キーホルダー
他人より物覚えが悪く向上心が薄かった僕にとって私立幼稚園のカリキュラムはどのプリントも難問だった。朝教室に入ると落ち着き払ったアイツが座っている。幼稚園バスの時間が他の子たちと違うらしく、いつも登園時間が早い。
帰りのバスに乗ろうと急いでいるところも見たことがない。「よお!昨日はデカいぬいぐるみでベッドをぶん殴ってたらしいな!」母親同士で仲が良いらしく僕の家での素行はアイツに筒抜けだ。アイツはヒーロー番組が好きで前はヤドカリ怪人の話をした。今日は亀怪人の話に始まりヤマアラシ怪人まで行ったところで自由時間が終わってプリントが配られた。
僕が真剣にプリントに向き合うたびに担任の伊藤先生の機嫌は悪くなる一方だ。そんな時答えを教えてくれるのがアイツだ!見事正解だったが先生は睨みつけながら「わかるじゃない!なんでわからないフリするの!」と怒鳴った。
アイツに助け舟を求めたが先生の怒りは収まらない。「先生がお話ししてるでしょ!なんでそっぽ向くの!」僕は黙って時間が過ぎるのを待つしかなかった。すると年少で指折りに計算が早いめぐみちゃんが先生を呼んだ。
今日も全問正解だったらしく、先生はめぐみちゃんを芸を覚えた子犬のように褒めちぎった。
午後の活動になると他に友達がいない僕はアイツのところにいった。先生の説教なんてなかったかのように落ち着き払って座っていた。
僕を見つけると「折り紙やろうぜ。先生からもらってきてくれよ」と簡単に言う。今さっき怒られたばかりの先生のところに物をねだりに行く勇気がなかったので昨日使った折り紙を一生懸命伸ばした。アイツは頷きながら「うん、使えそうだな」と明日も使うことを想定して鶴ではなく折る回数が少ない紙飛行機をチョイスした。
アイツの指示で僕が折る。なぜかアイツは紙に触りたがらない、戦いごっこも嫌いみたいだったが僕も嫌いだったのでちょうど良かった。
この前もヤマアラシ怪人の役をやったばかりで筋肉痛だった。しばらく遊ぶとアイツが折り紙に飽きてしまった。どうやら鶴を折りたいらしい。「新品の折り紙をなんとかして……」僕は決心して先生から新品の折り紙をもらいに行くことにしたが、すぐに後悔した。
「勉強もできない、先生の言うことも聞けない!食べるのも遅い!なのに折り紙だけは2枚くださいってか?!アンタ1人に!いい加減にしてよ!今なんの時間?折り紙を折ってもいいとは言った!でも飛ばしていいなんて先生一言も言ってないでしょ」先生の怒号混じりの金切り声を聞いて半泣きでアイツのところに戻ると今度はアイツが決心した。「しょうがない、気は進まないけど……アレやるか」
翌朝の教室にも僕より先にアイツが落ち着き払って座っていた。「よお!アレに向けて作戦会議だ!俺は引き算に専念する!お前は1+1=2だけを覚えろ!」1同士に個体差があるのではないかと考えている僕にとって数字の世界の不条理さはまだ理解できなかった。
「なんで?とかじゃない!とにかく1+1=2だ!覚えろ!」そして時間が来た。午前の計算問題のプリントは僕たちが一番最初に提出し、半分近く正解だった。めぐみちゃんが真っ先に不正を疑ったが構わず「おりがみ♫おりがみ♫」と小躍りする僕を見て狙いがわかった伊藤先生が「なによ!もう!」と渋々折り紙を渡した。午後の活動でアイツに鶴の折り方を教わりにいくと、やはり落ち着き払って座っていた。
「細長い三角形!いやそれは紙飛行機作る時のやつ!」鶴を折る上で重要なひし形を折る手順がわからず折り鶴は早々暗礁に乗り上げた。アイツが先に飽きて計算問題の反省会を始めた。1+1=2しかわからなかった僕はアイツの話を羨望の眼差しで聞き入った。
「やっぱり引き算が苦手でなぁ、半分近く間違ったもんな。鶴も折れなかったし。でも良いんだ!お前が頑張ってくれたから!そうだ!いいもんやるよ!ドラゴンのキーホルダー!眼が真っ赤に光るんだぞ!カッコいいぜ!」鶴を折れなかった申し訳なさが勝って、そのキーホルダーを最初は遠慮したがその日のうちに素直に欲しくなってしまった。
「大丈夫だよ!母親同士が仲良いからさ!じゃ明日の朝の2時な!」明日の昼の2時が楽しみだ。
翌朝母親に叩き起こされると困惑した様子でいくつか質問された。「なぁにこれ?」母親の手にはマッシブな角が生えたドラゴンの頭部を模ったキーホルダーが握られていた。
