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ジェシカの葛藤

アスガルド王国 


国王の玉座の間は重苦しい沈黙に包まれていた。

戦勝の知らせは確かに歓喜をもたらすはずであった。しかし、その勝利の中心にいたのはジェシカではなく、無名の傭兵とも噂される男――カーヴェル・プリズマン。


王は背凭れに深く座し、鋭い眼差しでジェシカを射抜くように問い詰めた。


「ジェシカ。お前はその男に救われたのか」


声は低く、だが一言一言が大理石の床を震わせるほどの威圧感を帯びていた。


ジェシカは硬直したまま、唇を噛みしめ、それでも毅然とした声音で答える。

「……はい」


言葉を吐いた瞬間、胸の奥が軋んだ。誇り高き騎士として、己の無力を認めざるを得ない屈辱。しかし同時に、あの戦場で確かに自分たちを導き、奇跡を起こしたのはカーヴェルであるという事実を、否定することはできなかった。


国王は長く息を吐き、玉座の肘掛を指先で叩きながら呟いた。

「三万対千五百――通常ならば勝敗は語るまでもない。だが、無血占領に加え敵の死傷者すらゼロ……。戦史を覆すなどと軽々しく口にするつもりはないが、これはまさに前代未聞だ」


そして、国王の声色は一転して冷酷なものとなる。


「ジェシカ。余は命ずる。――その男を余のもとへ召し抱えてこい」


玉座の間に響いたその言葉は、冷たく鋭い刃のようにジェシカの胸を貫いた。


「……陛下……」


「余は見逃さん。あのような男が他国の手に落ちれば、我が国の脅威となるのは明らかだ。頼んだぞ」


わずかな間を置いて、王はさらに声を低める。


「もし、断る素振りを見せるようなら――始末せよ」


ジェシカの目が大きく見開かれ、呼吸が一瞬止まった。

玉座の間に、ただ彼女の心臓の鼓動だけがやけに大きく響いているように感じられた。


忠義と良心、誇りと非情な命令の狭間で揺れる心。

それでも彼女は、騎士として、王の命に背くことは許されない。


「……御意」


ジェシカは深く頭を垂れ、声を絞り出す。

その瞬間、背筋に走る冷たい震えを、彼女は隠しきれなかった。


――カーヴェルを召し抱えるのか。

――あるいは……彼を、この手で……。


胸中で交錯する二つの未来に、ジェシカはただ唇を固く結んだのであった。



ジェシカの胸の内は、国王の玉座の間を後にしてなおざわついていた。


——救ってくれた。あの絶望の戦場で、兵も民も、私自身までも。

ジェシカはカーヴェルの姿を思い浮かべた。荒々しい武勲を誇る戦士ではなかった。むしろ静かに、誰よりも確かに戦局を支配し、無意味な血を一滴も流さずに終結させた。その背中を見たとき、彼がもたらしたものは「勝利」ではなく「救済」だったのだと理解した。


だが国王の命は冷酷だった。

「召し抱えよ。拒めば始末せよ。」

ジェシカはその言葉を何度も反芻し、唇を噛んだ。


——私は……彼を裏切るのか?

剣を交えたわけでもない。彼はただ助けてくれた。それなのに、報奨ではなく監視と従属、最悪は暗殺を命じられる。

彼の眼差しを思い出す。あの穏やかで澄んだ瞳に、刃を向けることができるだろうか。


「私は騎士……王命に背けば、反逆者……」

ジェシカは額に手をあて、自分に言い聞かせる。だが心の奥底では別の声が囁く。


——彼は、ただの駒ではない。

——あの人を失えば、この国こそ滅びる。


忠誠と理性の間で、ジェシカの胸は引き裂かれそうだった。

王命に従うことが正義なのか。

人を救う力を持つ者を守ることが正義なのか。


その答えを見つけるまでは、ジェシカは眠れぬ夜を過ごすしかなかった。


――剣に誓った忠義と、心に芽生えた敬愛。

二つの狭間で、彼女は静かに苦悩を抱き続けていた。



カーヴェルは久々の村の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。戦場の冷たい匂いも、血の気配も、ここにはない。木々がそよぎ、遠くで子供たちの笑い声が聞こえてくる。その瞬間、走ってきたアンジェロッテが彼に飛びつき、腕の中にすっぽりと収まった。


