最強勇者は猫が好き
旅人だろうか。
土色のフード付きマントで全身を覆った細身の人影が、路地裏にしゃがみ込んでいた。
みゃうん
その視線の先から、愛らしい鳴き声がする。
短毛で薄茶のハチワレ柄。あどけない顔つきは、生まれて一年も経たない仔猫だろう。
首輪には月長石らしき乳白色のちいさな宝石が埋め込まれているから、飼い猫のようだ。
「やあ、きみはドコのおうちのコかなあ?」
旅人は目深にかぶったフードの下から、まさしく猫撫で声そのもので話しかける。
うんみゃ?
そして首をかしげる仔猫と同じほうに顔を傾け「んはああカワイイねえ」と惜しみない賞賛を贈っていた。
──何でも、この街には世界を滅ぼし得る「秘宝」が存在するらしい。
憶測なのは、それを知る住人がひとりとしていなかったからだ。
秘宝がこの街に在るわよという女神の託宣が巫女に下っただけで、それがどんなもので、どこにあるのか、街の長老たちも誰ひとり見当が付かない。
この一年で、女神の託宣により選ばれた人間の勇者【豪剣】アルザス、エルフの勇者【烈弓】レドリンド、ドワーフの勇者【瀑斧】ドウラム──人類最強の三人の勇者たちも、魔王の前にあえなく散っていった。
口にはせずとも、誰もが思っていた。もう女神は当てにならない。この世界は見放され、このまま終わりゆくのかもしれない。
「──さてと、どうしたもんかな」
立ち上がった旅人の足元で、仔猫が唐突にフーッと威嚇の鳴き声を発し、そのままどこかへ走り出した。
「ああっ! ごめんごめん、驚かせちゃったかなあ……」
旅人の心底から申し訳なさそうな声を尻尾で受けとめつつ、仔猫は荷物や棚や、窓枠をぴょんぴょん巧みに足場にして、またたく間に屋根の上まで駆けのぼってゆく。
そのまま屋根伝いにしばらく青空の下を駆け抜けた先で、ふたたび威嚇しながら青い空を見上げた──そのずっと先に、深紅の長衣をまとった老人が浮かんでいた。
老人は空中で何ごとかぶつぶつ呟いている。年輪のように無数のしわが刻まれた青銅色の肌と、瞳のない血色の目。たてがみのような白髪の内側から伸びる、長大でねじくれた二本角。
明らかに人ならざる者の姿──すなわち魔族だった。
「やはり秘宝は行方知れずか。まあよい、手はず通り街ごと灰燼に帰すまでよ」
ニタァリと邪悪な笑みを浮かべた老人──老魔は、長衣の内側から抜きはなつ皺だらけの右手を、高々と天に掲げた。
「ボルゾ、ヴァズ、ドゥブルク……焔獄鏖滅球……!」
呪言と共に頭上に現出するは、彼の身の丈の三倍以上ある巨大な火球。
十年前。かつてこの大陸を分割統治していた三王国が、同時に魔王軍の襲撃を受け、そして滅びた。うちひとつ、強固な結界で守られた魔導国家を一夜で焦土と化したのは、上空から降り注ぐ真紅の火球だったという。
いま老魔の掌上で燃え盛るミニチュアの太陽のような火球が、まさしくそれだった。
この街の規模なら一発でも充分に、魔導国家と同じ末路を辿らせられるだろう。──そう、この老魔こそ十年前に三王国の一角を唯一騎で滅ぼした張本人、煉獄法師ゾルフェルドである。
「……あまり強火に過ぎても、苦しみ悶える人間を眺める愉しみがなくなるか」
火球をひとまわり小さくしたところで彼は、ふと眼下から聞こえる小さな威嚇に気付く。
「身の程をわきまえぬゴミが」
唾を吐くように言って火球を、屋根の上で鳴く仔猫に目掛け、悠然と送り出すのだった。灼熱の滅びを内包したそれは、ゆっくりと落下してゆく。
