1-30 それ以上の大義
死んだ。
死んだ。
長月侑が。
人が、目の前で死んだ。
殺された。
霊獣と同じ眼をした、あの男に。
「なんで………………」
なんで、人間が霊獣と同じ眼を持っているの。
いや、それ以前に。
テロリスト襲撃と霊獣事件。
なんの共通点も無いはずの二つの事象が、なぜか今目の前で繋がっている。
………どういうこと?
まさか、あいつらがあの霊獣事件の犯人だとでもいうの。
分からない。
敵の目的が。
あいつらが何者なのか、まるで分からない。
「………………でも、」
今自分が何をやるべきなのかは分かる。
当然、結束様を守ることだ。
私は、冬鳴明音。如月の傘下である冬鳴家の人間として、主人の身を命に変えてでも守る義務がある。
なら、今すぐこの部屋を抜け出して結束様の元へ駆けつけなければならない。
「……………………」
袖裏には、いつでも戦闘態勢に入れるよう、霊符が仕込んである。
左の袖裏には三法印に使う3枚の霊符と、5枚の小陣符。
右の袖裏には5枚の剛弾符、それと…………
「…………………」
転界符。
自分の認知している場所ならばどこでも瞬間移動ができる、万能霊符。
これがあれば、奴らの不意を突いてここを抜け出せる。
ゆっくり、ゆっくりと。
敵に気付かれないよう自然に、慎重に、右手の袖口へ手を伸ばす。
そして、指先が転界符に触れそうになったところで手が止まる。
………………止まって、しまう。
「…………………………っ」
私がここを抜け出せば、敵は必ず追ってくる。
私を、殺しにくる。
もし…………霊獣と同じ、あの男の眼が、私に向けられたら。
「………はっ…………………はっ……………」
あの目を見るだけで、思い出してしまう。
夢と思えるほどに現実と乖離した、あの日の光景を。
「……はっ………………はっ………………はっ………………」
「おい………どうした?」
街灯もない闇夜の中で、病室の窓から差し込む月明かりは霊獣の悍ましい形相をはっきりと写していた。
薄紫色の半透明な体。
両手両足から生える7本の指と、鋭く伸びた蹄。
蛇の様に長く、先端で2つに裂かれた細い舌。
そして、虹色に鈍く光った泡のようなものが浮かぶ、大きく見開かれた眼。
死と恐怖を体現したかのようなその姿は、思い返すだけで体がすくんでしまう。
「……はっ………はっ………はっ………はっ…………」
「聞こえてないのか……………おい、おいって」
体が揺れているような感覚。
誰かにゆすられているのだろうか。
五感が麻痺してしまうほどに、脳内が恐怖に侵食されていく。
「もういや!…………死にたくない…………死にたくないっ……………!」
「…………お前……………………」
必死に胸を押さえているのに、動悸は激しくなっていくばかり。
「怖がらないでいいよ。もう誰も殺さない。今のはただの見せしめだから。あーっと、お前らぁ、こいつの死体処理しといて」
乙塚が、何か喋っているのが分かる。
なのに、何を喋っているのか分からない。
上手く聞き取れない。
まるで地平線の彼方から響くような、ぼやけた声に変換されて耳に届く。
「はっ、はっ、はっ、はっ………………」
脳裏にはっきりと浮かぶのは、視界を覆う程の図体で私を見下ろす、霊獣の顔。
はっきりと聞こえてくるのは、絶望に体がすくむ私の元へ、一歩一歩近づいてくる、霊獣の足音。
それらが目に。耳に。
焼き付いて離れない。
「なんで…………なんで……………」
『落ち着け』
「…………っ!?」
突然脳内に声が響く。
その低い一喝で、私の脳内に浮かんでいた恐怖が一気に消し飛ぶ。
ハッとなり目を開く。
左手の甲に霊符が貼られており、薄紫の暗い光を放っていた。
そして、右手は…………
「………えっ!!?」
何故か、隣の男にギュッと握られていた。
私は反射的に手を振り解こうとする。
「…………………」
だが彼は何も言わず、手の力を強めて離さない。
「っ……ちょっ!」
『無駄に動くな。喋るな。霊符がバレない様に、ゆっくりと後ろに手を回せ』
また、脳内に声が響く。
「…………………!」
その声に、私は隣に立つ男、初空七瀬を見る。
彼は何も言わず、私の方すら見ていない。
他の生徒達と同じように、長月侑を殺した乙塚を見て唖然としている。
いや、唖然としているように見える。
「…………………」
手の甲に貼られた霊符は『鳴線符』。
声を発さずに意思疎通を行うことができる、通話用の霊符だ。
片方が霊術を行使し、もう片方が霊符を持つ事で通話が成り立つ仕組み。
つまり、向こうからの一方的な発信ではなく、こちらからも声を送ることができると言う事だ。
私は、彼の言う通り左手を後ろに回しながら、彼と同じように前を向く。
『………何、この手?ていうか、なんで通信霊符使ってるの』
『安心しろ。ちゃんと貌淋符で探知避けしている。奴等にはバレない』
「………………」
探知避けしながら、鳴線符で通話している?
