きくよ
百合音は妹の梅衣が苦手だ。
梅衣は生まれつきの多重人格である。百合音も梅衣も雨野家という特異な個性を持つものが生まれやすい家系に生まれた。それゆえなのか、百合音は人の心の声が聞こえ、梅衣は一人の体にたくさんの人の魂を持って生まれた。
百合音に聞こえる「心の声」というのはその人物が内心で思っていることという意味が主だが、梅衣は例外的な存在であった。まあ、梅衣の内心の声が聞こえるという意味では他と同じなのだが……梅衣の場合、たくさんの人が一度に喋るから、頭が痛くなるのだ。
多重人格というと解離性同一性障害という精神的な問題が作用して起こるものなのだが、梅衣の多重人格はそれではないのだ。梅衣の生まれた瞬間から梅衣の中にはたくさんの「ひと」が存在する。まだ自我もない赤子の頃から、梅衣の声は一人のものではなかった。梅衣は何も知らないはずなのに、なんでも知っていた。かと思えば、何も知らない無垢な子どもになったり。百合音の弟妹は皆個性的だが、梅衣には父も母も戸惑っていた。
それでも、時間が経てば、みんなそれに慣れてくる。それを普通だと思い、不便だと思わなければ、対応することができるのだ。
百合音にはとてもそんなことはできなかった。百合音には常に梅衣からたくさんの声が聞こえるのだ。ごちゃごちゃとしているのに、一人一人が何を言っているのか、聞き取れてしまう。百合音はその異能ゆえに、梅衣を好くことができなかった。
ただ、梅衣と生活するために、家族は百合音の力を必要とした。梅衣が今は「誰」なのか、正確に判別できるのが百合音しかいないからだ。
「ねえさま、ねえさま」
梅衣が金色の瞳で百合音を見上げてくる。百合音ははっとした。梅衣は今、「菊代」という人物になっている。
梅衣の人格……魂たちの中で、百合音を「ねえさま」と呼ぶのは菊代だけだ。菊代のときは他のみんなが静かになって、百合音はいくらか楽に梅衣と接することができる。
百合音は密かにほっと胸を撫で下ろしながら、梅衣を見る。
「どうしたの?」
「ねえさま、今日、ご用事?」
「ソカナさんのおうちに行くよ。梅衣も来る?」
「行くよ」
「じゃあ、お仕度しないとねえ」
「菊の手鞠も持っていく」
「そうねえ、手鞠さんのおうちだものね」
その日は手鞠ソカナという親戚の家に行く予定があった。近所から貰い物をしたので、そのお裾分けに。長居する予定はなかったが、梅衣はソカナを気に入っているから、すぐ帰ってくることもないだろう。
兄にそのことを報告すると、兄はお土産を増やした。梅衣にも一つ持たせる。
「これをソカナさんに渡すんだよ。神社に行ったときのお土産。御守りだから、渡し忘れないようにね」
「わかりました。にいさま」
いい子だ、と兄が優しく頭を撫でる。他の子ははしゃいだりするのだが、梅衣が菊代のときは黙って撫でられている。
百合音はそんな梅衣を不思議に思いながら、梅衣の手を引いて、手鞠家へ向かった。
「いらっしゃい、百合音ちゃん、梅衣ちゃん、菊代ちゃん」
「え」
ソカナの言葉に百合音が驚く。梅衣が来ることも知らせていなかったのに、梅衣がいて、しかも菊代であることを知っていたのだ。
「お邪魔いたします、ソカナさま」
梅衣がおかっぱの赤髪を揺らして丁寧にお辞儀をする。これが普段は姉に対して醜女だのと暴言を吐くのだからよくわからない。
ソカナに家に上げてもらうと、とてて、と奥から女の子が出てきた。ソカナの妹のアカネだ。アカネは生まれつき声が出ない。
