4話
暇。
反田の頭の中にはその文字が浮かんでいる。
昼休み、アパートに帰りペットの世話を終え、昼食も取った後で再度学校に戻った。上履きも忘れず持ってきた。
そして今、七時限目今日最後の授業を受けている。
教師の話を聞くのは退屈を極める。だから反田は百円ショップで買った握力を鍛えるための器具、ハンドグリップを持ってきて時間をつぶしている真っ只中だ。握力など鍛えても大した利点はない。
ハンドグリップを握っていない時間を楽だと思えるようにする、そのために握っているだけだ。
しかしすでに四時限分手を開閉させ指は震えている。
握力は限界だ。
反田はこれからの予定を決めることにした。予定を決めることは好きじゃないが、そうしなければ今年も留年になる。
まずは登校日だ。一原は週四で学校に来いと言っていた。反田はそれを不可能だと考えている。なぜなら気分が乗らないからだ。
三食週四でカレーを出され続けたら飽きるだろう。それと同じだ。
反田の記憶が正しければ出席の最低ラインは三分の二だ。一年の登校日数は、休日を引いて大体二百日だということを考えて計算すると、年間七十日は休むことができる。週に換算するとどれくらいだろうか。
数字が出るだけで考えることも面倒になってきた反田は適当に決めることにした。
週三でいいだろう。週の半分以上は予定に縛られない時間が必要だ。
とりあえずこれで出席数が足りずに留年はない。そうなれば一番の問題は課題だ。休んだ日の課題をどうするか。
反田は視線を隣の席の少女に向けた。必死にノートへ文字の羅列を書いている。
予定通り彼女に課題を見せてもらう方針でよさそうだ。
そんなことを考えている間にチャイムが鳴り授業が終わる。少女がノートを閉じて机の上を片付け始めた。
話しかけるなら今だ、そう反田は直感に訴えられる。
「おいお前」
隣の女はまた、警戒するように体を遠ざけながら反田へ顔を向ける。
「……なんですか?」
「俺は明日休みだ。課題が出たら明後日見せろ」
女は戸惑った様子を見せたがすぐに返事を返してきた。
「……別に大丈夫ですけど」
「そうか。ならば頼む」
学校でやることはもうない。手ぶらで来たからこのまま重荷もなく帰れる。
「じゃあな」
反田がそう言うと返事が返ってくる。
「さようなら……」
席を立ち廊下に出る。
一日中学校にいると調子が狂う。食べ過ぎて気持ち悪い感覚から満腹感を抜いたような、寝すぎて気持ち悪い感覚のような、これだというものはないが、体が慣れない疲れ方をする。
だが今日は乗り越えた。今、反田は悪くない気分だ。
そのまま階段を下がり下駄箱へ直行するはずだったが、半分降りたところで下から見覚えのある顔が見えた。
「帰るの早いですね~、反田先輩」
名前は確か、泡井真春だ。
名前を覚えるのが苦手な反田でも、なぜか覚えていた。
「あ、先輩呼びは変ですね。一応同学年ですから。反田さんに訂正しますね!」
一対一で話すのはこれが初めてだ。それなのにこんなにも積極的に来られると鬱陶しく感じる。
そもそもこの泡井真春という人間はどこか胡散臭い。特に根拠はないが反田の直感がそう警告している。
「ちょうどよかったです、副委員長として反田さんに手伝ってほしいんですよ」
「なにをだ」
「職員室に荷物運びです」
「俺はつまらないことはやらないと決めている」
泡井の横を通り過ぎかけたとき、続けて言葉を投げられた。
「そのつまらないことを女の子にやらせるんですか?」
「性別は関係ない。俺はつまらないことをやらない」
反田にとって男も女も関係ないのだ。ある意味、時代に適しているとも言える。
「はは~ん。そういうこと言っちゃうんだ。もしかしてかわいい子に話しかけられてイジワルしたくなっちゃたんですね?」
そんなことはない。ただ早く帰りたいだけだ。
「面倒なことはやらない。帰る」
すると泡井は寂しそうな顔を見せる。
「反田さんと一緒に作業したいと思っただけだったんですけど……ダメですか?」
その絶妙な上目遣いは数多の男に効果絶大のはずだ。
「ダメだ」
相手が悪い、反田には効かなかった。
そのまま反田が通り過ぎようとすると、手首をブレザーの上から掴まれる。
「可愛い女の子のお誘いは断っちゃダメなんです!」
細い指だが離す気がないのは伝わってくる。
どうやら一連の会話は意味を成さず、始めから反田には断るという選択肢が用意されていなかったようだ。
反田は掴まれた腕から泡井の顔へと視線を移す。そしてその顔をじっと見つめる。
「どうしました? 可愛くて見とれちゃいました?」
顔を少し傾けて泡井は言った。
「ああ、顔が整っていると思って見ていた」
ぽかんとした顔を見せた泡井の顔が徐々に赤くなる。
「反田さんって意外と口説いてくるタイプなんですね、完全に油断してました」
泡井は早口でそう言って顔を逸らす。
その隙に力が弱まった指から腕を抜こうとするが、それは失敗してしまった。
「私をこんなに動揺させといて、逃がすわけないじゃないですか。ちゃんと手伝ってください」
会話をしているうちに手伝ってやってもいい、そんな気分になっていた。