それはつまり、自分だけでなく私も貌淋符の範囲内にいるということだ。
彼は当たり前のように言っているが、これはそう簡単なことではない。
貌淋符の本来の使用目的は「使用者が探知に引っかからないようにすること」なので、使用者の体だけを透過被膜が包むよう設定されている。
この設定を無理矢理変えるには還相符を使うしかないが、貌淋符の霊力透過被膜はかなり薄く、私の体ごと包むように透過被膜を延ばすとなると、その操作難易度はひどく高い。
彼がやったことを例えるなら、人間一人が入るシャボン玉を慎重に吹いて膨らませるようなものだ。
それだけ繊細な作業が必要だからこそ、普通は使用者の体だけを透過被膜が包むように自動設定されており、貌淋符は還相符で操作する事を想定されて作られていない。
「……………!」
………そうか。
だから、彼は私の手を握っているのか。
二人の体を物理的に繋ぐ事で空間認識が楽になり、透過被膜を操作しやすくする。
………………。
…………自分で言っておいてだけど、体を物理的に繋ぐって言い方…………
『………おい、なに下向いてる。本当に落ち着いたか?』
『だっ、大丈夫だから!何にも繋がってない!』
『……………は?』
『ああーっ、えっと………』
『………まあ、いい。とにかく、もうここを抜け出そうなんて思わない事だ』
『……………え?』
『………うん?なんだ、それではぁはぁ言ってたんじゃないのか。転界符を使おうとしてただろ』
『…………!』
一瞬何を言っているのか理解できなかったが、つまりこういうことか。
彼は私が転界符を使おうとしていることに気づいて、私がこの地下室を抜け出して結束様を助けに行こうとしていると考えた。だが、私が心ここに在らずで霊獣の事を回想している様子が、彼の目には「結束様を助けに行けば自分も殺されるかもしれない」と葛藤しているように見えた。
だから落ち着いた私を見てここを脱出することを諦めたと思ったのか。
転界符を使って脱出しようとしていたところまでは合っているが、その先は彼の見当違いだ。
いや………乙塚の目を見て霊獣を連想してしまったから、一概にも違うとは言えないが。
だが………………それでも。
『私は……………まだ、諦めてない』
『…………は?』
『結束様を守るのが私の使命であり、義務でもある。そこに私の感情は介在しない』
『………やめろ。死にに行くようなものだぞ。つーか………そもそも、転界符じゃ地下室は抜け出せない』
『……………!』
『ここの試験場はシステムが起動した瞬間、解術水晶によって試験場内外の霊力が遮断され、内と外ではいかなる霊術も干渉し合えなくなる。システムの管理室であるこの部屋も同じ影響下だ。つまり、転界符じゃ外は愚か、触媒石板で仕切られた試験場にすら転移出来ない』
『………………知ってたんだ、試験場の仕組み』
『父上がこの試験場を任されている調律師の一人だからな。一応、ライセンスも持っている。ていうか………その口ぶり、お前も知っていたのか』
『地下室の設計の視察任務を受けた関係でちょっとね』
『…………なるほどな。じゃあお前が転界符を使おうとしてたのは……』
『うん。ちゃんと、ここを抜け出す為』
『………そうか、分かった。でも、やっぱりやめとけ』
『……………………』
『外が今どういう状況なのか全く分かっていない。情報もなしに抜け出すのはあまりにも危険すぎる。それに、これだけ大掛かりな事を仕掛けてきた相手だ。緻密な計画と、相応の準備をしてここを襲っている。お前一人がしゃしゃり出たところで、奴らにとっては目障りな蝿が一匹現れたようなもんだ。………………行けば死ぬぞ、お前』
『…………だから、何』
ずっと前を向いていた彼が、横目で私を見る。
私は、目を合わせないまま続ける。
『死ぬから、何?今私にとって大事なのは結束様を助けることではない。結束様を助けに行くこと。その結果私が死ぬとか生き残るとか、結束様が死ぬとか生き残るとか、そういうのは行動の判断材料にはならない。私が冬鳴である限りね』
もちろん、結束様に死んでほしい訳ではない。
むしろ、従者であるはずの自分を見下げることもなく、友達のように接して下さった結束様を自分の命を賭してでも助けたいという思いがある。
だが、これは感情とは別の問題だ。
これだけ大きな事件が起きれば、ここで私がとった行動は如月と冬鳴の後世に語り継がれる。
例え結束様を助けられなかったとしても、「主人の元へ駆けつけた」という結果が残る。
逆にここで動かなければ、冬鳴は如月の窮地に対して保身の為に動かなかった家だとレッテルを貼られてしまう。
だから、私は結束様を助ける。