数秒後にはそこから溢れた紅蓮の炎が、街のすべてを覆い尽くすと確信して邪笑う法師の眼前で──火球が、割れた。
「──は?」
中心から、縦にきれいに真っ二つに割れた。
生じた隙間から見えたのは、屋根の上で仔猫を左腕に抱え上げた、さきほどの土色マントの旅人だ。
マントの下から、革鎧さえまとわない鈍色のジャケット姿がのぞき、右腕には無造作に抜き身の太刀をぶら下げている。
「おまえ──ねこさんに向かって、よくも」
先ほどの猫撫で声とは打って変わった、凄みのある声。
同時にそれは、耳に心地よく通る美声でもあった。
その左右で、状況的に旅人がその手の太刀で両断したとしか思えない火球は、空気に滲むように霧散する。
──そんな、馬鹿な。起爆させず真っ二つに斬るなどという芸当が、人の身で出来るものか。
しかもそのまま消滅したということは、火球の真芯にある小指の先ほどの魔力核ごと両断したということだ。
あり得ない。まぐれだとしか思えない神業だ。しかし。
驚愕し動揺しつつも法師は、瞬時に相手を全身全霊で滅すべき障害と認定する。
その冷徹な切り替えができてこそ法師は、永きにわたって魔王軍最強の大魔法使いの座に君臨してきたのだ。
「ヴァルヴァ、ザザム! 焔獄惨千弾!」
法師の全周囲に灯る、数百数千の小さな火球。
一粒ずつがオーガ一匹を焼き殺す火力を秘めたそれが、異なる軌跡を描きながら高速で旅人に殺到し、一瞬で塵も残さず焼き尽くしていた。
──まとっていた、土色のマントを。
「は!?」
間の抜けた声を上げる法師の目の前に、旅人の姿はあった。身長の数倍を軽々と跳躍して。
灰となったマントのフードの下から露わになるのは襟足長めの銀髪、奔放に遊ぶ毛先の中から髪と同色の三角形の耳がピンと顔をを出す。
美しい弧を描く眉の下には底なしの深さを湛えた青灰色の瞳、真っすぐ通った鼻筋と薄い唇。
──魔族である法師でさえ、つい見惚れてしまうほどの美女。
ふしゃーっ!
その左腕で、仔猫が法師を威嚇する。それで法師は我に返る。
「何だ、きさまは!?」
ぶら下げていた右手の太刀の切っ先を、天にゆらりと掲げつつ旅人は、朝夕の挨拶のような気軽さで答えた。
「──通りすがりの、ただの勇者さ」
その無造作な一挙手だけで既に──かつて王国ひとつ一夜で滅ぼした魔王軍最強の大魔法使い・焔獄法師ゾルフェルドの体は、正中線から僅かもずれることなく真っ二つに両断されていた。
「……もしや、お前が……」
両断されたまま発した法師の最期の言葉は、なぜか恍惚としていて、そして彼の体は左右に裂けるように炎上し、塵となって消えた。
その塵の降るなか、路地へふわりと身軽に降り立った彼女──人類最後にして最強たる獣人族の勇者【閃刀】リュミナ・アージェントは、腰の鞘に太刀を納めて、足元に仔猫をそっと降ろす。
「あぶないからね、ああいう変質者には近付いちゃだめだよ」
唇の端から白く尖った犬歯をちらり覗かせつつ、猫撫で声で仔猫に言い聞かせると、何事もなかったように軽い足取りで歩き出すのだった。
見送っていた仔猫は、しばらくしてから「みゃあ」とひとつ鳴き、とてとてと彼女の腰に揺れるフサフサの尻尾を追いかけていく。
その首輪に揺れる小さな白い宝石こそが、世界を滅ぼし得る秘宝────ゆえに不死の魔王をも斃し得る希望であることは、まだ誰も知らない。