浮遊大陸
夜の帳がすっかり下り、窓の外には虫の音と柔らかな風の囁きが広がっていた。
愛し合った後の温もりがまだ布団の中に漂い、ロゼリアとフェリカは、川の字の形でカーヴェルの両脇に身を寄せ合って眠っていた。二人の吐息は静かで穏やかだが、カーヴェルの瞳だけは闇の中で冴えわたり、眠りの世界に落ちることはなかった。
――このままではいけない。
王の目がこの村を監視していることは明らかだった。ジェシカが頻繁に訪れるのも、ただの偶然ではなく、王命によるものだ。
「危険人物」として自分を警戒しているのは、きっと間違いない。
このまま村にとどまり続ければ、ロゼリアも、フェリカも、村人たちも巻き込んでしまう。安住の地は一瞬で奪われ、愛する家族は再び路頭に迷うことになる――。
カーヴェルは布団の中で拳を握りしめた。決断の時だと悟った。
彼はそっと身を起こし、まだ夢の中にいる二人を見下ろした。
ロゼリアの金糸のような髪が月光を受けて輝き、フェリカの指は小さく彼の衣を握ったまま離さない。まるで「どこにも行かないで」と訴えるように。
「……すまない」
心の中で呟きながら、彼は枕元に小さな紙切れを置いた。震える手で綴った言葉は、ただ一行。
『しばらく留守にする。心配しないでくれ』
それ以上の言葉は浮かばなかった。愛しい人たちを想って書けば書くほど、別れの重みが増してしまう気がしたからだ。
音を立てぬよう衣を羽織り、夜の闇に身を溶かすようにして、カーヴェルはその場を後にした。
――そして、朝。
鳥のさえずりに目を覚ましたロゼリアは、隣にあるはずの温もりが消えていることに気づいた。
「……旦那様?」
まだ眠たげな声で呼ぶが、返事はない。彼女は笑みを浮かべて「きっとアンジェロッテと遊びに行ったのだろう」と考えた。フェリカも同じように、のんびりとした気持ちで起き上がった。
だが――次の瞬間、フェリカの指先が白い紙片を見つける。
そこに書かれたたった一行の文を読み終えた瞬間、彼女の顔色は蒼白に変わった。
「ロ、ロゼリア……! だ、旦那様が……!」
「え……? なに……?」
震える声で受け取ったロゼリアも、その文字を目にした途端、心臓が締め付けられるような痛みを覚えた。
――しばらく留守にする。心配しないでくれ。
たったそれだけ。
理由も、行き先も、帰る日も書かれていない。
「わ、私たち……嫌われてしまったの?」
ロゼリアの声はかすれ、目には涙がにじむ。
「もしかして……他に女の人ができたの……? 私たちなんて、もう飽きられて……」
フェリカは必死に言葉を押し殺そうとしたが、嗚咽が堰を切ったように溢れ出した。
二人は互いの肩にすがりつき、泣き崩れた。
昨日までの幸せな時間が、まるで幻のように遠のいていく。
「いや……いやよ……旦那様……」
「お願い、帰ってきて……私たちを捨てないで……」
涙に濡れた声で懇願するしかなかった。
彼の選んだ決断の意味を理解できぬまま、ただ「自分たちが悪かったのではないか」と悪い想像ばかりが膨らみ、胸を締めつけていく。
二人は強く抱き合いながら、声を合わせて泣いた。
まるで子供のように、ただ「旦那様」という存在を求め、帰還を祈り続けるしかなかったのだ――。
村ではまだ涙が止まらなかった。
ロゼリアとフェリカは、互いに縋り合いながら声を上げて泣き続けていた。
「旦那様に嫌われてしまったのよ……どうしよう……」
「もうどうやって生きていけばいいの……旦那様がいない世界なんて……」
その姿を見つけ、心配そうに駆け寄ったのはツカサだった。
かつて共に剣を振るい、幾多の危機を乗り越えた仲間たち。だが今の二人は、戦士ではなくただの「男を愛する女」にすぎなかった。
