ジェシカの恋
ジェシカは、カーヴェルと知り合ってからというもの、以前にも増して村に足を運ぶようになっていた。
名目上は「王命による監視」であり、彼の行動を逐一見張ることが務めとされていた。けれども、実際にはその理由の裏に、もっと個人的で胸の奥に隠した想いが芽吹いていた。
彼と会話を交わすたび、彼の柔らかな笑みや、村人を守ろうとする真摯な態度に触れるたびに、ジェシカの胸は不規則な鼓動に包まれる。戦場で刃を振るう時には決して生じない熱が、頬をわずかに染め、視線を逸らさせる。
だが、その温かな気持ちの横には、冷たい影のように嫉妬がつきまとった。
ロゼリアとフェリカ――二人の女性の存在は、ジェシカの心を複雑にかき乱す。
あの夜、ロゼリアとフェリカが彼の隣に寄り添っていたことを耳にした時、胸の奥に走ったのは怒りでも羨望でもない、名づけ難い感情だった。唇を強く噛みしめるほどの切なさと、どうしようもない孤独。
彼女は剣を握り締めながら、心の中で何度も問いかけた。
――なぜ自分ではなく、彼女たちなのか。
――自分がそばにいたなら、彼の心を満たせたのだろうか。
ジェシカは騎士としての矜持を持ち、誰よりも強くあろうと努力してきた。だが、女性としての自分はどうだろう。ロゼリアのような柔らかさも、フェリカのような愛嬌も持ち合わせていない。
気がつけば、自分を映す水面に問いかけている。
「私は、彼にとってどう映っているのだろう…?」
任務のためと称し、今日も村を訪れる。けれど心の奥底では、ただ彼の姿を見たいのだ。
ロゼリアが微笑みかける彼の横顔に、フェリカが寄り添う温もりに、どうしようもなく胸が痛む。
その痛みを隠すように、彼女はいつも通り冷静な声で言葉を紡ぐ。
「王の命に従い、様子を見に来ただけです。」
だが、夜になり一人きりになると、その仮面は崩れ去る。
「……カーヴェル」
小さくつぶやいたその名には、誰にも見せられない、少女のように純粋で、同時に激しく燃える想いが込められていた。
ジェシカは幾度も己の胸に問いかけていた。どうして、こんなにも心が揺れてしまうのだろう、と。
あの砦での攻防戦――彼と初めて邂逅したときには、ローブに顔を隠し、素性も知らぬ客将に過ぎなかった。鋭い指揮の声と、計算された采配だけが耳に残り、その正体を知ろうなどとは思いもしなかった。
だが、今。こうして幾度も言葉を交わすたび、彼の視線がこちらを向くだけで胸が焼けるように熱くなる。深い瞳に吸い込まれそうになり、息が詰まりそうになる。気づけば指先が震え、心臓が早鐘のように鳴っていた。
――彼の身体からふわりと香る、甘やかな匂い。
言葉を発するたびに零れる吐息はどこか優しく、戦場の策を語る声でさえ、耳に心地よい旋律となって胸を打つ。
圧倒的な戦略眼、底知れぬ魔力、そして中性的で整った面差し。その全てが彼を際立たせ、凡俗の男たちとは比べるべくもない。
ロゼリアも、フェリカも、きっと同じものに心を奪われたのだろう。そう思うだけで、胸の奥に冷たい棘が刺さる。羨望と嫉妬が混じり合い、苦く胸を締めつける。
――いいえ、違う。私はただ羨ましがっているだけではない。
気づけば彼の姿を目で追い、いつか自分もあの逞しい胸に抱かれたいと、密かに願っているのだ。
「愚かだ……私は王に仕える女騎士。清廉であるべき者……」
幾度も己を叱咤する。今まで幾多の誘惑も退け、冷徹に剣を振るい、純潔を守ってきた。欲望に流されることは決してなかった。誇り高く、誰にも恥じぬ女騎士として生きてきたのだ。
