8.癒やしの薬と小さな危機
魔導車が静かに停まり、扉を開けた瞬間、森の匂いが押し寄せてきた。
湿り気を帯びた空気と、土の匂い。
背の高い針葉樹が空を遮り、昼過ぎだというのに、森の中はほの暗い。
「ここが、《森の境界地帯》……」
俺は周囲を見回す。
木々の合間に伸びる踏みならされた獣道、低木の影には、見慣れないキノコや草がちらほらと生えていた。
「はい、これ。採取用のカマ」
ノラさんが、ぽふんとした手つきで道具を手渡してくれる。
くまの着ぐるみのフードを被ったまま、慣れた足取りで先を歩いていくその後ろ姿は、まるで森の妖精のようだった。
「ダイトくん、【回復草】はね、細長くて先っぽがちょっとだけ赤くなってるの。あとで見本も渡すね〜」
「ありがとう……頑張ってみます」
ムギさんとエドさんは、周囲の警戒をしながら少し離れた場所へと向かっていく。
俺はノラさんに案内される形で、しばらく獣道を進んだ。
そして、少し開けた場所で、目的の草を見つける。
「これ……間違いない、かな?」
しゃがみ込み、慎重に地面から引き抜く。
赤みがかった葉先から、ほんのり薬草らしい香りが漂う。
「おぉ〜、ばっちりだよ〜!」
ノラさんがぱちぱちと手を叩く。
その無邪気な笑顔につられて、思わず頬が緩んだ。
そのときだった。
――ガサッ。
木々の奥から、乾いた枝を踏む音がした。
ノラさんがピタリと動きを止め、視線を森の奥へと向ける。
「……っ、下がって、ダイトくん」
ノラさんが小さく言った瞬間、茂みの影から何かが飛び出した。
それは、子犬ほどのサイズをした獣――鋭い爪と牙、まだ未成熟ながら、目には獰猛な光が宿っている。
「魔獣の、幼体……!」
ノラさんは素早く腰のポーチから小さな瓶を取り出す。
そして、それを手のひらに投げつけ――
「――《スパークフラッシュ》!」
閃光とともに、爆ぜるような音。
魔獣は光に驚いたように後ずさるが、完全には怯まなかった。
直後、ノラさんの足元へ跳びかかる――!
「っ……!」
ノラさんは身を翻してかわすが、鋭い爪が足首をかすめる。
「ノラさん!?」
「……だいじょぶ〜。でもね、ちょっとだけ、痛いかも〜……」
ノラさんは無理に笑ってみせたが、くまの着ぐるみの足元、スーツと地肌の隙間から、赤いものがにじんでいた。
魔獣の幼体が茂みに戻ったのを見て、俺はすぐにノラさんの元へ駆け寄る。
とっさに取り出したのは、今朝、自分の手で作った最低品質の体力回復薬だ。
これで、本当に効果があるのか――その不安はあった。
けれど、今はそれしかない。
「これ、使ってください。俺が……作ったやつですけど」
「えへへ〜……ありがと〜、ダイトくん」
ノラさんは瓶を受け取り、一気に中身を飲み干す。
数秒後、うっすらと肌の血の気が戻り、傷口の出血もわずかに収まってきた。
「……ちゃんと、効いてる。すごいよ、ダイトくん」
ふわりと微笑むノラさんの顔が、着ぐるみながらほんの少し照れているように見えた。
(……作って、よかった)
俺の胸に、ささやかな達成感が広がる。
だが、安心する暇もなかった。
――バキッ!