アカネは百合音を見るなり、だだだっと突撃してきた。百合音はその勢いに負けてどったーんと押し倒されながら抱き着かれる。声の出ないアカネにとって、思っていることを聞き取れる百合音は筆談の必要なくコミュニケーションのとれる数少ない人間だ。
「こ、こんにちは、アカネちゃん」
『百合姉だ! こんにちは!』
「アカネ、百合音ちゃん荷物全部落としちゃったから一旦離れて」
アカネはあ、と気づいて百合音から離れる。ソカナの目を盗んで、梅衣にべーっと舌を出したのを百合音は見てしまった。何故だか、アカネは梅衣と仲が悪いのだ。といっても、人格が変わるとアカネのことを覚えていない者の方が多いので、アカネの一人相撲みたいなものである。
「これ、ご近所さんからのお土産のお裾分けです。こっちは白雀のお菓子、これは細石の旦那さんから、アカネちゃんに」
アカネがソカナを仰ぐ。ソカナはくすりと笑うと、開けていいよ、と告げた。
中から出てきたのは羽衣だった。
「綺麗な撫子色だな」
『ふふーん! 百合姉似合う?』
得意げに羽衣を纏うアカネを百合音は微笑ましく思った。
「うん、よく似合ってるよ」
『えへへ』
百合音には聞こえるこの無邪気な笑い声も、ソカナと梅衣には聞こえていないのだと考えると、少し切なくなるが。
『忌み子の家なんかじゃなくて、うちに来ればいいのに、百合姉』
「っ……」
こういう悪口が聞こえないのはいいことなのだろう。とはいえ、百合音はすぐ顔に出てしまうので、ソカナがん、と気づく。
ソカナが何かする前に、百合音とアカネの頭を撫でる者があった。あやすように、宥めるように、優しい手つきで二人を慈しむ。
「梅衣……」
『忌み子が触らないでよ……』
嫌そうな声をしつつ、アカネは大人しく撫でられている。梅衣の中の菊代の優しさがわかるのだろう。
「お茶を淹れます。白雀さんのお菓子、なんでしょうね」
「きくよ」
「ふふ、やっぱり季節のものなのかしら」
今は秋。白雀は老舗の和菓子屋だ。お茶にきっと合うだろう。
「ソカナ、きくよ」
「うん、お願い」
そんなことを思い出した。
「梅衣も、菊代ももういない……あの子がなんて優しい子だったのか、今更気づくなんてね」
菊代の名前は百合音が聞き出したものだった。「あなたは?」と尋ねたら、「きくよ」と答えたのだ。だから菊代と呼んでいた。
けれど、違った。菊代じゃなかった。あれはたくさんの魂の中で懸命に咲いていた梅衣そのもの……所謂、主人格だったのだ。
菊代の「きくよ」というのは「話を聞くよ」ということだった。梅衣の肉体にしがみつく魂たち一人一人に向き合って、話を聞いて、梅衣なりに取り纏めていたのだ。
「魂の数が多くて、菊代ちゃんの魂が摩りきれてしまうのは、そう遠くない話だった。魂魄という言葉があるけれど、あれは魂と肉体という意味で、それら二つが共にあって人間は成り立つという考え方だ。……でも、魂魄はどちらかが離れて消えても、別な魂が体を乗っ取れるわけではないみたいなんだ……他の人はそうとは限らないかもしれないけど、梅衣ちゃんは、たくさんの魂があって一人分っていう体質だった」
ソカナが寂しげに語る。
「人は蘇らないけれど、梅衣ちゃんは口寄せもできないだろうね」
「……」
ソカナの横合いから、アカネが花束を差し出す。
それは撫子の花だった。
『梅衣ちゃんは好きじゃなかったけど、菊代ちゃんはいい子だったからなでなでするんだ。もう手が届かないから、代わりに撫子をあげるんだ』
アカネの声に、百合音は涙した。
百合音も苦手だったけれど、もっとたくさん撫でてあげればよかった。かわいい妹だったのだから。
仏花の菊が、じっと撫子を見ていた。