僕は今日の昼2時にキーホルダーをもらう約束をしていたことを母親に話したが当然質問で帰ってきた。「じゃあなんで今リビングのテーブルにあるの?!夜中誰か来たの?!まさか1人で出てないでしょうね?!」今まさに母親がキーホルダーを受け取ったと推測していた途中だったので母親が知らない時点で僕は答えを持ち合わせていなかった。さらに追求は続く。
「その子は?なに君なの?バスは一緒なの?いつから仲が良いの?」僕は何一つ質問に答えられなかった。アイツが誰なのか?いつから転園してきたのか?最初からいたけど自分が気が付かなかっただけなのか?いや、一つだけ確かなことがあった、アイツが乗るバスの時間は他の子たちと違うのを僕は覚えていた。本題にはおそらく関係なさそうなせめてものアイツのバスの情報を母親にたどたどしく伝えたが、それすらも母親を混乱させた。「幼稚園バスの出発時間はみんな同じ!あのバスは通るルートが全部違うの!だから幼稚園の車庫にバスがたくさんあるの!時間なんて少ししか違わないわよ!」僕は狼狽えながら母親同士が仲が良いことを指摘したがそれも無駄だった。
「あの幼稚園でママ同士の友達なんてバスが一緒のめぐみちゃんママくらいよ!この前の下着泥棒といい、この頃なんか………気味が悪いわ」2人は放心状態になりながら支度をし僕は幼稚園バスに乗った。母親が付き添いの先生に何かを話していたがアイツに聞きたいことが多すぎて今の僕には気に留めている余裕がなかった。
朝教室に向かう途中の廊下でアイツと鉢合わせしたが心配になるほど落ち着きがなく、興奮した様子でこちらを睨んでいた。
「しまったなぁ……枕元に置いとくんだった。サンタさんってスゲェな!あと!昼じゃなくて朝の2時って言ったろ?!お前の家遠いからさ、一番自由に動ける時間じゃないと無理なんだよ!やっぱあの時間は力の入り方が全然違う」そんなことはどうでも良かった。どうやって家に入ったのか、僕の好奇心の全てがそこに向けられていた。それを察したアイツは落ち着き払った様子で淡々と質問に答えた。
「窓から投げたんだよ」最近立て続けに下着泥棒にあった母親が窓を開けておくはずがない。玄関も同様だ。
「ポストに入れた」今朝の母親は僕と言い合いをして放心状態だった。普段からポストを見に行くほど几帳面ではない。
「普通に玄関が開いていた!違う?じゃあお前の母親が出てきた!そうだよ!母親同士が仲良いって前に話したろ?」質問ばかりで流石に可哀想になった僕はヤマアラシの怪人の話に話題を変えた。しばらく談笑していたが突然アイツが改まって転園の話をし始めた。今日か明日、とにかくすぐらしい。
「もう…大丈夫……だよな」
帰りの時間になりアイツは僕を見送ってくれた。名残惜しくいつまでも手を振った。アイツが自分の乗るバスに急ぐ様子は最後までなかった。
僕がバスを降りると付き添いの先生が母親に手紙を渡していた。母はそれをきちんと読むとバスが行ったあと僕の目をしっかりと見て優しい声で伝えた。「いい!幼稚園で仲が良かったその子はイマジナリーフレンドっていうんだって!そのくらいの歳の子なら珍しくないんだって!」今朝のケンカの続きがしたくなかった僕は納得していなかったが大きく頷いた。ドラゴンの頭部を模ったキーホルダーはスイッチを押していないにもかかわらず両眼は真紅を放っていた。
あれから数ヶ月経っても僕の問題児ぶりは相変わらずだった。あまりに揉め事ばかり起こすため見兼ねた母親は僕を保育園へ転園させた。当の僕はといえばヤマアラシ怪人がどうやって人を襲うのかばかり考えていた。
登園初日、自己紹介を終えてレクリエーションを楽しんでいるとあっという間に自由時間が来た。新しい友達に折り紙を取ってくるよう頼まれた僕はふくよかな先生に丁寧に懇願した。
「折り紙ね〜!1枚じゃ足りないか!」と友達の分と合わせて4枚も持たせてくれた。僕は大きな金切り声をあげて咽び泣き嗚咽した。ふくよかな先生は笑いながら僕を抱き抱えた「大丈夫よ!大丈夫!ほら、折り紙しわくちゃ!」僕は自分の居場所を見つけた、救われた気持ちになった。その日以降ドラゴンの頭部を模ったキーホルダーは光らなかった。