「パパ、ほんとうに帰ってきたんだね!」

「そうだ。アンジェロッテ、パパはちゃんと約束を守っただろう?」


彼は少女を強く抱きしめ、その温もりに戦場で張り詰めた心が解けていくのを感じた。アンジェロッテもにっこりと笑い、無邪気に彼の胸元へ顔を埋める。


やがて村に勇者つかさと仲間たちも到着した。皆、戦場から離れたこの素朴な村の居心地に心を癒やされていた。しばしの間、パーティーは穏やかな時間を共有することができた。笑い声と食卓を囲む声が夜空に響き、平和な日々が戻ったかのように思えた。


――しかし、その空気を切り裂くようにジェシカが現れた。


重い鎧を纏った彼女の姿は、村の素朴な景色には似つかわしくなかった。カーヴェルはその姿を見るなり、予感していたことが現実となったのだと悟った。あれほど派手に戦場を動かしたのだ。王が放っておくはずがない。むしろ、それこそが自分の狙い――勇者つかさの目を逸らし、矛先を自分に向けるための策でもあった。


ジェシカは人払いを望んだ。しかしカーヴェルはきっぱりと首を振った。

「意味がないさ。どうせ俺は全部仲間に話す。秘密なんて作らない主義だからな」


その言葉にジェシカは胸の奥がざわつく。鋭く、しかし誠実で隙がない。


その時、アンジェロッテが駆け寄ってきた。カーヴェルの腕に甘える少女の姿を見て、ジェシカの瞳が揺れた。

「……子供がいたのか」

「いや、実の娘じゃない。両親は病で亡くなった。だから俺が代わりに育てている」


カーヴェルが優しく少女の髪を撫でる。その姿はあまりに自然で、強大な魔導士というより一人の父親のようだった。ジェシカの胸はさらに重くなる。この人に、あの王の無理難題を伝えねばならないのか――。


覚悟を決め、ジェシカは口を開いた。

「カーヴェル……国王陛下はあなたを召し抱えたいとおっしゃっている」


「やっぱりそうか」

「わ、解かっていたのですか!」


「当然だろう? 一人の死者も出さずに三万を排除したんだ。普通の王なら俺を欲しがるさ」


図星を突かれたジェシカは言葉を失った。その眼差しは暗い影を落とし、ただ返答を待つしかなかった。


カーヴェルは静かに口を開いた。

「いいだろう。ただし条件がある。王国が攻められた時に救援に向かう“客将”として迎えてくれ。ただ侵略戦争には加担しない」


ジェシカは思わず息を呑んだ。まるで出口のない迷路に一筋の光が差したようだった。これなら王命も果たせるし、彼の信念も守れる。――やはり、この男はただ者ではない。


カーヴェルはさらに彼女を見据えた。

「……俺が断ったら殺す気でいたか? そういう命令を受けただろう」


ジェシカの背筋に冷たいものが走る。全てを見透かされていた。彼の知識と経験、そして何より鋭い洞察力――自分は完全にその掌の上で踊らされているのだ。


「それを承知で承諾するのですか」

「つかさが王の脅威にならなければ、それでいい。俺に目を向けさせれば、つかさは普通に過ごせるからな」


その言葉を聞いた瞬間、つかさの目に涙が溢れた。自分を犠牲にしてまで守ろうとしている。嬉しくもあり、切なくもある。相反する感情が入り混じり、胸を締め付ける。


ジェシカもまた、その心情を正確に読み取ってしまった。自らの犠牲を厭わず、仲間を救う。その覚悟の深さに、胸の奥が痛んだ。もしこの男が拒絶していたら、私は――本当に殺すことができただろうか。そんな葛藤が渦巻き、答えを出せぬまま彼女はただ黙り込むしかなかった。


――その夜、村の空には月が浮かび、しかしジェシカの心は重い雲に覆われたままだった。


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