「……まだいるっ」
再び、茂みの奥から動く気配。
魔獣の幼体は、すでに体勢を立て直し、今にも飛びかかろうと牙を剥いていた。
「ダイトくん、後ろにっ!」
ノラさんが叫ぶと同時に、俺は反射的に前へ出る。
採取用のカマを握りしめたまま、目の前に腕を広げるようにして立ちはだかる。
(でも、俺じゃ――)
緊張が全身を縛る。
動けないままの俺をかばうように、突然、背後から重い足音が鳴った。
「ったく、目を離すとこれだ……!」
怒鳴り声と共に、エドさんが駆けつける。
彼の手にあったのは、装備チェックのときに見かけた金属製の棍棒。
「おりゃあっ!!」
短い助走とともに振り下ろされた一撃が、魔獣の横腹に直撃する。
ゴキッという鈍い音とともに、魔獣の身体は宙を舞い、茂みの奥へと吹き飛んだ。
そのまま姿を見失ったものの、うめき声や足音は聞こえない。
即死ではなかったが、追撃するほどの脅威でもなさそうだった。
「……ふぅ。やれやれ。やっぱり重装備で来て正解だったな」
肩で息をしながら、エドさんがこちらに向き直る。
「ノラ、大丈夫か?」
「へーき〜、ちょっとだけ切れただけだよ〜。ダイトくんの薬、ちゃんと効いたし〜」
くま耳を揺らしながら笑うノラさんの姿に、エドさんが少しだけ眉を下げる。
「……そっか。じゃあ、もう少し奥には気をつけて行くぞ。いいな?」
俺とノラさんは、同時に小さく頷いた。
「……さて、と。もう一仕事、だね」
ノラさんがそう言って、ぴょんと立ち上がる。
怪我の跡はまだうっすらと残っているが、表情は明るい。
「……無理しないでくださいね」
「だいじょぶ〜、このくらい、慣れてるから〜」
俺は苦笑しつつも、さっきの薬が本当に役に立ったことに、改めて実感が湧いていた。
少し休憩を挟んだ後、俺たちは3人で、改めて回復草の採取を再開する。
同じ草でも、葉の色や香りが微妙に違い、品質がわかれているらしい。
ノラさんの解説を聞きながら、俺は一つひとつ確認してポーチへと収めていく。
そんな中、後方から聞き慣れた足音が聞こえてくる。
「おつかれ〜!って、わ、もう結構集めてるじゃん?」
ムギさんだった。
軽快な足取りで近づいてきて、腰に手を当てながら笑っている。
「ムギさん、どこにいたんですか?」
「ん〜、実はずっと見てたよ。遠くからだけど、何かあったらすぐ飛び込むつもりでね」
そう言って目を細めるムギさんの表情には、ほんのりとした安堵が浮かんでいた。
「……あの魔獣の幼体、やっぱりこのあたりに出てきたか。最近、報告が増えてるんだよね〜」
ふとノラさんの方を見ると、彼女もまた、魔獣の気配を警戒するように、静かに森を見回していた。
――そして。
「……でさ。エドさん、最初に魔獣の声聞こえたとき、めっちゃ小声で“やべぇの来た……”って言ってたんだけど~」
ムギさんが、声をひそめながらも嬉しそうに暴露する。
「ば、ばか! 言うなっての!」
エドさんが思わず声を荒げたが、ノラさんは「ふふ〜」といたずらっぽく笑い、俺もつい吹き出してしまった。
そんな和やかな空気の中、俺たちは森を後にした。
――――――
クラブハウスに戻ったのは、夕暮れ前。
採取した素材は、裏手の加工部屋へと運び込み、それぞれ品質の確認と仕分け作業を行った。
「これ、わりといいやつ〜。こっちは……う〜ん、普通かな〜」
ノラさんは手慣れた様子で仕分けを進めていく。
俺の採取した草の中にも、いくつか上質寄りのものが混じっていたらしく、軽く褒めてくれた。
「ほんと、手先器用なんじゃない?ダイトくんって」
「……まだまだです。でも、なんか、楽しかったです」
「それならよかった~。また一緒に行こ〜ね〜」
最後にエドさんが今日の素材の記録を済ませると、それぞれの作業もひと段落した。
俺は荷物をまとめ、クラブハウスを後にする。
「じゃあ、今日はこのへんで」
「おつかれ〜、気をつけて帰ってね〜」
「道中、気を抜くなよ。たまに変な奴もいるからな」
3人に見送られながら、俺は宿のある区画へと歩き出す。
空はすっかり橙色に染まり、街の鐘楼が静かに時刻を告げていた。
宿に戻った俺は、簡単に道具の手入れを済ませ、ログアウト操作を実行する。
ゆっくりと、意識が白い霧の中へと沈んでいった。
(……今日は、少しだけ前に進めた、かもな)
そんなことを思いながら、《VOIDLINE》四日目が終わりを迎えた。
――――――
空間がひび割れるように消え――現実の空気が、背中を撫でた。
視界が暗闇からぼやけた光に切り替わる。
俺はすでに『MindPort』の中で上体を起こしていた。
(今日は……悪くなかった)
ゆっくりと足を外に出し、冷えた床に素足をつける。
張り詰めていた感覚がじわりと溶け、ようやく“現実”に戻ってきたと実感する。
端末を確認すると、ログイン時間は8時間15分。
だが、身体の疲労も、心のざわつきも、初日ほどではない。
いつものように配信ログが届いていた。
【配信アーカイブ:第4回】
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コメント:41
(……増えてるな)
コメントタブに指が触れかけて、そっと止まる。
今、必要なのは“評価”じゃない。“記録”だけでいい。
ちらりと、小窓を開く。
──〈ノラかわいすぎ問題〉
──〈薬、意外と効いてたな〉
──〈地味だけどいい配信かも〉
短く、目に入った三つだけ。
それだけで、少しだけ胸が軽くなった。
(――また明日、だな)
俺はそっと端末を閉じ、灯りを落とした。