一章 ためいき⑤
「ひどいなぁ、僕は轟のことを心配して言ってるんだよ~」
本気で心配してんのかよ、こいつ……。
とりあえず孝二は口を開く。
「ああ、悪かったな。でも俺のことは、ほっといてくれ。プール休んだのも、水があまり好きじゃないからなんだよ」
「水が嫌い? どして?」
「いや、それは……」
優の問いに孝二は変に口ごもる。
その孝二の反応に、優は耳の上をぽりぽりとかきながら、唸る。
「う~ん、水を恐がるか~、それって狂犬病に良く見られる症状だったような~」
「犬……」孝二は顔をしかめる。
「殴るぞ……」
「いやいやいやいやいやいや」
優は、顔に胡散臭い笑みを浮かべたまま、おどけたように首を横に振る。
「別に馬鹿にはしてないよ~。狂犬病は人間にも感染するんだよ。でもたしか人間の場合は発病すると、物事に極めて過敏になり、狂躁状態となって、動物では目の前にあるもの全てに噛みつくことになって、これを狂躁型って言うんだっけ? その後、全身麻痺が起こって、最後は昏睡状態になって死亡しま~す」
「…………」
「しかも潜伏期間は、長く一定せず平均で一~二ヶ月を要するけど、時には七年間の例も報告されてるんだって~」
「……なぁ……」
「んで、人は水を飲む時に、その刺激で咽喉頭や全身の痙縮が起こり苦痛で水が飲めないことから「恐水症」とも呼ばれているんだって~。だから轟も気をつけないと~」
「おい」
「うい?」
なおも変わらない拍子で肩をすくめて見せる優。
「お前さ、いつも思うけど……」
孝二はため息混じりに口を開く。
「なんで、そういうことに詳しいの?」
「ん~~、轟ぃ~~」
優は右腕を孝二の肩に回し、体を近づけてくる。もう一度言うが、こいつは男だ。
「轟さぁ~、もうちょっとひねりのある質問して欲しかったよ~」
「……なんだよ、ひねりって……」
とりあえず近づけてくる優の顔を、手で押しやりながら尋ねる。
「ん~~、例えば『そんなに詳しいってことは、さてはおまえ曲亭馬琴マニアだね』とかさぁ~」
「狂犬病からそこに行くまでの過程が理解できない。てか、曲亭馬琴って誰だよ」
「えぇ~~知らないの~。あの有名な『南総里見八犬伝』を書いた人なのに~」
「いや、八犬伝は知ってるけど作者までは……って共通点、犬だけじゃねえかよ」
その孝二のツッコミも無視し、優は語り始める。
「それでその南総里見八犬伝は全九十八巻百六冊、日本古典文学史上最長の雄編なんだよ。中身は戦国初頭の関八州を舞台に、犬と夫婦になる悲運の姫君と、仁義礼智忠信孝悌の文字が浮きでる八つの霊玉を持つ、八人の若き武士たちが活躍する物語で~」
「おい」
「でも今は『読まれざる傑作』となっているんだって~。もったいないよね~」
「おまえは結局何が言いたいんだ?」
「それはね~」孝二の問いに優は笑みをますます大きくし、口を開いた。
「秘密ぅ~~」
とりあえず殴る。
だが、かわされる。
そんなこんなしていると昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「……終わりか……。次は古典……。あ~眠い」
「ふぅ、もっと轟いじりたかったなぁ~」
「…………」
とりあえず殴る。
だが、かわされる。