これが泡井のテクニックなのか、反田の異常な気分屋のせいなのか定かではない。
「わかった」
「急にずいぶんと素直になりましたね」
「気が変わった」
「まあ、私のお誘いは断れませんよね」
「ああ」
適当な返事と共に二人は再び階段を上がり、廊下を歩く。
「一時限目終わった後すぐに挨拶しに行こうと思ってたんですけど、私も入学したてで友達関係がいろいろ忙しくて行けませんでした。すみません」
笑顔で謝罪が飛んでくる。
「そうか」
そんなことはどうでもいい。すでに忘れていたが、反田が副委員長になったのはこの女のせいだった。だから聞いてみることにした。
「なぜ副委員長に俺を指名した」
直球に質問する。
「え、ダメでした?」
泡井は少し申し訳なさそうな表情をしている。いかにも作った顔だ。
「理由を知りたいだけだ」
「理由ですか? 反田さんが一番ドッシリ構えてたんですよ」
「それがどうした」
どっしり構えているつもりはないが、反田の遠慮のない一面を良く表現をしたらそうなるのかもしれない。だが、どっしり構えることと副委員長になることに関連性はない。
「あんまり言わせないでくださいよ。そういう人が好みなんです」
反田は泡井からはあざとさを感じていた。事実として泡井の顔は一般的に見れば可愛い部類に入るだろう。性格は知らないが学級委員へ立候補し、問題児である反田にも積極的に話しかけるほどのコミュニケーションの持ち主だ。多くの男から好意を持たれてきただろう。
だが、反田は自分を偽っているような人間があまり好きじゃない。それを言葉にする。
「俺はお前が好みじゃない」
「ンな⁉ ……ゴホン!」
反田の言葉にかなり動揺しているようだが足は止めない。泡井はわざとらしく咳払いをして、正面を向いたまま話し始めた。
「べつに私だって反田さんのことは恋愛的な意味で好きじゃないですよ! ただそういう人と一緒に仕事したほうが気分的にいいと思ったんです! 反田さんだって女の子と一緒に何かやるんだったら、かわいい子のほうがいいと思うんじゃないですか?」
泡井の言うことも理解できなくはないが、反田にとって顔なんてどうでもいい。
「思わない」
「……そうですか。じゃあこの会話は終わりです」
そんなやり取りをしているうちに職員室前に着いた。
職員室も一年教室と同じく、二階にある。学校が始まったばかりだからか人通りは多い。
反田は周りから視線を感じていた。
自身に関して良くない噂が多いことを知っている。この視線はそのせいだろう。
「女の子とトラブって停学をくらった」とか「教師をぶん殴って退学一歩手前まで行った」とか「テスト中突然暴れだした」とか。
あくまでも噂だ。留年によりそれに拍車がかかったという訳だ。
泡井を見るが特に気にする様子はない。敢えて気づかない振りをしているのだろうか。
「ええっと、ここですね」
職員室の扉の横に扉がないロッカーが一年生から三年生までのクラス二十四個分と、予備が数個ある。
授業で使用するプリントなどを教師がここに置くことで、学級委員や日直がクラスに持っていくというシステムだ。一年四組のロッカーを見るとかなりプリントが溜まっている。
「じゃあこれ持ってください」
泡井は三分の一程度プリントを抱えると残りを見てそう言った。
反田はそれに従い残りのプリントを両手で持つ。ハンドグリップの影響で手全体に疲労があるがこの程度なら問題はない。そして歩き始めた泡井の横を歩く。
「反田さん身長高いですし、横で歩いてると私専属のSPみたいでいいですね」
「そうか」
「何センチあるんですか?」
「百八十三だ」
「かなり高いですね~」
他人の身長など興味はないが一応同様の質問をしてみることにする。
「お前は」
「私ですか? 百六十ないくらいですかね~」
「体重は」
言い切らないうちに泡井は顔を向けてきた。引くというよりは心配しているような顔だ。
「それ本気で聞いてます?」
「ああ」
反田にしてみれば身長と体重はセットだ。その認識は小さい頃から変わっていない。
「じゃあ一つ、私が教えてあげますね。女の子に体重は聞いちゃダメです」
どういう理屈で聞いてはいけないのかわからないが、女に体重は聞かないほうがいい。素直にそれは頭に入れておくことにした。
「わかった」
教室に入り、教卓の上にプリントを置く。教室内には数人、言動からして泡井と仲のいいグループであろうクラスメイトが残っていた。
「真春ー。仕事まだー?」
そのグループの一人がそう言った。
「もう終わるからちょっと待ってー」
泡井はそう返した後、小声でこう言った。
「ありがとうございました。これからよろしくお願いしますね」
最後に微笑みを見せて、そのグループのほうへ小走りで向かっていった。
学級委員としての仕事が終わってすぐ、反田は教室を出て階段を降りそのまま校門を抜ける。
すでに夕日が顔を出し始めていた。
体のウズウズが限界に達しそうだ。授業中はほとんど座っている。そのせいだ。
もう我慢ができない。
反田は目的地もなくただ全力で走り出した。