺らいだ。

青白い光がきらめき、部屋の中心に転移陣が展開される。

そして、その中から一人の男――カーヴェルが姿を現した。


「……カーヴェル様!」

「旦那様!」


ジェシカ、ロゼリアとフェリカは同時に叫び、駆け寄るや否や、彼の胸に飛び込んだ。

二人はそのまま子供のように泣きじゃくり、声にならない嗚咽を漏らした。

「よかった……よかった……もう会えないかと思った……!」

「旦那様……怖かった……!」


カーヴェルはその細い肩をそっと抱き寄せ、まるで幼子をあやすかのように、静かに彼女たちの背を撫でた。

「泣くな。……ただの仕事だった。必ず帰ると、言ったはずだろう」

その声音は淡々としていたが、彼女たちを包み込む仕草には確かな優しさがあった。


「パパ!」

アンジェロッテが駆け寄り、にこりと笑った。

「お帰りなさい。お仕事はうまくいった?」

その落ち着いた口調に、ジェシカもつかさもセリーヌも思わず息を呑む。

――娘が一番、大人びた対応をしている。

彼女の存在が、不安と緊張で張り詰めていた空気をふっと和らげた。


カーヴェルは片腕でアンジェロッテを抱き上げ、頭を撫でると短く答えた。

「ああ。予定通りに終わった」


ようやく全員の胸に安堵が広がる。

だがジェシカの心には、どうしても確かめたいことが残っていた。


「……カーヴェル様」

勇気を振り絞り、ジェシカが声をかける。

「お話ししたいことが、あります」


カーヴェルは一瞬彼女を見つめ、そして言った。

「……それは軍の機密事項か?」


ジェシカは小さくうなずく。

「はい」


「ならば後だ」

彼は疲れ切った様子で肩を落とし、娘を降ろすと静かに告げた。

「三日三晩、食わずに働いた。……風呂と食事してからで構わないか」


「……はい。お待ちしております」

ジェシカは頭を垂れた。


やがて、湯浴みを済ませ、食事を平らげたカーヴェルは、応接室に姿を現した。

そこに待っていたのはジェシカ一人。


「カーヴェル様……!」

会った瞬間、ジェシカは感情を抑えきれず、彼の胸に飛び込んだ。

その温もりに触れた途端、こらえていた涙が溢れる。

「無事で……本当に、よかった……」


しかし、カーヴェルの返答は冷ややかだった。

「……君は、あの時最後に“俺のことを忘れる”と言ったはずじゃなかったか」


ジェシカは顔を上げ、涙に濡れた瞳で首を振った。

「無理です……! あなたのことを愛してしまったから……離れるのが辛いんです……胸が、引き裂かれそうで……!」


懇願するような言葉に、カーヴェルはため息をつき、彼女の頭に手を置いた。

まるで子供をあやすかのように、ただ静かに撫でてやる。

「……落ち着け」


やがてジェシカは、震える声で自分の異変を口にした。

「……あなたと抱き合った後……私に、身体の変化が訪れました」


その告白に、カーヴェルは静かに真実を明かした。

「俺は原液のエリクサーを飲み、不老不死となった。……すでに三千年を生きている」


「……三千年……?」

ジェシカは言葉を失った。理解を超えた時間の重みに、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


だが、カーヴェルの次の言葉はさらに彼女を驚愕させた。

「俺の体液そのものが、エリクサーだ。……キスでも、愛し合った時でも、それは君の中に流れ込む」


ジェシカは大きく目を見開き、息を呑んだ。

すべてが繋がった――彼女の身体能力の異常な高まりも、理解を超えた力も。


「……そういうこと、だったのですね……」


ジェシカの心は混乱しながらも、ようやく腑に落ちた。

だが次の瞬間、カーヴェルは真剣な眼差しで問いかける。

「ジェシカ。……俺と付き合うか?、結婚するか。どちらかを決めてくれ」


その選択は、彼女の心を大きく揺さぶった。

――本音では、結婚したかった。ずっと彼の隣で生きたかった。

だが、王の気まぐれ一つでこの村が襲われる可能性を思えば、軍に残る責務を投げ出すことはできない。


「……私は……軍に残ります」

ジェシカの声は震えていた。

「……でも、本当は……あなたと……」


カーヴェルは彼女の言葉を遮るように、ポケットから小さな箱を取り出した。

中に入っていたのは、銀細工のイヤリング。


「これを持っていろ。君の居場所がわかる。……いつでも転移して会いに行ける」


ジェシカはそれを受け取り、瞳を潤ませながら微笑んだ。

「……ありがとうございます……」


次の瞬間、二人は深く口づけを交わした。

長く、熱く――お互いの存在を確かめ合うように。


やがて唇を離したジェシカは、満ち足りた笑みを浮かべ、静かに応接室を後にした。


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