序章 天国と地獄③
「ふざけんな、てめえ!」
不良が右腕を振り上げ、殴りかかる。
コートの男は、微笑んだまま、その拳を見つめる。余裕の表情だ。
――あの表情! やっぱり腕に自信があるんだ! じゃないと、あんな表情はできないよ。信じる者は救われるって本当だったんだ!
彼がそう確信し、安堵の表情を浮かべ、目を閉じて息を吐く。と、同時、
バキッ!
「ごふっ!」
鈍い音と、間抜けな呻き声が、聞こえた。
不良がやられたのだろうと思い、目を開けてみると――思わず我が目を疑った。
そこには、地面に倒れた奴に、容赦無く蹴りをぶち込む男がいた。
容赦無い。
本当に容赦無い。
これでもかと言わんばかりに、容赦無い。
殺す気かと言わんばかりに……しつこいのでやめよう。
とにかく俺はその容赦の無さを言いたいのだ。
まるで鬼のような、それでいて楽しむような顔をして、容赦無く人を蹴る。
なんか人の裏側を見たようで、重苦しい、不快な物が、体の中に生まれる。
――嫌な感じだ……自分は、ああはなりたくないな……。
その様子を見て、ただそう思う。
他人の苦しみを娯楽と一緒にしたくない……。
彼がそう考えていると、男が不意にこちらを向く。
その男の眼を見て、彼は言葉を失う。その、どす黒い眼を……。
――し、しまった! 悠長に考えてる暇は無かった!
彼はその場から逃げ出そうと思い、後退りしようとする。
――く、くそ! なんで脚が動かないんだよ!
彼は自分の震える脚を見る。
そして何度も頭の中で動けと命令する。
しかし脚は言うことを聞いてくれない。まるで体の動かし方を忘れてしまったかのようだ。意思とは反対に、その場から動くことが出来ない。
そんな彼の様子に、男は口元に端を吊り上げ、笑みを作る。
そして、ゆっくりと彼に近付きながら、男は口を開く。
「金出さねえなら、次は手前の番だぜぇ、こら」
男、もとい不良はそう言った。
――そう、先程までボコボコにされていたのは、不良の方ではなく、コートの男の方だったのだ。弱かった。実に弱かった。俺でも勝てるんじゃないのかと思うほど弱かった。小学生でも勝て……しつこいな……止めよう。
ちなみにそのコートの男は今、鼻と口からだらだらと血を流し、倒れている。情けない……情けなさすぎる。
そして今、不良の矛先は彼に向いている。
不良は彼をじっくりと、まるで舐め回すかのように見る。彼はこの眼を知っている。この前テレビで見た。ハイエナがチーターの食べる肉を奪おうと集まり、そして今か今かと眼をたぎらせる。その姿に似ていた。あるいは俺が、それなりに金持ちだと知り、交際を求めてきた隣の席の女子の眼にも似ていた。
――あぁ……あの時の俺は若かった……。七十万近く貢がされたのも今となってはいい思い出。てか、やばい……やばすぎる……。このままじゃ、俺のなけなしの財産が奪われてしまう! か、神様助けて! もう調子のいいこと言わないから! 俺、あの人がやられているのを見ても逃げなかったんだよ! えらいと思うよ、俺は!
彼はとにかく自分を褒めた。褒めまくった。
すると、その自画自賛が届いたのか、不良の足が止まる。
「手前、まだ殴られてえのか?」
不良は視線を足元に向ける。そこには不良のズボンの裾をがっしりとつかむ一つの手があった。その手の主は勿論一人しかいない。
「うぅ……殴られるのは嫌だなぁ。僕、基本的に痛いのは嫌なんだよね」
「知るか!」
不良は、裾をつかむ手を振り解き、男の顔を踏み潰そうと脚を上げる。
すると、男は口元に微笑を浮かべ、コートの内に素早く手を入れる。