「助けたいから助ける」のではなく、「助ける」という前提の上に「助けたい」思いがただ乗っかってるだけだ。
『……………お前、絵に描いたような邦霊の犬だな。感情よりも、家のために動く。そこに自分の生死すら問わないとか』
『………今の言葉。褒め言葉で言っているんじゃないとしたら邦霊への離反ね』
『……………………』
彼は黙ったまま、前を見る。
だが、返事に興味は無い。
話は終わりだ。
私は、転界符が仕込まれた右腕に左手をゆっくり近づける。
そして、そのまま指を袖口に入れようとしたところで、
『…………………』
彼は、私の右手を自分の方に寄せて、霊符に触れられないよう手から腕に持ち直し、袖口を強く握る。
『……………力、抜いて』
『…………………』
『何なの?何であなたは私を止めようとするの』
『……………いいよな、お前は。感情を越える様な理由があって』
『は?』
『だって、本当は死にたくないんだろ?』
『……………当然でしょ、私だって人間。人並みの感情は持っている。死にたい訳がない。でも、私は冬鳴家の人間として………』
『違う。そんなもんじゃない』
『…………は?』
『ただ「死にたくない」んじゃない。お前は「とてつもなく死にたくない」んだ。過呼吸になりながら、口に出してしまうほどに』
『……………!!』
『でもお前は、主人を助けると言った。助けたい思いがあるのに、そんな感情すら関係なく、助けると言ったんだ』
『…………………』
『俺も…………そんな理由があれば、もっと……………』
『…………………』
私の手を握る彼の手が、なぜか、少し震えている。
…………分からない。
彼が何を言っているのか。
彼が何を考えているのか、分からない。
『……………俺も、行く』
『……………えっ』
私はその言葉に耳を疑い、思わず彼に視線を向けてしまう。
『俺もここを抜け出して、お前を手伝う』
『………何で、そんな』
『………そんな驚くことでもないだろ。俺だって邦霊の人間だ。結束様を救い、テロリストに一矢報いることが出来れば、初空家の名も上がる』
『……………………』
『それに、ここで生き残れば実力の証明になる。これはでかいぞ。もしかすると、邦霊十紋のどこかから、養子になるよう声がかかるかもしれない』
『………………………………それは、』
……………それは、理由?
と言おうとして、やめる。
きっと、これを聞くのは無粋だ。
さっき彼は、「感情を越えるような理由」が欲しいと言った。
ならきっと、ここを抜け出す口実を用意しなければいけない程に隠したい感情が、彼の中にあるのだろう。
それが何なのか、知る由もないけれど。
『…………分かった。私としても、仲間がいる事に越した事はない。2人で、抜け出そう。脱出方法は予定通りに』
『……………さっきまで脱出に反対だったのに、いきなり俺も行くとか言い出して、疑問に思わないのか』
『疑問に思うほど、あなたに興味がない』
『……………そうか。助かる』
『じゃあ、行こう』
『待て』
『……?まだ何かあんの』
『転界符は俺が使う。敵にバレないように転界符を使うには、貌淋符の中で転界符を解符した後、最速で貌淋符と切替起動する必要がある。それは、今貌淋符を使っている俺の方がやりやすい』
転界符は、「転界符に触れている物質」なら1.0728×10㎥の範囲に収まる限りどんなものでも転送することができる。
つまり、体が触れ合ってさえいれば一枚の転界符で人間を2人送ることも可能だ。
『……… そう。私としては霊力を温存できるからありがたいけど』
『よし』
彼は、ブレザーの裏に手を入れる。
そこに転界符を仕込んでいるのだろう。
『やるぞ。20秒後に転界符を起動する。その間に心の準備をしろ』
『………………』
そんなこと言って、自分もまだ手が震えてるじゃん。
と言おうとする前に、解符をしているのか、彼のブレザーの隙間から薄紫の光がごく僅かに漏れる。
それと同時に、彼の手の震えが止まる。
覚悟を決めたということだ。
そして、私も目を閉じる。
『……………………後、10秒』
………10秒。
10秒後に、始まる。
命を賭けた戦いが。
何があっても、逃げる訳にはいかない。
結束様は戦っているのだ。
なのに従者である私が、逃げていいはずがない。
『……………後、5秒。4、3、2、1』
霊獣の時は、ダメだった。
足がすくんで動けなかった。
だから………今ここで、心に誓え。
恐怖に屈するな。
最後まで諦めるな。
自分が死ぬその瞬間まで、結束様を死なせない為に頭を回し続けろ。
『………0』
その合図と共に、私は目を開いた。




