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8話

「餌だ」


 パゴスは首を横にしてミニトマトにかぶりついた。ケースを掃除したから居心地はいいはずだ。その代償に反田(そりだ)の手はカメの糞や食べ残したエサで汚れてしまった。だがもう慣れた。

 始めの頃は手が汚れないように意識していたのだが、その意識はもうない。むしろ自分の手が汚れた分だけカメが喜ぶと思っている。


 今日もルーティンは終わった。今日も反田は学校へ行くつもりはないが、どこかへは行くつもりだ。

 ただ昨日と同じコースじゃつまらない。別なコースをパゴスと共に散歩しようと考えていた。

 昨日は久しぶりに元クラスメイトと会った。皆相変わらずの様子だった。

 カメのケースの中を見る。三つあったミニトマトはすでになくなっている。

 そろそろ家を出ようかと考えていたとき、玄関のチャイムが鳴った。


 顔を玄関へと向ける。当然、目を凝らしても扉の向こうに誰がいるかはわからない。なぜこんな行動をとっているかというと、反田の部屋のチャイムはここ半年の間、一度も音を鳴らしていないからだ。

 配達や出前を頼む環境はないし、近所付き合いもない。ならばこんな朝にチャイムを押したのは誰なのか。

 玄関へ歩き出す。考えていても仕方がないから開けるしかない。


「おはようございます! 反田さん!」

「……」


 泡井真春(あわいまはる)。新入生で唯一名前を覚えた少女だ。

 扉を開けると笑顔を見せる彼女がそこにいた。

 反田は数秒固まった後、扉を引く。


「ちょっと待ってください!」


 泡井がすばやく扉を掴んだ。


「なんの用だ」

「閉める前にそれを聞いてください」


 少し焦った様子でそう言った後、泡井は言葉を付け加えた。


「一緒に学校行きましょう!」

「今日は休みだ」


 即答した。その返答に泡井は「え」と小さく声を発し、スマートフォンを取り出した。


「休みじゃないですけど……。ネットで調べても特別な日ではなさそうですし」

「俺は不定期に休める」

「そんなルールないですよ?」

「俺が決めた」

「学級委員長の権力でそのルールは無効にします! そして学級委員長として登校することを命じます!」

「これは俺のルールだ。お前が干渉することはできない」

「はいはい。早くいきますよ」


 呆れた様子で反論をかわされ、反田はドアノブを持っていない手を泡井に握られた。

 流れるように男心を掴むことは泡井の強みなのかもしれないが、今日はそれが裏目に出たようだ。


「ひャッ!」


 次の瞬間、泡井が短い悲鳴を上げ、握った手を離し、さらにはスマートフォンを反対の手から落とした。理由はなんとなく想像できた。

 カメ掃除で汚れた反田の手を握ったからだろう。気持ちの悪い感触があったに違いない。

 反田が落ちたスマートフォンを拾おうとすると泡井にストップをかけられた。


「いいです! 自分で拾います!」


 泡井はすぐさま片手でスマートフォンを拾い、もう片方の手に視線を向けた。


「な、なんですかこれ……。なんか臭くないですか?」

「うんこだ」


 反田の即答に泡井が怯んだ。


「え」

「うんこだ」

「うん……こ?」

「ああ」

「なんの……ですか?」

「パゴスだ」

「パゴスってなんですか?」

「カメだ」

「……なんか一瞬安心しかけましたけど、汚いことには変わりないですよね?」

「ああ」

「ちょっと手洗わせてもらっていいですか? ていうか反田さんも一緒に洗いましょう……」


 泡井は靴を脱ぎ、遠慮なく部屋に入り手洗い場を見つけると速足でそこへ向かった。

 手を洗い終え、ポケットからハンカチを取り出す。


「早く反田さんも洗ってください」


 促されて反田も手を洗った。


「ふぅ。とりあえず落ち着きました。というか、反田さん、意外にもペット飼ってるんですね」


 純白なハンカチで手を拭きながら泡井は言う。


「ああ」


 泡井は和室に入るとカメのケースに目を向ける。


「この子がパゴスちゃんですか」


 そう言ってパゴスの頭へ指を伸ばす。するとパゴスは頭を甲羅の中へ引っ込めた。


「あ、隠れちゃいました」


 普段、反田がなにをしても首を引っ込めることはしないのだが、泡井が近づいたときから警戒する様子を見せている。

 反田以外の人間に慣れていないからじゃないと思う。泡井真春という人間に直感的に恐怖を感じているのだろう。


「違いますからね。私、結構動物に好かれますから」


 泡井も反田からどのような目で見られているのか察しているらしい。反田は聞き流し、こたつテーブルの前に腰を下ろした。


「一人暮らしなんですね」

「ああ」

「両親とは住んでいないんですか?」

「死んだ」

「……」


 突如沈黙が訪れた。


「……ほんとすみません」


視線を下に向けながら、小さな声で言った。心の底からの申し訳なさが伝わってきた。


「冗談だ」

「え」

「母親は海外を、父親は日本を飛び回っている。だから一人暮らしをしている」


 小さな拳が反田の二の腕にぶつかった。


「笑えない冗談言わないでください。私じゃなかったらドン引きですよ」

「そうか」

「というか立ってください。早く学校行きますよ」


 反田の横でしゃがんだ泡井がそう言った。


「気分じゃない」

「いつになったら気分になるんですか?」

「知らん」

「じゃあ、反田さんが行く気分になるまで私もここにいます」

「本気で言ってるのか」


 反田が顔を横に向けると思っていたよりも近い距離で泡井と視線が合う。


「なんですか、逆にご褒美でした?」


 笑顔で問いかけてくる泡井に対して、反田の表情はなに一つ変わらない。


「都合がいい。お前がどうやって俺の家を特定したのか知らないが、同じように俺の家に来る奴がいるかもしれない。お前が留守番をして、来た奴らを追い返せ。俺は散歩に行ってくる」


 泡井は肩をがくりと落とした。


「本当になんなんですか……。私は学級委員長として反田さんの家を先生に聞いて来ただけです。ですから他には誰も来ませんよ」


 泡井はしばらく呆れた表情を見せていたが、なにかを思いついたようで立ち上がり、またパゴスのケースのほうへ歩き始める。

 その様子を反田はなんとなく見ていると、泡井がパゴスを両手で持ち上げた。


「この子は人質です。返してほしければ学校へ来てください」


 甲羅に頭と手足を引っ込めたパゴスとの距離は泡井の足跡と同時に遠ざかっていき、扉が開く音が聞こえたかと思えばすぐに閉まる音が続いた。

 どうせすぐに戻ってくる、と思い五分ほど天井を眺めていた反田だったが、泡井が帰ってくる気配はない。仕方なく玄関まで行き扉を開けるが泡井の姿はどこにもない。

 随分と面倒な奴に目を付けられてしまった。予定を変更する必要が出てきたようだ。

 反田は学校へ向かうために歩き出した。



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