五章 歪んだ日常 24
「…………」
鍵山は自らの荒い呼吸で鼓膜が破れそうな気分だった。目の前の死体から必死に目をそらそうとするが、金縛りにあってしまったかのように体が動かない。
「動け……動いてくれ」
何度も自分にそう呼びかける。そうするうちに少しずつではあるが体が言うことを聞いてきた。
「……逃げ……逃げるんだ」
緋川の死体に背中を向け、地面を這うように屋上の出口へと向かう。
「早く。あそこだ。もう少し」
出口の扉まで、あと数メートル。すぐ目の前の扉が鍵山には希望に見えた。
あと少し。あと少し。
「あとすこ――」
――ドクン。
鍵山は蛇に睨まれた蛙のようにその場で固まってしまった。呼吸が荒くなる。自分の心臓の音が耳の奥まで聞こえてきた。全身から脂汗があふれ出し、体がべたつく。
――振り返ってはいけない!
頭に突然そんな言葉が浮かぶ。だが、鍵山の体はその言葉に反し、まるで何かにとりつかれたかのように向きを変えていく。
――だめだ! 振り返るな!
全身で警鐘が鳴り響く。だが、体の動きは止まらない。
徐々に――徐々に視界が背後をとらえていく。
――だめだ! だめだ!
「う……わぁ……」
喉の奥からはそんな言葉しか出なかった。やがて視界は完全に背後の光景をとらえてしまった。
「あ、あ……」
鍵山は口を大きく開ける。だが肝心の言葉が全然出てこない。
「あ、あぁぁ……」
鍵山の視線の先――満月に照らされ、何かのステージのように照らされたその場にあるもの。
そこには――緋川が立っていた。