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3.ハニアサルンへ

「シートベルトはちゃんと締めてね!」


 快活な声に促され、俺は慌てて左肩越しにベルトを引き下ろす。

 日本と同じ要領で金具をカチリと固定すると、革張りのシートが背中を優しく支えた。


 車内は近代的なようでいて、ダッシュボードやドアの内側には、節目のある木材が組み込まれている。

 どこか懐かしさすら感じる作りだ。

 古風だが、野暮ったいわけではない。


 車が滑るように静かに走り出す。

 日本車と比べても、エンジン音は驚くほど小さい。


(……これが、この世界の車か)


 混乱と好奇心が入り混じる中、運転席の女性がふと口を開いた。


「そういえば自己紹介がまだだったね。私はムギ。半年前からこの街を拠点に傭兵やってるの。君の名前は?」

「……ダイト・ヤナグレイヴです。よろしくお願いします」


 まだ状況を飲み込めず、ぎこちなく名乗る俺に、ムギさんはすぐに朗らかな笑みを返した。


「よろしく、ダイトくん。私は気軽にムギさんって呼んでくれていいからね。――さて、早速だけど……おじさんから何か教わってたりする?」

「いえ、ほとんど何も。名前を聞かれて、そのままいきなりワープさせられて……」

「なるほどね。……やっぱり、あのご老人、最近雑になってるって噂は本当だったかぁ」


 ムギさんが小さくため息をつきながら、ハンドルをゆるやかに切る。

 タイヤが石畳を踏みしめ、車体が軽く揺れた。


「最近さ、新規の“渡り人”が急増してるの。それで追いつかなくなって、対応がおざなりになりがちって話は聞いてたけど……ホントに放り投げすぎでしょ、まったく」


 ぼやきながらも、彼女の運転は安定していて、どこか頼もしい。


 この世界の空気も、他の渡り人たちの存在も、俺にはまだ掴みきれていない。

 今はただ、ムギさんの言葉に耳を傾けるほかなかった。


「んじゃ、今すぐ教えとくべき大事なことからいくよ。アイテムボックスとスマホ。これ、超重要だから」

「アイテムボックスと……スマホ、ですか?」

「そう。“アイテムボックス”って、心の中で唱えてみて?」


 言われた通りに、俺は心の中でその言葉を思い浮かべる。


 次の瞬間――視界の隅に、透けたウィンドウのようなものがふわりと現れた。


(これは……本当に出た……)


「それが君専用の異空間収納。中は時間が止まってるから、食べ物を入れても腐らないし、重さも感じない。今は10枠しかないけど、いずれ増やせるようになるからね」


 現実のような異世界でしかなかったが、改めてここがゲームの世界であることを思い知らされる。


「次にスマホ。これは渡り人だけが持ってる通信アイテムなんだ。連絡先を交換した相手と電話やメッセージができるし、写真や動画も撮れるよ。魔物の記録にも使えるし、チャットグループもある」