だが――彼の笑みを目にした瞬間、その決意が脆く崩れる。鋼の意志が砂の城のように崩れ去り、女としての弱さと熱が顔を覗かせる。
理性が囁く。
「これ以上は踏み込むな。己を失えば、すべてを失う」
だが心は抗う。
「それでも……彼に触れたい。言葉だけではなく、もっと近くに、もっと深く――」
夜、眠りにつこうとしても彼の姿が瞼の裏に浮かぶ。剣を握るときでさえ、ふとした瞬間にその声が蘇る。
抑え込もうとすればするほど、想いは濃くなり、溢れ出そうとする。
ジェシカは分かっていた。叶うことのない恋であることを。
だが分かっているからこそ、苦しく、愛おしく、そしてどうしようもなく胸を焦がすのだ。
彼女は自らを縛る誓いと、女としての切なる願望のあいだで、日ごとに心をすり減らしていった。
それは剣の修練よりも苛烈で、戦場よりも残酷な戦いであった。
丸いテーブルに腰掛けた三人の女性は、遠く庭で遊ぶ親子を眺めていた。陽光に照らされた芝の上では、アンジェロッテが笑顔で走り回り、彼女を追いかけるセリーヌの軽やかな笑い声が響く。その光景の中心にいるのは、当然のようにカーヴェルであった。彼は柔らかい微笑みを浮かべながら娘の手を取り、時に抱き上げ、時に見守る。穏やかでありながら揺るぎない存在感を示すその姿に、ジェシカの視線は知らず知らずのうちに吸い寄せられていた。
「ジェシカ、あなた……旦那様のこと好きでしょ?」
突然、ロゼリアがそう問いかけた。微笑を浮かべながらも、射抜くような視線がジェシカに向けられる。
「い、いいえ……そんな……私は……」
ジェシカは慌てて首を振り、必死にはぐらかそうとした。だがその反応はあまりにもわかりやすく、かえって真実を浮き彫りにしてしまう。
「そんなの、バレバレよ。あなた、いつも旦那様を見てるもの。」
フェリカの声音は柔らかいが、逃げ道を与えない。ジェシカの頬は一気に赤く染まり、言葉を失った。
しばらく沈黙の後、彼女はようやく小さな声で絞り出す。
「……私は……その……あなた方が羨ましいと思ったことはあります。けれど、それ以上の感情では……ありません。王の命令で……監視をしているだけです。」
自分でも苦しい言い訳だと分かっていた。胸の内で芽生えてしまったものを否定する言葉は、かえってその存在を際立たせる。
「旦那様を見ているとね、私たちは心が洗われるような気持ちになるの。」
ロゼリアが静かに語り、遠くのカーヴェルへと視線をやる。その目には、確かな愛と誇りが宿っていた。
「その通りね。強さだけじゃなく、思慮深さと優しさを兼ね備えていて……そして仲間のためなら命までかける。そんな人、滅多にいないわ。」
フェリカもまた、慈しむように言葉を重ねる。その声音には揺るぎない信頼が満ちていた。
「……あなたの周りには、そんな人はいなかったんじゃないかしら?」
ロゼリアの言葉は、ジェシカの胸の奥に深く突き刺さる。まるで彼女の心を代弁するかのように。
ジェシカは俯き、拳を膝の上でぎゅっと握りしめた。騎士としての自分は、常に王に仕え、命令を遂行し、己の感情を抑えるべき存在だ。しかし一人の女としての自分は――温かな家族に囲まれるカーヴェルを目にするたび、心を揺さぶられずにはいられない。
羨望、憧れ、そして芽生えつつある想い。それは許されざる感情でありながら、否応なく彼女を縛っていく。
「どうすれば……私は……」
声にならない呟きは、喉の奥で掠れ、誰にも届かなかった。
ロゼリアとフェリカの柔らかな眼差しは、ジェシカの揺れる心を見透かしている。彼女は騎士としての誇りと、一人の女としての感情の狭間で、今まで以上に深い葛藤へと沈み込んでいった。