「二人とも、落ち着いて……」
ツカサはそう言ってそっと手を伸ばし、テーブルの上に置かれた紙片を拾い上げる。
『しばらく留守にする 心配しないでくれ』
短く書かれた言葉を読み、ツカサは眉を寄せる。
「……ねえ、“心配しないでくれ”って書いてあるでしょう? これは、帰ってくるつもりがあるからこそ残した言葉なんじゃない?」
しかしロゼリアは首を振り、涙で濡れた瞳を潤ませた。
「でも……いつ帰ってくるのかが書いてないの。せめてそれだけでも知りたい……」
フェリカも必死に頷き、声を震わせる。
「“しばらく”って……どのくらい? 一週間? それとも……もっと?」
ツカサはため息をつき、二人を見守るように言葉を選んだ。
「“しばらく”ってことは……多分一週間前後じゃないかな。きっと準備が整ったら戻ってくるはずだよ」
だが二人にとって一週間は永遠にも等しい。
「長すぎる……」
「一時間でいい……いえ、一分後に帰ってきてほしいの……」
声は次第に嗚咽に変わり、二人はまた抱き合って泣き崩れた。
ツカサは胸が痛んだ。
――かつてこの二人は、パーティーの中心であり、カーヴェルがいない時には自分や仲間を導く存在だった。
しかし今は違う。ただ一人の男を深く愛する女としてしか存在していない。もし再びパーティーを組み直すことがあっても、きっと二人は言うだろう。
「旦那様がいないなら、行かない」と。
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その頃、カーヴェルは村から遠く離れていた。人が住むには 寂しい場所に位置し人の50km圏内に反応探るが誰も居ない様子だ。
およそ百キロを隔てた海岸に立ち、彼は深呼吸をひとつしてから空へと舞い上がる。
青く広がる水平線の先へ、さらに沖合へと進み、やがて高度を固定した。
「さて……ここからが本番だ」
カーヴェルの全身から迸るような魔力が放出される。
大気が震え、海鳴りが轟き、次の瞬間――海の底から大陸規模の質量がゆっくりと持ち上がり始めた。
長さ500km、高さ4km。質量はおよそ700兆トン。
常人なら想像すらできない規模の大陸を、彼は念動力で押し上げていく。
「ぬ……おお……!」
汗が滴り落ちる。神すら成せるかどうかの偉業。
大陸は空中で静止し、彼の意志に従って形を変え始めた。
荒々しい山肌は整えられ、塩分は排除され、やがて円錐状に整った巨体の平面が上へと向けられた。大陸は厚い雲で覆い隠し、地表からではただの厚い雲と認識されるように施す。
内部は巨大な空洞としてくり抜かれ、そこに過去の遺産――反重力装置、重力固定装置、補助機動装置を組み込み、魔力で固定する。
彼の手によって、それはもはや「ただの大陸」ではなく「天空を浮遊する人工の大地」と化した。
「……これが完成すれば、迂闊に手出しはできまい。そして、この大地で自給自足が可能になる」
海に浮かぶ小島――直径2キロほどの孤島を中心に据え、その真上、高度1000メートルで大陸を固定する。
影が海面を覆い隠すほどの巨大な島影は、世界の理をも揺るがす光景であった。
さらに、彼はその新たな大地に緑を与える。
荒れ地を豊かな黒土へと変え、草木を芽吹かせ、川を走らせる。
ほんの数刻のうちに、大地は生命を育む場所へと変貌していった。
かつて神罰によって魔力は千分の一に削がれたはずだった。
だがなお、ここまでの奇跡を成す。
人の領域を遥かに超えた所業。
「……ぐっ……」
全身から力が抜ける。
久方ぶりに全霊をもって魔力を使った反動は大きく、視界が揺れ、彼は大地の上に倒れ込んだ。
――意識が遠のく直前、彼の心に浮かんだのは、あの村で待つ二人の涙だった。