「チャットグループまで……確かにスマホ、ですね」

「しかも『Magical Tube』の配信管理もできる。コメントも見れるけど……うん、あれは見ないほうが精神衛生にはいいかも」


 ムギさんが苦笑する。

 どうやら彼女には、苦い経験があるらしい。


 ふと気がつけば、車はすでに石造りの建物が立ち並ぶ街並みを抜け、広大な草原へと差し掛かっていた。

 窓の外には、一面に広がる緑の絨毯のような草原がどこまでも続いている。

 舗装とは名ばかりの、ところどころに小さな凹凸が残る簡素な道をタイヤが踏みしめるたびに、微かな振動が車体を揺らした。

 草原のど真ん中を、機械の塊が滑るように進んでいくのは、どこか現実味のない、不思議な感覚だ。


 そしてまた、再び静寂が訪れる。

 ムギさんは気さくで話しやすいタイプだが、それでも初対面ならではの微妙な距離感がある。

 空気が重たいわけではないが、妙に静かだ。


 目的地まではまだ時間がかかりそうだと感じた俺は、今度は自分から口を開いた。


「今は……どこに向かっているのでしょう……?」

「あっ、そうだった!」


 俺の問いかけに、ムギさんはハッとしたように声を上げた。


「今向かっているのは、ザツェル聖王国の城郭都市ハニアサルンだよ」


 ――ザツェル聖王国。

 この辺りでは最大の国家らしい。


「城郭都市……ですか?」

「うん。堀とか城壁とかで囲まれていて、防衛を第一に考えられた街。いわばこの辺りの“最後の砦”ってやつだね。……ちょうどこの辺に――あっ、窓の外を見てみて」


 言われるがままに目を向けると、遠くの地平線に沿って、数軒の木造の家が点々と並んでいた。

 その周囲には、風に揺れる背の高い草や、枯れかけた畑が広がっている。

 洗濯物らしき布が一本のロープにかけられたまま風に舞い、人気のない静けさが辺りを包んでいた。


「あれは……村、ですよね?」

「そうそう。あの辺りには、ああいう農村がいくつも点在してる。野菜や小麦を育ててる人たちが暮らしてるんだ。でも、見ての通り塀も柵もないでしょ?防御の機能がないんだよ。だから何かあったときは、皆してハニアサルンに逃げ込むことになってるの」

「……なるほど」


 合理的だ。

 経費削減の意図もあるのだろうが、危機に備えた仕組みとしては理にかなっている。

 魔物が存在するこの世界で、命がどれほど重く扱われているかはまだ分からない。

 けれど、こうして逃げ込む場所を整えているだけ、まだ“守ろうとする意思”があるだけ、マシなのかもしれない――そんな感覚を覚えた。


「ところで……人の気配がしないような気がするんですが」


 村の姿が次第に近づいてくるにつれ、ふと気になってきた。

 家はある。畑もある。でも、人だけがいない。

 さっきの街もそうだった。

 妙に静かで、違和感が残っていた。


「うーん、そうだねえ……」


 ムギさんが少し言い淀む。

 言葉を選んでいるのか、何かを思い出したのか――表情がほんの一瞬、曇った。


「今はね、みんなハニアサルンに避難してるんだ。一ヶ月くらい前に、渡り人の一部が――ちょっと、問題を起こしちゃってね」

「なるほど……あまり詳しく聞かないほうがいい話、でしょうか」


 俺は慎重に言葉を選んで訊ねる。

 ムギさんが最初に言い淀んだ理由が、なんとなく分かった気がした。


「ううん、別に隠すつもりはないよ。……ただね、今聞くよりは、この世界をもう少し知ってから聞いてほしいなって思っただけ」

「知ってから、聞いてほしい」

「そう。実際にこの世界を“生きて”みないと、判断が難しい話なんだ。何が正しくて、誰が間違ってたのかっていうのは――いつだって一面じゃ語れないからね」


 彼女の口調は穏やかだったが、目の奥に揺れるものは、冗談の延長には見えなかった。

 それは、ひとつの戦場を通ってきた者の静けさのようで、俺にはまだ背負いきれない重さがあった。


 何事も外から口を出すのは簡単だ。

 けれど、当事者として必死に選び取った結果が、どうしようもなく苦いものであることもある。


(……俺はまだ、そこに立っていない)


 確かにこの世界に来たばかりで、地面は確かに足元にあるけれど、心はまだ現実についていけていない。

 当事者としての資格を持つには、まだ俺は――あまりに外野だ。


「さっ、もう少しでハニアサルンが見えてくるよ!」


 沈みかけた夕日が車内に長い影を落とす中、暗くなりかけた車内の空気を振り払うように、ムギさんが明るく声を上げた。


 窓の外に目をやると、草原の向こうに、うっすらと灰色の輪郭が浮かび上がっている。

 最初は地平線の延長かと思ったが、徐々にそれは明確な形を帯びてきた。


「……あれが、ハニアサルン……」

「うん。ほら、よく見ると城壁の上に旗が見えるでしょ。普段は一万人も住んでない街なんだけど、今は五万人以上が集まってるって話だよ」

「五万人も……!?」


 何もなかったはずの大地に、突如として現れた人工の巨構――それはまさに、想像した通りの城郭都市だった。


 延々と続く灰色の石壁、その中央に鎮座する分厚く装飾の施された鉄扉の門。

 遠目にもその威容は圧倒的で、俺は思わず息を呑む。


「……すごい、確かに“最後の砦”ですね」

「そのとおり。あの街はね、この地域で一番古くて、一番多くの戦いをくぐり抜けてきた場所なんだって。だから人も、物も、そして色んな運命も集まってくるの」


 ムギさんの声には、どこか感慨のこもった響きがあった。


 そして車は、徐々に城壁の門へと向かっていく――。



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