――遠くで、カーヴェルの笑い声が響く。それは彼女にとって慰めであり、同時に残酷なまでの現実を突きつける音でもあった。
夜明け前。まだ空が白むかどうかの頃、冷たい朝靄が村を覆っていた。
その静けさの中、ジェシカは宿舎の窓からふと外を眺めた。そこで目にしたのは、ひとり体を動かし準備運動をしているカーヴェルの姿だった。無駄のない動作、まるで呼吸のように自然な剣筋。大魔導士と呼ばれる彼のもう一つの側面を垣間見て、ジェシカの胸は高鳴った。
――今だ。
心の奥底で固めた決意が彼女を突き動かす。もう迷わない。このままでは騎士としても女としても前に進めない。だから、一度だけでいい、彼に抱かれて心を終わらせたい。
ジェシカはゆっくりと外へ足を運び、木剣を手にカーヴェルの前に立った。
「カーヴェル殿。稽古をつけていただけませんか。」
驚いたように眉を上げた彼は、すぐに静かに頷いた。
「いいだろう。」
そして二人は構えを取り、木剣を打ち合わせた。
ジェシカの剣は鋭く、突きは稲妻のごとく速かった。目に留まらぬ連撃を浴びせるが、カーヴェルは一歩も動じない。冷静に、淡々と、すべてを受け流し、時に軽く打ち返す。
「……さすがですね。私の剣をこれだけ受けられるなんて……あなた、本当にただの大魔導士なのですか?」
ジェシカは息を切らせながらも嬉しそうに笑った。その笑みは少女のように無邪気で、剣を交えることすら戯れのように感じられた。
最後にカーヴェルの一撃が彼女の剣を弾き飛ばす。木剣が地面に転がり、勝敗は決した。
「……参りましたね。この私が負けるなんて思いもしませんでした。」
ジェシカは剣を拾わず、その場に立ち尽くした。そして深く息を吸い込み、震える声で言った。
「一つ……お願いを聞いていただけますか。」
「なんだ?」
カーヴェルの声音は変わらず静かだった。
「……一度きりでいいですから。私を……抱いてください。」
短い沈黙。朝靄の中で二人だけの世界が広がる。
やがて、カーヴェルは淡々と、それでいて拒まない声で答えた。
「……わかった。それで君の気が済むのであれば。」
その言葉に、ジェシカの胸は強く打たれた。決意は固かった。彼を得るのではなく、一度だけ抱かれて忘れるために――そう思っていた。
その夜、ジェシカの宿舎。
二人は静かに重なり合った。ジェシカは彼の温もりを感じた瞬間、堪えきれず涙を流した。今まで封じてきた感情が溢れ、ただ一人の女として彼を求めた。
「……ありがとう……」
彼の腕に抱かれながら、ジェシカは心の底からそう呟いた。
行為が終わった後も、二人はしばらく抱き合い、長い口づけを交わした。カーヴェルの甘い唾液が流れ込むのを感じる、ジェシカはその胸の中で思った。
――これでもう泣くことはないだろう。これで彼を忘れられる。
しかし、それは自らを欺く言葉だった。翌朝、剣を腰に下げて村を出たジェシカは、自分の心が整理できていないことに気づいた。
確かに一度で終わるはずだった。けれど現実は違った。
憧れは恋へ、恋は愛へ。彼の温もりを知ってしまった瞬間から、心は後戻りできなくなっていたのだ。
村を離れ、遠ざかる道を歩みながら、ジェシカはようやく悟った。
――私は、あの人を愛してしまったのだ。
それは叶わぬ恋。騎士としての自分が最もしてはならない選択。
だが、愛してしまった事実だけは、もはや否定できなかった。
ジェシカの胸の奥には、静かで苦しい炎が確かに灯っていた。




